宝は天に

マタイ6:19-21

オーディオファイルを再生できません
6:19 自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。
6:20 自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。
6:21 あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。

 一、地上の宝(19節)

 皆さんには何か宝物がありますか。私の知り合いに、車が大好きで、それを整備するためのガレージを家の近くに借りて、毎日、そこで車をいじっている人がいます。その人にとっては車が宝物なのでしょう。また、焼き物が好きで、日本の各地からの湯呑みを集め、専用の棚に飾っていた人もいました。

 以前のことですが、ある人から、母親が遺していった服や靴が沢山あるので、教会の人たちで使ってくれないかという電話がありました。その人の母親は日本人でアメリカ人から見れば小柄な人だったので、日本人にはちょうどいいだろうというので、私に連絡してきたのです。家をお訪ねして驚いたのは、その服の数でした。三つも四つもある大きなクローゼット一杯に何百という服や靴がありました。亡くなった方は病気で、あまり外出することもなかったので、どの服も靴も、ほとんど新しいままでした。一度では運びきれなかったので、二度に分けて運びましたが、その人にとっては、服が宝物で、クローゼットはその宝物を入れる宝の箱だったのかもしれません。

 服は、古代にも宝物でした。とくに、羊の毛を紡いで作ったウールの服は値段の高いものでした。その服に金を縫い込んで飾りにしたり、他の金属で形を整えたりしました。けれどもウールは虫に食われやすく、保管するのが大変でした。それに、その中に縫い込まれた金属も、やがては錆びてきます。どんなに手入れをしても、一生涯、無傷で保つことはできなかったでしょう。たとえ、良い状態で保っていても、泥棒がクローゼットの壁を破ってかっさらっていくこともあったのです。19節でイエスが「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」と言われたのは、当時、本当にあったことなのです。

 このように、地上の宝は過ぎ去っていくものです。それなのに、私たちの多くはそれに執着しています。世界の多くの金持ちたちは、急激な気候変動がやってきて、今に、世界中の海岸という海岸は水没してしまうと言っています。そう言いながら、自分たちは海岸沿いに別荘を建てて楽しんでいます。マウイ島にも、政治家や芸能人の別荘があります。最近の火災では、密集した地元の家は焼けましたが、広い敷地のある豪邸は無傷でした。幸いにも家が焼け残った人たちは、自分の家を救援所にして、他の人たちを助けています。ところが、別荘を持っている人たちは、年に数回しか使わないのに、そこを救援所に提供していません。むしろ、火災を利用して、自分の敷地を広げようとさえしていると聞きました。社会の矛盾、人間の罪深さを見るような気がします。

 私たちはハワイの別荘、自家用ジェット、アンティークの車などは持っていませんが、それでも、何かに執着し、心を奪われ、コントロールされているものを持っているかもしれません。多くの場合、それは富や財産でしょう。

 イエスが「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい」と仰ったのは、「貯金をしてはいけない」、「財産を増やしてはいけない」ということではありません。クリスチャンが貯金をするのは、何かの必要があった時に、他の人に迷惑をかけないためです。保険があっても、長く入院したり、ホスピス・ケアを受ければ、大きな支出が必要となります。もし、借金だらけで死んだら、その借金は子どもたちや親族が払わなければならなくなりますし、今は、火葬や埋葬にも沢山のお金がかかる時代です。蓄えを持ち、資産を活用して、事業を起こし、収益を得ることが禁じられているわけではありません。

 しかし、イエスが「〝自分のために〟地上に宝を蓄えるのはやめなさい」と言われたように、「自分にはこれだけの貯金があり、財産があるから大丈夫」と、目に見えるものに頼り、神への信頼を忘れるなら、そうした金銭や財産もまた、虫が喰い、錆となり、他の人に奪われてしまうようになるのです。

 ルカ12:16-21に「愚かな金持ち」の話があります。この金持ちは地主で大勢の小作農を使っていたようです。豊作が続き、倉に入り切らないほどの収穫がありました。それで、こう言いました。「私の倉を壊して、もっと大きいのを建て、私の穀物や財産はすべてそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ。』」短い言葉の中に、「私の作物」、「私の倉」、「私の財産」、「私のたましい」などと、「私の」という言葉が繰り返されています。彼の思いの中には、神も、他の人もありませんでした。財産を貯め込んだのは、自分だけのためでした。「地上に宝を蓄える」とは、このように、神を忘れ、他の人を心にかけず、ひたすら自分のために金銭を貯め込むことを言うのでしょう。この金持ちは、何年も先まで、自分は楽々とした生活ができると言いましたが、彼が「自分のたましい」と呼んだ、そのたましいはその日のうちに取り去られ、彼の蓄えた財産は何の役にも立たなかったと、イエスは語られました。

 二、天の宝(20節)

 では、どうしたらいいのでしょうか。20節でイエスは「自分のために、天に宝を蓄えなさい」と言われました。イエスは、ここで「天国銀行」のことを言っておられるのです。この銀行には最高のセキュリティがあり、その利息はどこにもないほどのものです。アメリカでは、どの国籍の人でも銀行に口座を持つことができますが、「天国銀行」は天国の国民、天に国籍を持つ者しか口座を持つことができません。しかも、口座を開くためのデポジットは、完全な正しさと、完全な聖さなのです。そこに一つでも罪があれば、一つでも汚れがあればデポジットとして認められません。ですから、本来は、「天国銀行」には、誰一人、口座を持ち、そこに宝を蓄えることはできないのです。

