心配無用

マタイ6:33-34

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6:33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
6:34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 世の中には、楽観的な人と、悲観的な人と、現実的な人がいます。ビールが半分入ったボトルがあるとすると、楽観的な人は「まだ半分ある」と、安心します。悲観的な人は「半分しかない」と、心配します。現実的な人はそれを飲み干して、「ビールをもう一本!」と言います。これは、昔からあるジョークの一つですが、程度の差こそあれ、物事の良い面を見て、それを喜ぶ人と、足らないものだけを見て悲しむ人とがいることは確かです。子どもがテストで10問のうち9問正解して90点取ってきたとき、たいていの親は子どもを褒めると思うのですが、中には、「どうして、10問目を間違えたのだ。なぜ100点取ってこなかったのだ」と叱る親もいるかもしれません。褒められた子どもと叱られた子どものどちらが、もっと勉強するようになるでしょうか。私は、褒められた子どものほうだと思います。

 子どもは生まれながらにして楽観的ですが、大人になるにつれて、人生を悲観的に見るようになります。過去に出来なかったことを悔やみ、今、無いものを嘆き、感謝や喜びを失くしていくのです。子どものときだけでなく、大人になっても、人は、やはり、誰かから「大丈夫だよ」、「心配しなくていいよ」と声をかけてもらい、励ましてもらう必要があります。それは、イエスの弟子たちも同じでした。そして、イエスは、ご自分に従う弟子たちに「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します」、「心配無用!」と、力強く語ってくださいました。

 一、心配とは

 ピリピ2:20に「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません」とあります。この「心配」は、良い意味で使われています。この手紙が書かれた時、パウロは投獄されており、テモテは、自由を奪われていたパウロの代わりに、活動していました。パウロは、人々から心配してもらって当然の立場だったのですが、そんなときも、自分が伝道してきた教会のことを、テモテと一緒に、心にかけ祈っていたのです。こうした「心配」は「愛の心配り」であって、私たちお互いの間に必要なものです。

 しかし、「思い煩い」という意味での「心配」は、それを避けなければなりません。「心配する」という言葉のもともとの意味は「分裂する」です。コリント第一12:25に「それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いのために、同じように配慮し合うためです」とありますが、ここでは「心配する」という言葉がもともとの意味で使われています。

 ルカ10章にあるマルタとマリアのエピソードでは、マルタは、イエスと弟子たちをもてなすために、ずいぶんイライラしていました。イエスは「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています」と言われました。ルカ10:41では、「心配する」という言葉は、「思い煩う」と訳されています。そして、思い煩うことは「心を乱す」ことだとイエスは言われました。この「心を乱す」という言葉には、「大騒ぎする」、「混乱する」、「暴動を起こす」などといった意味があります。イエスはマルタが良い意味での「心配」を通り越して、思い煩い、心を乱し、パニックに陥っていると言われたのです。

 イエスが「心配するな」と言われたのは、そうした行き過ぎた心配、思い煩い、あれやこれやのことに悩んで心が乱れている状態についてです。思い煩っている人の多くは、自分は、良い意味で心配しているのだと思い込むことが多いので、自分の心配が悪いものだと気付かないことがあります。それが、過度な心配や思い煩いから解放されることを難しくしているのだと思います。良い意味での心配と、行き過ぎた心配、つまり、思い煩いとは区別しなければなりません。

 二、神の国と神の義

 では、良い意味での「心配」と、行き過ぎた「心配」とは、どこかどう違うのでしょうか。その違いの一つは、そこに目的があるか、ないかということです。良い意味での心配、愛の心配りには、誰かのためにという「目的」があります。けれども、思い煩いには、そうした目的がないのです。思い煩う人は、いつの間にか「自分のこと」、「自分の計画」、「自分の満足」が目的になってしまっています。

 マルタは、イエスと弟子たちをもてなすという目的を見失い、思い煩って、心を乱してしまいました。マルタは、妹のマリアがイエスの膝下に座って、教えを聞いているのを咎めました。マルタは妹がすぐにでも立ち上がって自分を手伝わなければならないと決めてかかっていたのです。イエスに対しても、マリアに姉の手伝いをするよう促してくれるよう、心の中で要求していたのです。マルタは、イエスと弟子たちが自分の家でくつろぐことができるようにという目的を忘れて、物事が自分の思い通りに進まなかったことに腹を立てたのです。ゲストであるイエスを「主」とするのでなく、自分が「主」になってしまっていました。もし、マルタが、自分の目的を分かっていたら、心を乱すことはなかったでしょう。イエスの教えの終わるのをほんのしばらくの間待って、それからマリアに手伝ってもらえば良かったのです。私たちも、自分の人生の目的がはっきりと分かるなら、多くの思い煩いから救われます。

 イエスの説教を聞いていた人たちの多くは貧しく、食べる物や着る物のことを心配しなければならない人たちでした。人には、生きるために食べ物も、着る物も必要です。しかし、人は、パンだけで生きるのではありませんし、パンのために生きているのでもありません。人が生きるのは、「神の国と神の義」のためです。「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」イエスは、求めるべきものを求めるなら、思い煩いから解放され、必要なものはすべて与えられると約束してくださいました。

