狭き門

マタイ7:13-14

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7:13 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。7:14 いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。

 数多くの言葉が聖書から出て、一般に使われるようになりました。「狭き門」もその一つです。アンドレ・ジッドの恋愛小説の題名に使われ、よく知られるようになりました。「狭き門」は、辞書によれば、「競争者が多くて就職や入学などがむずかしいことのたとえ」とありました。そして「狭き門より入れ」とは「安易な方法を選ぶとそれなりの結果しか得られない。目的を達成するためにはそれ相当な努力をしなければならない」ことだとの解説がありました。けれども、この定義や解説は、イエスがここで言っておられることと違うように思います。イエスは、どのような意味で「狭い門から入りなさい」と言われたのでしょうか。この言葉は私たちに何を教えているのでしょうか。

 一、イエスに入門する

 最初に「門から入る」ということを考えてみましょう。きょうは、9月29日から開催されていた「ステートフェア」の最終日ですが、ここで言われている「門から入る」というのは、24ドルのチケットを買ってステートフェアのゲートから入るようなことではありません。ここで「門から入る」と言われているのは、入口から建物や敷地に入ることではありません。「入門する」という意味です。「入門する」とは、ある人の「弟子」になることです。ある教師、指導者の弟子となりたい者は、その人の家の門を叩くのですが、イエスはご自分の家を持たず、野外で人々を教えました。それで、イエスの弟子となりたいと思う者は、イエスが来られる場所にでかけて、弟子となり、イエスの行かれるどこにでもついていきました。イエスが「山上の説教」をなさったときも、野原の石の上に腰を下ろしたイエスのもとに弟子たちが集まってきました。そこには実際の門はありませんでした。誰でもイエスに近づくことができました。イエスのもとに行く門は、「狭い門」どころか、広く開放された門で、誰でも、イエスに「入門」することができたのです。

 イエスに入門するのに、難しい試験を受ける必要はありません。年齢、性別、社会的地位など、全く関係ありません。もちろん、入学金も授業料も要りません。イエスは「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります」(ヨハネ7:37-38)と言われました。「すべて」の人、「だれでも」が招かれているのです。実際、イエスのもとには「心の貧しい者」、「悲しむ者」、「柔和な者」、「義に飢え渇く者」、「義のために迫害されている者」が集まりました。彼らはイエスによって慰められ、満たされ、強められました。「あわれみ深い者」、「心のきよい者」、「平和をつくる者」へと変えられていきました。

 二、いのちへの道を歩む

 イエスは「狭い門から入りなさい」と言われましたが、イエスの門は、実際は、すべての人に開かれた「広い門」だったのです。なのに、なぜ、イエスはご自分の門を「狭い門」と言われたのでしょうか。それは、「人々の目から見れば…」、「人間的な判断によれば…」という意味です。

 イエスの名が知られるようになり、イエスの教えがポピュラーになったとしても、それは、貧しい開拓地ガリラヤでの、ごく最近の出来事に過ぎませんでした。エルサレムには祭司長たちがいて、神殿を支配していました。ユダヤの律法学者やパリサイ人たちは、長い歴史の中で築きあげられてきた宗教の伝統を誇っていました。民衆も、パリサイ人や律法学者が教えることにどんなに矛盾があり、無意味なものがあっても、その教えを守り続けていました。「昔から」、「大勢の人が」守ってきた教えに従うほうが、イエスの教えに従うよりはうんと楽で、仲間はずれにならなくて済んだのです。

 どの宗教にも、祭りや礼拝、日々の祈りや生活習慣があります。しかし、なぜこんな祭りをするのか、なぜこんな形で礼拝するのか、なぜこのような言葉で祈るのか、なぜ、このような生活習慣を守るのか、ほとんどの人はそのことを知りませんし、指導者たちもそれを教えません。昔から伝えられたことを繰り返すだけで満足しています。何も考えないで他の人がするようにしていればそれで良いのです。考えたり、決心したり、生活を改めなくて済むわけですから、たしかにそれは楽な道です。

 ですから、人々の目には、パリサイ人や律法学者の教えは「大きい門」に見え、そこから続く道も、「広い道」だと思われていたのです。しかし、そこには命がありません。イエスは「滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです」と言って、その大きな門も、広い道も「滅びに至る」ものだと言われました。

 イエスは、「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい」と言って、あらゆる人を招かれましたが、それとともに、「十字架を負って、わたしに従って来なさい」とも言われました。そう言われたイエスは、ご自分の十字架を背負って刑場に向かわれ、そこで命を献げられました。イエスがよみがえり、天に帰り、聖霊が人々に降って、福音がローマ帝国内に広がると、イエスの弟子たちはたちまち迫害を受けました。イエスを信じる多くの人が実際に十字架を背負って歩かされたのです。

 「十字架を負う」などと言われると、イエスの教えがたちまち「狭い門」、「細い道」のように感じてしまいます。けれども、それは、「十字架を負う」ことの意味を正しく理解していないからです。「十字架を負う」とは、苦しみや痛みを耐え忍ぶことではありません。様々な宗教では、これはしてはいけない、あれは食べてはいけないなどと、不自然な禁欲を強制します。難行苦行をしてからだを痛めつけることが敬虔なことだと思われています。しかし、イエスの教えはそうではありません。むしろ、自分のからだをいたわるように、また、自然の恵みや家族の愛を神の恵みとして感謝して受け取り、それを楽しむようにと教えています。信仰の道は、喜びの道なのです。

