平和をつくる者

マタイ5:9-12

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5:9 平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々は同じように迫害したのです。

 一、逆境を変える

 今年、テキサスでは最高気温が100℉を超える日が何日も続いています。気温が上がり下がりすると、温度計(サーモメーター)も上がり下がりします。サーモメーターは温度を表示するだけですが、サーモスタットは温度を調節します。気温が上がれば冷房を動かし、気温が下がれば暖房を動かします。サーモメータは受け身で気温に左右されるだけですが、サーモスタットは部屋の気温を変えていきます。

 人にも、サーモメーターのような人と、サーモスタットのような人があると思います。サーモメーターのような人は、回りの状況に左右され、それにふりまわされるだけですが、サーモスタットのような人は問題が起こったとき、どうやったらそれが解決できるか、そのために自分に何ができるかを考え、行動を起こす人です。私たちの家庭や社会は、サーモスタットのような人によって保たれ、また、変えられてきました。

 イエスが宣言された八種類の「幸いな人」はみな、サーモスタットのような人です。「心の貧しい人」、「悲しむ人」、「柔和な人」、「義に飢え渇く人」は、貧しいまま、悲しんだまま、低くされたまま、満たされないままではいませんでした。他の人から見て「不幸」と見える状況の中で、神を呼び求め、神に信頼し、逆境を幸いに変えていったのです。

 「幸福」という言葉を辞書で引くと「めぐりあわせのよいこと」(広辞苑)とありました。恵まれた環境に生まれ、健康で、問題なく育ち、好きな仕事に就き、良い配偶者に巡り会えたら、そういう人は「めぐりあわせのよい」幸福な人ということになります。しかし、あらゆるものに恵まれている人など、世界のどこにもいませんし、今日は恵まれていても、明日はどうなるかは誰にも分かりません。幸せが「めぐりあわせ」で決まるのであれば、生まれつきめぐりあわせの悪い人は、一生それをかかえて過ごさなければならないのでしょうか。そうではありません。神との出会い、イエス・キリストとの「めぐりあい」が、逆境を祝福へと変えてくれるのです。生まれながら様々なハンディを背負わされても、困難に取り囲まれていても、神への信仰は、そうした逆境を順境に変えていきます。私たちに「あなたは幸い、祝福されている!」と宣言してくださるイエスが私たちを変え、私たちの回りの状況を変えてくださるのです。

 二、社会を変える

 神への信仰、イエス・キリストの救い、また、祝福は、私たち自身と私たちの人生を変えるだけでなく、社会を、世界を変えていく力を持っています。

 7節に「あわれみ深い者は幸いです」とありました。この「あわれみ」は小さい者、弱い者、苦しむ者に向けられる愛のことです。神が私たちを愛してくださる愛はすべて「あわれみ」の愛です。全宇宙よりも大きく、全く聖い神が、小さく、罪深い人間に心をかけ、愛を注いでくださるのです。人間は神に逆らって自ら苦しみを招いているのですから、神がそれに対して、「自業自得だ。苦しむのは当然だ」などと仰ったとしても、それは当然のことです。しかし、神はそうは仰らず、苦しむ者を心にかけ、手を差し伸ばしてくださるのです。私たちが救われるのは、この神のあわれみによってです。「私は正しい人間です。真面目に働き、家族を大切にし、他の人にも親切にしています。だから、神さま、あなたは私を救わなければなりません」と言うことができる人は誰もありません。「神様、罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)との謙虚な信仰だけが人を救うのです。

 この神のあわれみが心底分かるとき、私たちは、神が私たちをあわれんでくださったように、他の人にもあわれみ深くあろうとします。聖書に「互いに一つ心になり、思い上がることなく、むしろ身分の低い人たちと交わりなさい。自分を知恵のある者と考えてはいけません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい」(ローマ12:15-16)とある通りに実行しようと務めます。人の足らないところを責めて、人に要求するのでなく、他の人と一緒に成長し、その進歩を喜び合おうとします。それが神のあわれみです。

 この神のあわれみを人類の歴史で始めて社会にもたらしたのが、イエスに従った人々でした。古代の王たちは、人々の財産も、その命も、その思想、信仰もすべて自分が支配するものだと考えていましたから、古代の国家には「福祉」という概念はありませんでした。そんな中でイエスを「王」とする人々は、財産を分け合って貧しい人々を支えました。教会には「やもめの名簿」があって、身寄りのない人をサポートするシステムができていました。奴隷の身分の人が自由になるための「贖い金」を教会で積み立てていたことも知られています。近代になって政府が取り入れた「福祉」の政策はみな、教会から引き継いだものでした。「あわれみ深い人」たちは、神から受けたあわれみを、社会に広げ、それを変えていったのです。

 8節にある「心のきよい人」も、社会を変えていきました。イエスは「心のきよい者は…神を見る」と言われましたが、神に対して誠実に生きた人たちは、自分たちが「神を見る」だけでなく、他の人に「神を見せる」ことができました。神を信じようとしない人は、「神がいるなら見せてみろ」と言いますが、「心のきよい人」たちは、神を見せてきたのです。神によってきよめられた心から出てくる言葉や行い、態度や生活によって、神のあわれみやきよさを示してきたのです。人々が神を信じるのは、聖書の教えを知り、理解すると共に、その教えに生きている人を見て、それが自分を救う真理であるとの証しを得ることによってです。なかなか信仰の決心ができなかった人がいたのですが、あるとき、その人は、クリスチャンが証しをしている姿を見て、「信仰を持てば、あんな人になれるのなら、私も信じます」と言って、信仰を持ちました。心のきよい人たちは、人々を信仰に導き、信仰に導かれた人たちが社会を変えていったのです。

