信仰の祈り

マタイ6:7-8

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6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。
6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。

 一、避けるべき祈り

 さまざまな製品には「使用説明書」というものがついてきます。そして、たいていの「使用説明書」には最初に、「してはいけないこと」が書かれています。たとえば、電気製品では水に濡らしてはいけない、重い家具の場合は一人で持ち上げてはいけない、薬品類ならこどもの手の届くところに置いてはいけないなどいったことです。分かりきったことであっても、間違いをしないようにとの注意がまずあって、それから正しい使い方が説明されています。

 学校で子どもを教えるとき、教師たちも同じようにします。特に刃物を使って工作するときや、薬品を使って実験するときは「こうしてはいけない。」と言って、間違いやすいことを注意してから、「こうしなさい。」と言って、正しいやり方を教えます。算数の問題を出すとき、「答えだけを覚えるのでなく、なぜその答えが出たのかをよく考えなさい。」と教え、漢字を教えるときも「『右』という漢字は、横線が先ではなく、斜め線を先に書くのですよ。」などと言って教えます。

 聖書も同じようにして霊的、信仰的なことを教えています。レビ記22:32には「わたしの聖なる名を汚してはならない。むしろわたしはイスラエル人のうちで聖とされなければならない。」とあります。「神の名を汚すのではなく、むしろ聖としなさい。」と教えているのです。ローマ14:17には「神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」とあって、教会ではこの世的なことではなく、霊的なことを第一にするよう教えられています。エペソ5:15では「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。」とあり、同じエペソ5:18 には「酒に酔ってはいけません。…御霊に満たされなさい。」と教えられています。「…ではなく、…を。」というのは、聖書が真理を教えるときの一つのパターンなのです。

 イエスは「祈り」を教えるときも、このパターンを使いました。まず、間違った祈り、真似てはいけない祈りをとりあげ、それから、模範の祈りを教えたのです。イエスが取り上げた間違った祈りはふたつあって、ひとつはマタイ6:5-6にある「偽善者の祈り」、もうひとつはマタイ6:7-8にある「異邦人の祈り」です。両方とも、私たちに「私も同じような間違った祈りをしていないだろうか。」という反省を迫ります。その反省があってはじめて、私たちの心に「では、どう祈ったら良いのだろうか。」という求めが起こり、イエスが教えようとしておられる正しい祈りを学ぶ心ぞなえができるようになるのです。

 「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」は、イエスが私たちに祈りを教えるために置かれた二つのチェックポイントなのですが、私たちは生まれつき、自分がチェックされるのを好みませんので、こうしたチェックポイントを避けようとする傾向があります。けれども、このチェックポイントを避けていては、ほんとうの祈りを身につけることができません。自分の祈りが「偽善者の祈り」のようではないか、「異邦人の祈り」のようではないかということを常に反省しながら「主よ、私たちにも祈りを教えてください。」と願う者となりたいと思います。

 二、異邦人の祈り

 「偽善者の祈り」については先週学びました。それは、「神に聞いていただくよりも、人に聞かせようとする祈り」でした。そのような祈りは決して神の報いを受けることはない、偽善の報いを受けるだけであると、イエスは言われました。では「異邦人の祈り」とはどんな祈りなのでしょうか。

 まず、「異邦人」という言葉ですが、これは本来は「諸国民」という意味で、特に悪い意味のない言葉です。しかし、イエスの時代のユダヤの人々はこの言葉に軽蔑の意味を込めて使っていました。自分たちだけが神に選ばれており、それ以外の人々は神に見捨てられている、自分たちは祝福された「神の民」だが、他は呪われた「異邦人」だと考え、他の民族の人々を卑しめるために「異邦人」という言葉を使っていたのです。