 イエスが「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)と言われた、その「十字架」とは、多くの人が考えているように、病気や、貧困など、自分に課せられた苦しみのことではありません。イエスが「自分を捨て、自分の十字架を負って」と言われたように、「十字架を負う」ことと、「自分を捨てる」こととは一つです。十字架は処刑の手段で、それは「死」を意味しますから、「自分を捨て、自分の十字架を負う」とは、自分を十字架で死なせるという意味です。もちろん、これはほんとうに死んでしまうことではありません。それなら、イエスが言われたように「〝日々〟、自分の十字架を負う」ことができなくなります。この「自分」とは、罪の性質を持つ古い自分のことです。まるで、自分ひとりの力で生きているかのように考え、世界が自分を中心に回っているように行動してしまう「自分」のことです。イエス・キリストを信じる者は、キリストによって変えられ、新しいいのちを受けています。日々に古いものに死に、新しい自分に生きる、それが「十字架を負う」ことです。

 十字架を負って歩む道は、新しい命に生かされる、「いのちに至る」道です。イエスの十字架のあとに復活がありました。復活のあとに昇天がありました。昇天のあとに聖霊の降臨がありました。十字架を負ってイエスに従う者は、イエスの復活の命を受けます。イエスが栄光のうちに天に上げられた、その栄光に与ります。イエスが「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます」(使徒1:8)と言われように、十字架の道は力を受ける道なのです。

 イエスを信じない人々が歩む道は、広い道に見えても、実際は、周りの人々の顔色を伺いながら歩む窮屈な道です。そこにはいのちがなく光もありません。しかし、イエスに従って歩む道は細い道に見えても、それは「いのちに至る」確かな道です。そこには光があって、誰も迷うことなく、確信をもって歩くことができます。私たちがイエスに入門したその「門」から続く道は「天の門」に至る道です。私たちは、希望をもって、天を目指して歩んでいるのです。その道が「細い」といわれているのは、イエスを信じない人々の目から見てのことであり、信仰の道は、ほんとうは、広々とした天につながるハイウェーなのです。

 三、門であり道であるイエス

 いつの時代も人々は、自分を喜ばせてくれるものに向かい、慣れ親しんだ道を選びます。現代はまさにそうです。真実が隠されて、こうしたらもっと自由になる、豊かになる、健康になると言われ、人々はますます神から離れた物の考え方、感じ方、また生き方をするようになりました。そんな中で、私たちも、どうかすれば、人々が「狭い門」、「細い道」と呼ぶ信仰の道を歩むのに自信をなくすことがあるかもしれません。そんなときは、イエスご自身が「門」であり「道」であることを思い起こしましょう。

 ヨハネ10:9でイエスは言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。」夜が明けると、羊飼いは家畜小屋の扉を開いて、羊を野原に連れて行きます。羊飼いは、草と水のあるところを探して羊を遠くまで連れていくこともあります。家畜小屋に帰れないほど、遠くまで来たときには、羊飼いは、石で囲んだサークルの中に羊を追いやります。そして、その入り口に座るのです。つまり、羊飼い自身が「門」となるのです。イエスが「わたしは門です」と言われたのは、ユダヤの羊飼いが実際にしていたことでした。この「門」から入りなさいと言われている「門」とは、イエスご自身なのです。イエスに身を寄せるなら、イエスご自身が「門」となって、信じる者を敵から、災いから守ってくださいます。ここに私たちの平安があります。イエスは私たちを「緑の牧場、いこいの水のほとり」に導いてくださる、まことの牧者だからです。

 またイエスは、ヨハネ14:6でこう言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」イエスがこの道を歩けと言われた道、それもイエスご自身なのです。

 ご覧いただいている画像は、川にかけられた橋が流され、住民が避難するとき、川の両岸にロープを何本か張り、そこに兵士たちがからだを寄せ合って伏せ、その兵士たちの背中を踏んで住民たちが川を渡っているものです。兵士たちが「人間の道」を作り、人々を向こう岸へと歩かせたのですが、イエスも、同じようにご自分を、私たちがその上を通って神に至る道となさったのです。イエスの十字架は、神と人との大きな断絶にかけられた道です。イエスは、文字どおり、ご自分のからだを、神への道として十字架で献げてくださいました。

 「わたしは門」、「わたしは道」、これ以上に力強い言葉はありません。いのちに至る門に入るのも、そこから天に至る道を歩むのも、自分の頑張りでできることではありません。イエスによらなければ、イエスを信じ、イエスに信頼し、イエスに従うのでなければ、できません。そして、イエスは、ご自分に信頼する者を助け、守り、喜びと感謝と幸いの大通りを歩ませてくださいます。賛美に「主にすがるわれに 悩みはなし 十字架のみ許に 荷を下せば 歌いつつ歩まん ハレルヤ ハレルヤ 歌いつつ歩まん この世の旅路を」(新聖歌325)とあるように、この週も、この信仰の道を歩み続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、イエスは、「いのちに至る道」と「滅びに至る道」の二つを示し、私たちに「いのちに至る道」を歩むようにと教えてくださいました。どの道を歩くべきかとの選択を迫られるとき、私たちに「いのちへの道」を示し、そこに導いてください。そのことによって、人々をこの道に招くことができますよう、私たちを助けてください。イエス・キリスのお名前によって祈ります。

10/22/2023