 三、平和をつくる

 9節に「平和をつくる人」のことが書かれています。今日ほど、「平和をつくる人」が必要とされている時はありません。戦争や紛争には、それぞれに言い分があり、主張があるでしょうが、現実には、互いにミサイルを撃ち合って、相手の建物や道路、橋など、国民の税金で作ったものを壊し、田畑を荒らして、食糧を無駄にしているだけです。そして、尊い人命を奪い合っているのです。どんな戦争であっても、最善の努力をして避けなければなりませんし、もし始まってしまったなら、長引いたり、広がったりしないように、一日も早くそれを終わらせるように、世界中が努力しなければなりません。他の国の戦争によって利益を得ようとしたり、それを利用して、自分たちが優位に立とうするのは大間違いです。

 ギリシャ語で「平和」という言葉は、「一緒になる、協力する」あるいは「語る、話しかける」という意味の言葉から生まれました。人が、力を合わせ、一緒にものごとをするためには、互いに聞き合い、語り合うことが必要です。「議論」と「対話」とは違います。喧嘩腰で議論しても平和は生まれません。解決策を求めて「話し合う」のです。そして、「平和」は「つくる」ものです。黙って待っていればやってくるものではありません。この原則は、国と国との間だけでなく、家族の間でも、職場でも、どんな人間関係でも同じです。イエスは「平和をつくる人」は「神の子どもと呼ばれる」と言われました。それは、イエスご自身が「平和の君」、「平和の王」だからです。ですから、イエスの足跡に従う人も、神の御子であるイエスに倣う者という意味で「神の子ども」と呼ばれるのです。それは、なんと誉れあることでしょうか。

 イエスは八つの祝福の最後に「義のために迫害されている者は幸いです」と言われました。「あわれみ深い人」、「こころのきよい人」、また「平和をつくる人」が幸いなのは、誰でも分かります。しかし、「迫害されている人」がなぜ幸いなのでしょう。イエスは、「ああ、不信仰な曲がった時代だ」と言って嘆かれました(マタイ17:17、ルカ9:41)。ペテロは「この曲がった時代から救われなさい」(使徒2:40)と説教し、パウロも「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代のただ中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握り、彼らの間で世の光として輝くためです」と言っています(ピリピ2:15-16)。曲がった時代を、曲がって生きていくなら、反対を受けたり、辛い体験することはないでしょう。しかし、信仰を持つ者が「曲がった」時代を「真っ直ぐに」生きようとすれば、必ずどこかでぶつかります。信仰のことで馬鹿にされたり、非難されたり、不利な目に遭ったりするかもしれません。けれどもそれは、信仰によって誠実に生きようとすることですから、必ず、神の守り、助け、そして祝福が伴い、その祝福をもって人々に祝福を与える者となることができる、だから、神に従って正しく、誠実に生きる人は幸いなのです。

 日本では、キリストを信じてバプテスマを受けようとすると、家族に反対されることがあります。親から「教会に行くのは許してやっているが、バプテスマを受けたら勘当だ」と言われたり、夫から「離婚するぞ」などと脅されたりすることがあります。家族で誰かが違う信仰を持つと家庭の平和が乱れると思われているからです。たしかに表面的な平和は乱れるかもしれません。しかし、それは一時的なことで、信仰に立ち続けるなら、必ず家族の理解を得ることができます。家族の中に救われる人たちが起こされ、ほんとうの平和が生まれます。信仰を守ることが、最終的には家族を守ることになるのです。

 埼玉に「愛の泉」という社会福祉法人があります。これは1945年にドイツ人の宣教師ゲルトルード・エリザベート・キュックリッヒさんと二人の日本人によって、戦災孤児を保護するためにつくられたものです。この「愛の泉」の創設者キュックリッヒさんは、こんな証しを残しています。彼女はまだ子どものころ、母親を亡くしました。それからしばらくして父親が再婚しました。「継母」が家庭に入ってきたのです。彼女はまだ小さかったので継母になつきましたが、彼女の四人の兄たちはもう成長していて、みな継母に冷たく、ことあるごとに批判していました。そのため家の空気は一変して冷たくなりました。

 ある日のこと、キュックリッヒさんが用事を伝えるために、家の中で継母を探しまわっていました。台所にも、居間にも、いませんでした。ふと、父親の部屋のドアを開けると、そこに継母がいました。父親の部屋にはゲツセマネの園で祈っておられるイエスを描いた絵が飾ってあったのですが、継母はその下で、一人で、熱心に祈っていたのです。キュックリッヒさんは驚いてドアを閉め、自分の部屋に帰っていきましたが、そのときに聞いた継母の祈りの言葉が耳から離れませんでした。それは四人の兄たちの中でも一番継母につらくあたっていた一番上の兄のための祈りの言葉でした。継母はその兄の幸いを心を込めて祈っていたのです。この継母の隠れた祈りによって、その家庭に再び平和が戻ってきたというのです。

 私たちも、自分が置かれたところで、このように、平和をつくり、人々の祝福のために祈る者になりたいと思います。古くから多くの人に祈られてきた「平和の祈り」をご一緒に祈りましょう。

 (祈り)

神よ、
わたしをあなたの平和の道具としてお使いください。
憎しみのあるところに愛を、
争いのあるところに赦しを、
分裂のあるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
偽りのあるところに真理を、
絶望のあるところに希望を、
闇に光を、
悲しみのあるところに喜びをもたらすものとしてください。
慰められるよりは慰めることを、
理解されるよりは理解することを、
愛されるよりは愛することを、求める者としてください。
与えることによって受け、
赦すことによって赦され、
自分に死ぬことによって、永遠のいのちを受けるからです。
アーメン。

7/30/2023