幸いな人々(二)

マタイ5:7-12

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5:7 あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8 心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 一、環境によって変わらないさいわい

 「幸福」という言葉を辞書で引くと「めぐりあわせのよいこと」(広辞苑)とありました。恵まれた環境に生まれ、健康で、問題なく育ち、好きな仕事に就き、良い配偶者に巡り会えたら、そういう人は「めぐりあわせのよい」幸福な人でしょう。しかし、あらゆるものに恵まれている人など、世界のどこにもいません。今日は恵まれていても、明日はどうなるか誰にも分かりません。別の国語辞典では「幸福」を「不自由や不満もなく,心が満ち足りていること」(大辞林)と定義しています。他の人から見て何の不自由も不満もないような生活をしていても、そうした生活を喜べず、不満に思っている人も多くいると思います。

 「五体不満足」という本を書いた乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)さんはテトラ・アメリヤ症候群という遺伝子の不具合から、生まれつき両手、両足がありませんでした。「めぐりあわせが悪く」生まれてきました。しかし、彼はこう言っています。

「ボクは、五体不満足な子として生まれた。不満足どころか、五体のうち四体までがない。けれども、多くの友人に囲まれ、車椅子とともに飛び歩く今の生活に、何ひとつ不満はない。…障がいは不便です。だけど、不幸ではありません。」
五体満足でも心に不満を持ち、喜びのない生活をしている人もあれば、障がいを持っていても、満足を感じながら生きている人もいます。「幸福」とはたんに「めぐりあわせのよいこと」や、なにもかも揃って、不自由も不便もないということだけでなく、「心が満ち足りていること」であることが分かります。

 「幸福」には二種類あります。ひとつは、"happiness" です。"Happiness" は "happen" から出た言葉です。思わぬお金が入った、病気が治った、問題が解決した、人に優しくしてもらったなど、身のまわりに良いことが起こった("happen")から、ハッピーだと感じる幸福です。私たちがふつう、「幸福」というときには "happiness" の「幸福」のことを考え、この「幸福」を求めています。しかし、私たちの身のまわりにいつも良いことが起こるとはかぎりません。身のまわりに起こることは、毎日変わります。一日のうちでも、いろんなことが起こります。朝、しあわせな気分で一日をスタートしても、昼には腹立たしい出来事に出会う、夕方には落胆して家に帰ってくるなどといったことはよくあることです。身のまわりの出来事に依存している幸福は、アップ・ダウンが激しく、長続きする幸福ではありません。

 しかし、もう一種類の「幸福」、"blessedness"(祝福)は、身のまわりに良いことが起こらなかったとしても、逆に、好ましくないことが起こったとしても、なお、その中で私たちを支えてくれる幸福です。イエスは「貧しい人たち」、「悲しんでいる人たち」、「柔和な人たち(あるいは卑しめられている人たち)」、「義に飢えかわいている人たち(あるいは、公平に扱われていない人たち)」にも「さいわい」を宣言されました。イエスが宣言された「さいわい」はその人が置かれている環境や、その人の外側の状態にはよらないものです。この「さいわい」は貧しい人の心にある宝、悲しむ人の目から涙をぬぐいとる慰め、低められている人に授けられる栄誉、正しい主張が受け入れられないでいる人に与えられる満足です。こうした「さいわい」は神が恵みによってくださるもの、天からの "blessedness"(祝福)です。そして、それは誰にも奪われることのないものです。

 イエスは言われました。

「このように、あなたがたにも今は不安がある。しかし、わたしは再びあなたがたと会うであろう。そして、あなたがたの心は喜びに満たされるであろう。その喜びをあなたがたから取り去る者はいない。」(ヨハネ16:22)
イエスが与える喜びを、誰も奪い取ることができないように、天からのさいわいは決して奪われることはありません。イエスが宣言されたさいわいは、私たちの心の奥深くに神が植え付けてくださるもので、環境がどう変わっても変わることはありません。時として、わたしたちはこの「さいわい」を忘れてしまって、自分の身に起こった好ましくないことに不満を持ち、嫌なことにつぶやき、辛いことに落胆してしまうことがあります。しかし、神に心を向けるとき、この世からは得ることができない、天の祝福が備えられていることを知るのです。イエス・キリストを信じる者にはそれがすでに与えられていることに気づくのです。環境によって変わることのないさいわいを祈りによって求めていきましょう。"Happiness" の幸福を失ったときは、とりわけ、真剣に祈りましょう。神は、わたしたちの心を満たし、わたしたちを変わらないさいわいへと導いてくださいます。

 二、環境を変えていくさいわい

 イエスが宣言されたさいわいは、困難な状況の中にあっても私たちを支えます。それによって困難を耐えることができます。困難を我慢するというのでなく、それを乗り越えていくことができます。困難な状況を変え、さいわいな状況を造り出していくことさえできるのです。イエスが語られた八つの祝福のうち、後半の四つのさいわいは、逆境を順境に変えていくものです。