 しかし、それはユダヤの人々の大きな誤解でした。神は全人類の神であり、最初から全世界のすべての人々を救おうとしておられました。神がユダヤの人々を選ばれたのは、まずユダヤの人々を救い、ユダヤの人々を通して他の民族に神の救いを伝えさせるためだったのです。ですからイエスは「異邦人」という言葉を民族的な意味では使いませんでした。イエスはどの民族、どの国の人であっても、神を信じる者は「神の民」であり、たとえユダヤ人であっても神への信仰のない人は、もはや「神の民」、あるいは「選民」だと言って誇ることはできないと言われました。実際イエスは、自分のしもべのいやしを願い出たローマの百人隊長を誉め、「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。」(マタイ8:10-11)と言われました。しかし、イスラエルの人々については「しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」(マタイ8:12)と言っておられます。「アブラハム、イサク、ヤコブ」というのはイスラエルの偉大な先祖たちです。ユダヤの人々は自分たちこそアブラハムの子孫だと言って自らを誇りましたが、アブラハムが信じたように神を信じてはいなかったのです。イエスは、アブラハムの子孫が自動的に神の民イスラエルになるのでなく、アブラハムと同じように神を信じる者が神の民、選ばれた者なのだと教えられたのです。

 そして使徒たちも同じように教えました。使徒ペテロは異邦人クリスチャンに向かって「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 」(ペテロ第一2:12)と勧めました。ユダヤのクリスチャンではなく、異邦人のクリスチャンに向かって「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。」というのは、矛盾したことばのようですが、実はそうではないのです。神を信じたものはもはや異邦人ではなく、「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」(ペテロ第一2:9)になったからです。たとえ異邦人であっても、神を信じるなら、ペテロ第一2:9-10にあるように、「以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者」になるのです。それで、聖書は、神を信じない人々(異邦人)の中で、神を信じる者(神の民)にふさわしい生活をするようにと教えているのです。

 イエスが来られてからは、「神の民」という言葉は、民族に関係なく神を信じる者を指す言葉となり、「異邦人」という言葉も、民族に関係なく神を信じない者を指す言葉となりました。ですから「異邦人の祈り」というのはまことの神への信仰の伴わない祈りということになります。たとえ「自分は神の民だ。」と自負し、ことばは神の民の祈りのようではあっても、心に神への信頼がなければ、その祈りは、神に向かうことのない「異邦人の祈り」になってしまうのです。

 世界には数多くの宗教があり、人々はそれぞれの宗教に従って熱心に祈りをささげています。しかし、その祈りがどんなに真剣で、熱心であっても、まことの神に向かう信仰の祈りでなければ、その祈りは答えられることはありません。人間が作り出した神々は、耳があっても聞こえない神、目があっても見えない神です。そのような神々にいくら祈っても、祈りが聞かれたという確信を持つことはできません。私たちは「何を」「どう」祈るかということを学ぶ前に、まず「誰に」祈るのかということを学んでおかなければなりません。私たちの祈りに大きなあわれみをもって進んで耳を傾けてくださる神を知り、求め、信頼することを、まず主から教えていただかなければならないのです。

 三、信仰の祈り

 旧約聖書の列王記第一18章に、「異邦人の祈り」と「信仰の祈り」のみごとな対比がありますので、最後に、そこを学びましょう。

 この出来事があったのは、紀元前850年ごろ、イスラエルのカルメル山でのことでした。当時のイスラエルはアハブ王と王妃イゼベルによって、バアル神を礼拝する国になっていました。主の預言者エリヤは、イスラエルの人々にまことの神に立ち返るよう説き、バアル礼拝から離れなければ二年から三年の間、イスラエルに雨が降ることがないと預言しました。果たして、そのとおりになり、飢饉がイスラエルを襲いました。そのため、アハブ王はエリヤの命を狙い、エリヤは身を隠していたのですが、ついにアハブ王と対決するときがやってきました。エリヤはアハブ王にバアルの預言者450人をカルメル山に集めさせ、彼らに、バアルのための祭壇を作らせました。祭壇にはたきぎが並び、その上に雄牛が置かれました。エリヤはバアルの預言者に言いました。「あなたがたは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぼう。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」(列王記第一18:24)

