梁とちり

マタイ7:1-5

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7:1 さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。
7:2 あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。
7:3 あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。

 「山上の説教」は、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)との言葉で始まっているように、神が与えてくださる「幸い」と「幸いな」生き方を教えるものです。7章には、「幸いな」生き方について、具体なことがいくつか教えられています。イエスは何を教えようとされたのか、どうしたらその教えを実行できるのでしょうか。

 一、物事をさばく

 イエスは「さばいてはいけません」と言われました。「さばく」とは「判断する」という意味の言葉ですが、これは、もちろん、どんな判断もしてはならないという意味ではありません。聖書は、イスラエルの部族の長は「知恵があり、判断力があり経験に富む人」(申命記1:13)でなければならないと言っています。ソロモンはダビデのあとを継いで王になったとき、神に「善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください」(列王記第一3:9)と願いました。詩篇には「良い判断と知識を私に教えてください」(詩篇119:66)との祈りがあります。

 新約には、信仰的、霊的な判断力について、多くの教えがあります。その中で一番大切なのはローマ12:2でしょう。「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」ここにある「この世」とは、神から離れ、神に逆らっている世界のことです。「神の国」と正反対のもの、「神の国」に対立しているものが「この世」です。キリストを信じ、キリストに従う者は、「この世」に生きていても「この世」に属してはいません。「この世」から救い出されて「神の国」の国民になりました。私たちは、この世にある間、この国に住む者としてその法律に従い、慣習を守ります。また、市民として国を愛し、義務を果たします。しかし、「この世」の支配に従う必要はありませんし、従ってはならないのです。そして、神のみこころに従うためには「神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分け」る正しい判断が必要なのです。

 「この世」の支配者はサタンです。イエスはサタンを「偽りの父」と呼びました(ヨハネ8:44)。サタンは、あらゆる手段を使って、現代では、メディアやソーシャル・ネットワークなどを通して人々の心に「嘘」を植え込んでいます。その中で、今、一番注意しなければならないのは、「ジェンダーの嘘」でしょう。「子どもは自分で自分のジェンダーを決め、〝性別違和治療〟を受けることができる。政府は、それを禁じる親から子どもを奪って、里親のもとに保護させることができる」とさえ言うようになりました。そういった〝治療〟(実際は、ホルモン剤や手術による〝性転換〟)のために、身も心もズタズタになった子どもたちが多くいる現状を見て、多くの州では18歳以下の未成年者がそうしたものを受けることができないよう法律で定めました。ところが、今年6月20日、アーカンソーの連邦地方裁判所は、アーカンソーの法律を無効とする判決を下しました。アーカンソーと同じような法律を定めている他の州でもそれが無効になり、未成年者を守ることができないのではないかと心配されています。

 神は人を「男」と「女」に造られました。人のジェンダーは受胎のときに決まります。人の染色体は46本で、23の対になっていますが、性別を決めるのは、その中の1対で、男性は X と Y を持ち、女性は X と X を持っています。人はどんな手術をしても、服装や言葉遣いを変えても、遺伝子まで変えることはできません。XY 遺伝子を持つ「男」か XX 遺伝子を持つ「女」の2つのジェンダーしかないのです。

 これは神の創造の秩序ですが、それに反することが、おおっぴらに主張され、実行されるようになりました。けれども、それは一朝一夕で起こったことではありません。これは、神に逆らう者たちが、長い年月をかけ、神を否定し、創造のみわざを否定し、神の言葉をないがしろにし、社会を壊し、家族の絆を断ち切り、人間性を失わせようとしてきた結果なのです。彼らは、そのことのために、誤った情報を流し続けてきました。ですから、私たちは目に入るもの、耳に聞こえるものを、何でも無批判に受け入れることをしないで、それらを吟味し、判断しなければならないのです。ピリピ1:9-11で、パウロはこう祈っています。「あなたがたの愛が、知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、あなたがたが、大切なことを見分けることができますように。こうしてあなたがたが、キリストの日に備えて、純真で非難されるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされて、神の栄光と誉れが現されますように。」この祈りは、今、まさに必要な祈りだと思います。

 二、人をさばく

 聖書は、このように、私たちに物事を正しく判断することを求めていますが、物事の判断に関しては、私たちは、概ね、正しい判断ができます。しかし、それが、人に関する場合、なかなか正しい判断ができないのです。なぜかというと、物事に対しては客観的に見ることができても、人に対しては、そうするのが難しいからです。ある人に何かの問題があったとしても、その人と深いつながりを持っていれば、どうしても、その人をかばおうとします。人と人の間には「好き嫌い」の感情が生まれますから、それに支配されるのです。とくに、「嫌い」だという感情が先立つと、間違った判断をしてしまいます。ある人のしたことの結果が間違ったことであっても、それが良い動機からなされたかもしれません。そうした動機も、判断に含めなければならないのですが、私たちは人の心の中まで知ることができませんので、正しく人を見ることが難しいのです。それに、人は変わり、成長するものですから、その人の以前の言動だけで判断すると間違いを犯してしまいます。