 最初は、「あわれみ」です。イエスは「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう」と言われました。「あわれみ」とは小さいもの、弱い者、苦しむ者に向けられる愛のことです。神が私たちを愛してくださる愛はすべて「あわれみ」の愛です。全宇宙よりも大きく、全く聖い神が、小さく、罪深い人間に心をかけ、愛を注いでくださるのですから、その愛はあわれみの愛以外の何者でもありません。神は、人間が神に逆らって自ら苦しみを招いているにもかかわらず、自らの罪に苦しむ者をお見捨てになりませんでした。神は、決して、「自業自得だ。苦しむのは当然だ」などとは仰らないのです。私たちは、この神のあわれみによって救われるのです。

 わたしたちは、何か立派なことをしたから、何か特別なことができたから救われるのではありません。「わたしは正しい人間です。真面目に働き、家族を大切にし、教会でもよく奉仕をしています。だから、神さま、救ってください」と言って救われるのではありません。わたしたちを救うのは、「主よ、こんな罪びとのわたしをあわれんでください」という謙虚な祈りの姿勢です。"Lord, have mercy on me." これは、わたしたちに与えられている究極の祈り、必ず聞かれる祈りです。神は、あわれみ深いお方だからです。

 この神のあわれみを受け、知っているわたしたちは、神がわたしたちをあわれんでくださったように、他の人にもあわれみ深くあろうとします。自分よりも小さいと思える人、低いと思える人、弱い人の歩調に合わせて、その歩みを助けようとするのです。聖書に「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい。互に思うことをひとつにし、高ぶった思いをいだかず、かえって低い者たちと交わるがよい。自分が知者だと思いあがってはならない」(ローマ12:15-16)とある通りです。歩き始めたばかりの赤ちゃんに「ちゃんと歩け、しっかりしろ」などという親はどこにもいません。一歩でも二歩でも歩けたら、「歩けた! 歩けた!」といって大喜びします。それがあわれみの愛です。わたしたちも人の足らないところにどうしても要求的になり、それを責めることがあります。しかし、それを止め、人々の進歩を喜び、励ますことができたら、どんなにその人たちをしあわせにし、自分もしあわせになれることでしょうか。あわれみ深い人は、周囲にもさいわいを造り出すことができるのです。

 次に、イエスは「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう」と言われました。よく「神がいるなら見せてみろ」という人がいますが、そういう不敬虔な心では、神を見ることはできません。罪に曇った目では聖なる神を見ることはできません。神は「きよい」心の目でなければ見ることはできないのです。イエスが教えられた「きよさ」というのは、表面的な「きよさ」ではありません。それは内面のきよさ、人格のきよさです。それはまた、完全無欠であるということでもありません。いままでどんな罪も犯さず、失敗もしなかったといことではないのです。たとえ、罪を犯すことがあったとしても、それを悔い改め、赦され、欠けがあっても、神に頼り、ふたごころなく神に向っていくこと、それが「きよい」ということです。そういう人は、信仰によってきよい神の御顔を仰ぎ見ることができます。また、そうした信仰者の姿に、人々は神の素晴らしさを見るのです。「心の清い人たち」、神によってきよめられつつある人たちは、神を見るという、人間にとっての最高の幸福にいたり、また、他の人をも、そこに導くのです。

 イエスは、さらに、「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」と言われました。「平和」は、黙って待っていればやってくるものではありません。それは積極的に造り出していくものです。そして、それはコミュニケーションから始まります。ギリシャ語で「平和」という言葉は、「一緒になる、協力する」あるいは「語る、話しかける」という意味の言葉から生まれたと言われています。人が、力を合わせ、一緒にものごとをするためには、互いに語り会う、聞き合うことが必要です。

 初代教会でも平和が乱されることがありました。エルサレムの教会ではヘブル語を話すユダヤ人とギリシャ語を話すユダヤ人との間にトラブルがありました。使徒たちはそのために七人の人々を立てました(使徒6:5)。人と人とが問題を生み出します。しかし、また、その問題を解決するのも人なのです。ピリピの教会ではユウオデヤとスントケというふたりの女性がなかなか一致ができませんでした。パウロは、「真実な協力者」と呼ばれる人に、ふたりを助けてあげるよう、頼んでいます(ピリピ4:3)。さらに、パウロは「兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい」(テサロニケ第一5:14)と教えています。聖書は、互いに戒め合うこと、訓戒し合うことを教えています。人を誉め、励まし、助けるのにも勇気が必要ですが、人を戒めるにはもっと大きな覚悟が必要です。互いに「訓戒し合う」ためには、なによりも愛が、そして知恵が必要です。問題が起こったとき、「波風を立てないように」それをカバーアップしても、そこから本当の平和は生まれません。互いを大切にしながら、愛と知恵をもって平和を生み出していく、それはほんとうに尊いことです。そのようにして平和を造り出す人は「神の子ども」と呼ばれるにふさわしいと思います。神は平和の神ですから、平和を造り出す人は「神の子ども」です。わたしたちも、家庭で、職場で、教会で平和を造り出す人となり、「神の子ども」となって、平和の神を指し示す者になりたいと思います。