 人が求めるべき第一のもの、「神の国」とは、神のご支配のことです。神は、すべてのものを造り、支配しておられる創造者、また主権者です。ですから、神の支配の及ばないところなどないはずなのですが、人は罪のために、聖なる神を避け、神の支配に逆らっています。この世では、神の恵みの支配を受けることがなく、かの世で神の国を継ぐことができないのです。「神の義」とは、私たちが、神の前に立つことができ、神に近づくことができるために必要な正しさのことです。これがなくては「神の国」に入ることはできません。ですから、「神の国」と「神の義」とは二つで一つ、切り離せないものです。それで、イエスは、この二つを一つにして、「神の国と神の義を求めなさい」と言われたのです。

 「神の国と神の義」を求めるとは、まず第一に、イエス・キリストを信じることです。罪ある人間は誰一人、神の義に届くことはありません。しかし、イエス・キリストは全人類の罪を引き受けて十字架にかかり、信じる者にご自分の義を与えるために三日目によみがえってくださいました。ローマ4:25に、「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました」とある通りです。人は、イエスから「神の義」をいただいてはじめて「神の国」の民とされ、神の国を受け継ぐ者となるのです。

 「神の国と神の義」を求めるとは、また、「神の国」の国民とされた者が、神の民としてふさわしく生きることです。それによって、人々に神がおられ、神の国が存在することを示すことができます。天を目指して生きることによって、人々に天を示すのです。「ともに天を目指しましょう」と、人々を、天への巡礼の旅に招くのです。聖霊の力によって、恵みによって、「神の義」に従って歩むことによって、人々に「神の義」を目に見える形で表し、証ししていくのです。人々は、そのような証しを見て、神はほんとうにおられる、天国はある、イエス・キリストこそ救い主であると知り、信じ、救われて、神の栄光が表されるのです。イエスは「御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」(マタイ6:10)と祈るよう教えてくださいました。この祈りは、「神の国と神の義を求める」祈りそのものなのです。

 このように、「神の国と神の義を求める」という人生の目的をはっきりと持つとき、また、その目的を目指して生きるとき、そのために必要なものが満たされ、思い煩いから解放されます。

 三、父なる神の愛

 「神の国と神の義」という人生の目的に生きるとき、私たちを「思い煩い」から救われるのですが、それとともに、もう一つの大切なことがあります。それは、神の愛を確信し、それに信頼することです。

 イエスは「何を食べようか何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい」と言われましたが、それは、根拠のない、たんなる励ましではありません。イエスは、きちんと根拠を示しておられます。その根拠とは、父なる神が、神を信じ、神に頼る者を愛しておられるということです。思い煩いの多くは、神の愛を見失い、自分が神に愛されていることが分かっていないことから来ます。思い煩っている人のほとんどは自己憐憫に陥っています。

 イエスは神の愛を分からせるため、こう言われました。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。」(6:26)何を食べるかを心配しなくてよいことを言うために、空の鳥を例えに使いました。次に、着るもののことで心配してよいことを言うために、野の花を例えに使い、こう言われました。「野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。」(6:28-29)イエスはこの話を野外でなさいましたので、その時、ちょうど鳥の鳴き声が聞こえ、人々が座っている場所には野の花が咲いていたのかもしれません。しかし、ぼんやりと空の鳥を見、野の花を眺めるだけでは、神の愛は分かりません。イエスは空の鳥を「見なさい」と言われましたが、それは、そこにある神の愛を見極めるという意味です。野の花がどうして育つのか「よく考えなさい」とも言われましたが、それは、私たちの身のまわりのさまざまな事柄を通して神が教えようとしておられることをしっかり受けとめることなのです。「見て、考える。」そこから信仰が始まり、神の愛を知る知識が加えられます。

 すべての人は神の愛の対象で、どの人も、かけがえのない価値を持っています。そうであるなら、イエス・キリストを信じて神の子どもとされた者を神が愛してくださらないはずがないのです。神の子どもたちが、神の国と神の義を求めて生きるときに、必要なものが与えられないわけがないのです。

 クリスチャンであれば、そのことはよく分かっているはずです。それでも、思い煩いから解放されないでいるとすれば、それは、神の愛を、たんなる言葉としてとらえているだけで、この神の愛が、この私に向けられ、私に注がれていることが分かっていないからだと思います。自分には価値がないと思い込んでいるのかもしれません。自分の価値は、自分で決めるものではありません。神が決めるのです。神が愛したものが価値を持つのです。キリストに救われた者は、人として造られている価値に加えて、キリストがその命によって、罪の中から買い戻してくださったという価値をも持っているのです。聖書は、キリストを信じる者の価値は、キリストの命の価値と同じなのだと教えています。

 「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。」イエスが言われた「ですから」の理由をお分かりですね。神はあなたを愛しておられる。あなたには価値があり、あなたの人生には目的がある。だから、「心配しなくてよい」のです。「心配しなくてよい」この言葉には根拠があります。しかも、この言葉は、私たちを愛し、私たちのためにご自分のいのちさえも与えてくださった、神の御子(ガラテヤ2:20参照)の口から出た確かな言葉なのです。この週も、思い煩いを一つひとつ、愛の神に任せし、イエスが「心配無用!」と言われた言葉を信じ、一日一日を歩んでいきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが私たちの父であり、私たちを愛しておられることは、他の誰でもない、あなたの御子イエス・キリストが教えてくださったことです。ですから、これ以上に確かなことはありません。この事実を、はっきりと見、よく考え、あなたに信頼し、思い煩いから救われて歩む私たちとしてください。イエス・キリスのお名前で祈ります。

9/24/2023