 しかし、イエス・キリストは、罪ある私たちのために十字架でその命をささげてくださいました。その流された血によって、一切のけがれを聖めてくださいました。イエスはご自分のいのちを、私たちの天の口座のデポジットとして支払ってくださったのです。そればかりではありません。イエスは復活され、天に昇り、そこから聖霊を遣わして、信じる者を神の子ども、神の民として生んでくださいました。イエスを信じる者は天国の国民とされています。「天国銀行」に口座を持つ者となったのです。

 天の口座について勘違いしてはいけないことがあります。私たちが天に宝を蓄えるのは、イエスが支払ってくださったものが足りないので、それを補うためではないということです。天に入るための一切のものは、イエスがすでに支払ってくださっています。私たちが天に蓄えるものは、イエスの救いへの感謝であり、それが天に入る条件ではないということを知っておきましょう。

 天国では、地上のお金も、学歴も、資格も、地位も、経歴も一切通用しません。そうしたものをどんなに貯め込んだところで、それらを持って行くことはできません。しかし、私たちが神のためにしたことは、「天国銀行」に蓄えられています。

 献金はその一つです。ですから、献金は支出ではありません。それは、貯蓄です。地上の口座から天の口座へのトランスファーなのです。ある人が、「一週間、健康が支えられ、車も故障しないで、道路も開いていて、教会も守られて、礼拝に行ける。神が必要をすべて満たしてくださったので、こうやって献金ができる。なんと幸いでしょう」と証ししていましたが、そのような神への感謝が天に蓄えられるのです。

 天に蓄えることができるのは、献金だけに限りません。私たちが、イエスのためにしたどんな小さなことも、おそらく何倍にもなって天の口座に積み立てられることでしょう。神のため、人々のために棒げた時間、祈り、行いなどです。

 使徒9:36-42にドルカスのことが書かれています。ドルカスが病気で亡くなったとき、ペテロが呼ばれました。ドルカスを慕っていた人たちは、ドルカスが自分たちのために作ってくれた着物を見せて、彼女を偲びました。神は、ドルカスがした人々への親切を覚えておられ、ペテロの祈りによって、彼女を生き返らせてくださいました。そこに大きな喜びがあったと聖書は言っています。

 ヘブル6:10にこうあります。「神は不公平な方ではありませんから、あなたがたの働きや愛を忘れたりなさいません。あなたがたは、これまで聖徒たちに仕え、今も仕えることによって、神の御名のために愛を示しました。」神は、どんな小さなことでも、神の御名のためにしたことを覚えていてくださいます。自分で、「私は神のために大きなことをした」と思うようなことが「天国銀行」の口座を増やすのではありません。たとえ、小さなことでも、主のために、誰かのためにしたことが天の宝を増やすのです。

 三、心と宝(21節)

 19節で「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます」と言われたイエスは、20節で、ほぼ同じ言葉を使って、「自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません」と言われました。地上の宝と天の宝とを対比しておられます。そして21節で「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」と言われました。

 「宝のあるところに心もある。」人が絶えず求めているもの、それに価値を置いているもの、そこに心があるもの、それが、その人の「宝」です。何を「宝」にするかは、人の心が決めるのです。

 人が何かに心を置き、それを「宝」にするように、神も、ご自分の心をそこに置いておられる「宝」を持っておられます。申命記7:6に「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は地の面のあらゆる民の中からあなたを選んで、ご自分の宝の民とされた」とあります。神は、奴隷だったイスラエルをエジプトから救い、ご自分の「宝の民」とされました。この言葉はイスラエルだけにではなく、イエスを信じるすべての人にもあてはまります。イエスを信じる者はすべて神の宝の民だです。神は、ご自分の民を「高価な宝」として、心をそこに置き、大切にし、守ってくださっています。

 イザヤ49:16に「見よ、わたしは手のひらにあなたを刻んだ」とあります。私の知り合いに、自分の手のひらにペンで大事なことをメモしていた人がいました。彼は、「メモ用紙に書いても、それを失くしたりするからね。これが一番、忘れないんだ」と言っていましたが、神が「手のひらにあなたを刻んだ」と言われたのは、神が私たちをいつも心にかけていることを示すためでした。「手のひらにあなたを刻んだ」という御言葉を読むたびに、私は、復活されたイエスの手に十字架の釘跡が残されていることを思います。栄光のからだにだに傷跡などふさわしくないと思うのですが、イエスは、十字架によって贖い、救ってくださった私たち一人ひとりを、その傷跡とともに、手のひらに刻み、心に刻んでおられるのだと思います。

 神が、イエスが、そんなにしてまで、私たちをご自分の「宝」としてくださっているのに、私たちは、どれほど、神を自分の「宝」としているでしょうか。神よりも、他のものに心を奪われ、それに夢中になっていないでしょうか。地上のものを「宝」にしてしまうと、やがてはそれにコントロールされるようになります。金銭を「宝」にすれば、人生を「得か、損か」だけで判断し、間違った決断をして、大切なものを失うことがあります。「地位」や「栄誉」を「宝」にし、それを追い求めると、そのために不正に手を染めたり、信念を曲げて、悪と妥協することがあるかもしれません。けれども、イエスを「宝」とし、イエスに心を向けるなら、私たちは、地上のものに束縛されたり、支配されたりすることなく、ほんとうの意味で自由に自分の人生を生きることができるようになるのです。

 この週も、私たちが神の「宝物」とされていることを知り、感謝しましょう。私たちも、イエスを私の「宝」として、常に心に置き、「イエスはわがいのち、また、喜び」と賛美して歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちを「宝の民」として大切にしてくださるあなたの愛に感謝します。あなたは、イエスが十字架でお受けになった傷跡とともに、私たちを、その手のひらに刻み、心に覚えていてくださいます。私たちも、イエスとその救いをいつも覚え、その感謝を宝として、天に積むことができますよう助けてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

9/3/2023