 最後のさいわいは、迫害を受けるさいわいです。イエスは「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」と言われました。「あわれみ深い」こと、「こころが清い」こと、また「平和を造り出す」ことが「さいわい」であることは誰にも分かりますが、「迫害を受ける」のがどうして「さいわい」なのかは、理解しにくいことです。わたしたちが信仰に立ち、正しい生活に励もうとするとき、「迫害」とまではいかなくても、どこかで反対に出会ったり、誤解されたり、嫌われたりすることがあるものです。この時代は聖書が言うように「曲がった時代」ですから、そこをまっすぐに生きようとすると、どこかでぶつかってしまうのです。もし、わたしたちが曲がった時代に妥協して生きているなら、反対を受けたり、辛いことを体験することはないでしょう。ですから、「迫害を受ける」というのは、信仰によって神の真理の光の中に歩むことなのですから、それはさいわいなことなのです。

 日本では、キリストを信じてバプテスマを受けようとすると、家族に反対されることがあります。「教会に行くのは許してやっているが、バプテスマを受けたら勘当だ」「離婚するぞ」などといったことが、かつてはありました。今もあるかもしれません。家族で誰かが違う信仰を持つと家庭の平和が乱れると思われているからです。たしかに一時的には平和が乱れるようなこともあるでしょう。しかし、それは一時的なことで、しっかり信仰に立ち続けるなら、必ず家族の理解を得ることができます。家族の中に救われる人たちが起こされ、ほんとうの平和が造り出されます。信仰を守ることが、最終的には家族を守ることになるのです。信仰に踏みとどまってキリストを証ししていくとき、それは、必ず、家族にも、自分にも、神の祝福、さいわいが与えられるのです。

 埼玉に社会福祉法人・愛の泉という福祉施設があります。これは1945年にふたりの日本人とドイツ人宣教師ゲルトルード・エリザベート・キュックリッヒさんの三人によって始められたものです。キリスト教信仰に基づいての福祉事業を行ってきました。この愛の泉の創設者のひとり、キュックリッヒさんがこんな証しを残しています。彼女はまだ子どものころ、ドイツでのことですが、母親を亡くしました。それからしばらくして父親が再婚しました。いわゆる「継母」が家庭に入ってきたのです。彼女はまだ小さかったので継母になつきましたが、彼女の四人の兄たちはもう成長していて、みな継母に冷たく、ことあるごとに批判していました。そのため家の空気は一変して冷たくなりました。

 ある日のこと、キュックリッヒさんが用事を伝えるために、家の中で継母を探しまわっていました。台所にも、居間にも、いませんでした。ところが、ふと、父親の部屋のドアを開けると、そこに継母がいました。父親の部屋にはゲツセマネの園で祈っておられるイエスを描いた絵が飾ってあったのですが、継母はその下で、ひとりで、熱心に祈っていたのです。キュックリッヒさんは驚いてドアを閉め、自分の部屋に帰っていきましたが、そのときに聞いた継母の祈りの言葉が耳から離れませんでした。それは四人の兄たちの中でも一番継母につらくあたっていた一番上の兄のための祈りの言葉でした。継母はその兄のさいわいを心を込めて祈っていたのです。この継母の隠れた祈りによって、その家庭に再び平和が戻ってきたのです。

 幸福は「めぐりあわせ良いこと」だけではありません。もし、そうなら、めぐりあわせの悪い人は、しあわせをあきらめなければなりません。イエスが教えてくださったさいわいは、たとえめぐりあわせの悪い中でも、わたしたちを支え、励まし、力づけてくれるさいわいです。それは、悪いめぐりあわせに働きかけて、それを良いものへと変えていきます。環境に負けないで、自分に冷たくするような人にもふりまわされないで、イエスの与えてくださるさいわいに目をとめ、そのさいわいにしっかり立ちましょう。信仰によって、祈りによって、証しによって、自分の置かれた場所がさいわいな場所へと変わっていくのを見せていただきましょう。

 (祈り)

 わたしたちのさいわいのみなもとである父なる神さま、ほんとうのさいわいは、わたしたちの心の奥深くに与えられるあなたからの祝福です。このさいわいを感謝します。どうぞ、わたしたちの内側にある、あなたの祝福が、わたしたちの置かれた場所をさいわいの場所へと変えて行くまでに、わたしたちを守り、導き、助けてください。目に見えるものに左右され、失望したり、逃げ出したりしやすいわたしたちを、あなたの祝福で強めてください。あなたの御子に倣って歩み、あなたの子どもと呼ばれるさいわいを味わうことができますように。主イエスのお名前で祈ります。

2/23/2014