 さらに、「人をさばく」ことを難しくしているのは、私たちが、人を見るとき、自分が「上の立場」に立って、相手を見てしまうからです。横柄な態度の人のことを、「あの人はいつも〝上から目線〟でものを言う」などといって、嫌いますが、そう言っている私たち自身もまた、〝上から目線〟で人を見て、さばいていることが多いのです。イエスは、それを戒めるために「あなたは、兄弟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか」と言われたのです。

 イエスの時代のユダヤの家は、壁は石造りで、一方の壁と、もう一方の壁の間に何本もの「梁」を渡し、その上に屋根を葺きました。ですから、ユダヤの家では、天井を見ると、屋根を支える「梁」が見えたのです。天井を見ると「ちり」は目に入ることはありますが、「梁」のような大きなものが目に入ることなどありません。イエスの例えは、とても大げさで、極端に聞こえます。けれども、イエスがわざと極端なことを仰ったのは、私たちが、そんなとんでもないことを、それと気づかずに行っているらです。日本で「笑って誤魔化せ自分の失敗、死ぬまでなじろう他人の失敗」という言葉が流行ったことがあります。嫌な言葉です。こんな言葉が早くなくなって欲しいのですが、実際には、私たちの身の回りに多く見られるのです。

 イエスは「あなたは、〝兄弟〟の目にあるちりは見えるのに、自分の目にある梁には、なぜ気がつかないのですか。〝兄弟〟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか」と言って、〝兄弟〟という言葉を使われました。これは、神の子どもたちのことを指しています。イエスは、信仰によって父なる神から生まれた神の子どもたちの間で、感情にまかせた不当な非難がやりとりされてはならないと言われたのです。

 5節でイエスは、「〝偽善者〟よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます」と言われました。〝偽善者〟という言葉は、それこそ「上から目線」で人々を見下していたパリサイ人や律法学者たちを指す言葉でした。イエスはそれを弟子たちに使うことによって「パリサイ人や律法学者と同じ偽善者にならないで欲しい」という思いを弟子たちに伝えたようとされたのです。

 三、正しいさばき主

 「さばいてはいけない」というのは、「不当なさばきをしてはいけない。正しいさばきをしなさい」という意味であることを学びました。しかし、それは、私たちにはとても難しいこと、いや、不可能なことのように思われます。法律の専門家でさえ、無実の人を罪に定めてしまうことがあり、いくつもの冤罪事件が生まれました。逆に、証拠がいくつもあるのに、法律の網の目をくぐって罰を逃れている人もいます。アメリカの司法のシンボルとなっている Lady Justice は、ローマ神話の女神「ユースティティア」のことです。彼女は、目隠しをして天秤を持っています。これは、自分の目で見ること、つまり、主観で判断するのでなく、天秤の傾きという客観的なものによって、公平、公正にさばくことを意味しています。しかし、私たちは、「正義の女神」(司法)が何度も大きな間違いを犯してきたことを知っています。人間のさばきは完全ではないのです。

 イエスは、1-2節でこう言われました。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。あなたがたは、自分がさばく、そのさばきでさばかれ、自分が量るその秤で量り与えられるのです。」これは、「自分にとばっちりがくるといけないから、人の不正には見て見ぬふりをしていよう」ということではありません。これは、人間のさばきが不完全なものであることを覚えて、行動するようにとの教えです。

 では、正しいさばきはどこにもないのでしょうか。いいえ、私たちは、正しいさばき主を持っています。それは神です。また、神から全権を任せられた主イエス・キリストです。イエスは「不正な裁判官のたとえ」の中で、こう言われました。「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。」(ルカ18:7-8)ですから、「自分がさばかれないためです」の「さばかれない」とは、「人によってさばかれない」ようにということではなく、「神によってさばかれない」ように、神の正しいさばきを覚えて行動しなさいとうことなのです。神がすべてを正しくさばいてくださいます。ですから、私たちは、先走ったさばきをせず、さばきを神に委ねるのです。

 神の「さばき」は罪を持ち、不正を行っている者には恐ろしいものですが、イエスによって罪を赦され、神のみこころに沿って生きようと努めてきたものには、それは、むしろ「救い」であり「報い」です。パウロはこう言っています。「私が世を去る時が来ました。私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けてくださいます。私だけでなく、主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです。」(テモテ第二4:6-8)「義の栄冠」は、パウロのような偉大な人にしか与えられないものではありません。「主の現れを慕い求めている人には、だれにでも授け」られるのです。これは、なんと大きな慰めでしょう。私たちも、神から「義の栄冠」を授けられる望みを持って、「正しいさばき主である主」を見上げ、信頼して、神の義に生きる者として歩み続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたこそ、世を正しくさばかれるお方です。そのことを覚えて、軽々しく人をさばいたり、同じ信仰を持つ兄弟姉妹をさばくことがないようにしてください。あなたはイエス・キリストを世をさばく方として立ててくださいましたが、イエス・キリストは、「さばき主」である前に、私たちの罪を赦し、さばきから救う「救い主」となってくださいました。それによって私たちがこの世とともに滅びないたいめです。あなたのあわれみ深い救いの計画を感謝します。多くの人があなたの救いを知り、信じ、それにあずかることができますように。イエス・キリストによって祈ります。

10/1/2023