 大勢のバアルの預言者は一斉に「バアルよ。私たちに答えてください。」と祈りました。その祈りは朝からはじまり、真昼になりました。しかし、何の答えもありません。それで、エリヤはバアルの預言者に向かって言いました。「もっと大きな声で呼んでみよ。彼は神なのだから。きっと何かに没頭しているか、席をはずしているか、旅に出ているのだろう。もしかすると、寝ているのかもしれないから、起こしたらよかろう。」バアルの預言者はますます大きな声で呼ばわり、剣や槍で血を流すまで自分たちの身を傷つけ、祈りました。しかし、何も起こりませんでした。イエスは「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。」と言われましたが、まさに、このときのバアルの預言者の祈りは、そのような祈りでした。聞くことも、答えることもないものに祈ることほど、むなしいことはありません。まことの神に向かわない祈りは、たんに自分を興奮させるだけのものか、自分で自分の心を慰めるひとりごとでしかないのです。

 昼が過ぎてから、エリヤはイスラエルの12部族の数にしたがって12の石を取って祭壇を作り、そこにたきぎを並べ、雄牛を切り裂き、それをたきぎの上に載せました。そればかりでなく、そのいけにえとたきぎに大きな水瓶四杯分の水を、三回も注ぎました。たきぎは水浸しになり、誰が火をつけても燃えないようになりました。それからエリヤは静かに、しかし、力強く祈りました。「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」それは短い祈りでした。エリヤはバアルの預言者のように、朝から昼まで大声で叫びはしませんでした。そうする必要がなかったのです。神は何かに没頭していて、私たちの祈りの声を聞き逃すようなお方ではないからです。神はまごころをもって祈るすべての祈りに耳を傾けてくださいます。神は、席をはずしていたり、旅に出ていて、不在になることもありません。神は、信じる者といつも共にいてくださるお方です。神はまた、寝ていて、大声で起こさなければならないようなお方ではありません。神は眠ることもなく、まどろむことなく、一週7日、一日24時間、目覚めていて私たちに答えてくださるお方です。祈りは、神へのホットラインだと言われますが、このホットライン向こう側には、神がいつも待機しておられ、私たちの祈りにじかに答えてくださるのです。大きな会社や団体に電話するとき、アンサリング・マシンのメッセージを聞かされ、長い間待たされることがありますが、神は私たちにアンサリング・マシンのメッセージでお答えになるようなお方ではないのです。ですから、エリヤは、静かに、短いことばで祈ることができたのです。エリヤの祈りは「神は祈りに聞いてくださる。祈りに答えて、ご自分が神であることを示してくださる」という信仰に満たされた祈りでした。

 エリヤが祈ると、天から火が降って、祭壇にささげたいけにえばかりか、たきぎも、祭壇に積み重ねた石までも、焼き尽くしました。その火は大量に注がれた水もすべてなめ尽くしてしまったのです。これを見たイスラエルの人々は「主こそ神です。主こそ神です。」と言ってひれ伏しました。「この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」というエリヤの祈りは答えられたのです。

 マタイの福音書で、イエスは「だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」と教えられました。私たちは誰に祈るのでしょうか。私たちの必要をすでに知っておられ、それに答えることのできる神にです。私たちに最善を与えたいと願っておられる神に祈るのです。「異邦人」の祈りは、たとえ熱心ではあっても、そこには、祈りを聞き、それに答えてくださる神がいないのです。しかし、「信仰の祈り」には神が共におられます。イエスが「あなたがたの父なる神」と呼ばれた神が、父親のような大きな愛をもって祈りに聞いてくださる神がいてくださるのです。「信仰の祈り」とは、この父の子どもとなって、父に頼り、願う祈りなのです。イエスは「偽善者の祈り」と「異邦人の祈り」を避けるように教えられましたが、それらを避けるのに一番良い方法は、父なる神の子どもになりきることです。子どもはまだ偽善を知りません。子どもは親に絶対の信頼を持っています。そのように、神の子どもになりきって、父なる神に願い、求めるのです。そこから祈りを学び、身に着けていこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたを信じている私たちも、ときとしてあなたに対して子どものような信頼を無くしてしまうことがあります。そのようなときの私たちの祈りは「異邦人の祈り」になるのかもしれません。信仰の伴わない空しい祈りから私たちを遠ざけ、心からの信頼をもってあなたに祈る私たちとしてください。信仰を求めている人々が、一日もはやく、あなたが私たちのたましいの親であり、恵み深い父であることを知ることができますように。私たちに、天の父を示し、天の父への祈りを教えてくださった主イエスのお名前で祈ります。

1/31/2010