父の子どもになる

マタイ5:43-48

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5:43 『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
5:45 天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。
5:46 自分を愛してくれる人を愛したとしても、あなたがたに何の報いがあるでしょうか。取税人でも同じことをしているではありませんか。
5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたとしても、どれだけまさったことをしたことになるでしょうか。異邦人でも同じことをしているではありませんか。
5:48 ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい。

 一、「神の子ども」だから

 「山上の説教」で、イエスは神を「あなたがたの父」と呼んでおられます。5:16に「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです」とあり、5:45にも「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」とあって、神が「あなたがたの父」と呼ばれています。

 マタイ6章には4節に1回の割合で、「あなたがたの父」という言葉が出てきます。1節、「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。」4節、「あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」6節、「あなたが祈るときは、…隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」8節、「ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。」14節、「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」15節、「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。」18節、「それは、断食していることが、人にではなく、隠れたところにおられるあなたの父に見えるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が報いてくださいます。」26節、「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。…」そして32節、「これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。」

 聖書を読むとき、繰り返し出てくる言葉に注目するのは良いことです。それによって、何が大切なことかが分かります。「あなたがたの父」は、イエスの教えの焦点が、神が「父」であり、イエスに従う人々が「父の子ども」であることを教えています。聖書のすべてがそうですが、とくに「山上の説教」は、たんに「こうしなさい」、「ああしなさい」という教えではありません。むしろ、神と神を信じる者が父と子どもという愛の関係で結ばれていることを教えるものなのです。イエスの教えを正しく理解するためには、神が私たちの父となってくださったこと、私たちが神の子どもとされていることを理解していることが必要です。

 二、「神の子ども」とされる

 では、人はどのようにして神の子どもとされるのでしょうか。第一に、それは信仰によってです。ヨハネ1:12-13にこうあります。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意志によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」旧約時代にはイスラエルの子孫、つまり、アブラハムの血筋を引く者が神の子どもと呼ばれました。しかし聖書は「血によってではなく」と言ってそれを否定しています。また、多くの宗教では、懸命に修行して、普通の人間のレベル以上に達した人が「神の子ども」と呼ばれます。人間の努力や強い願望が人を「神の子ども」にすると思われているのですが、聖書は「肉の望むところでも人の意志によってでもなく」といってそれも否定しています。人が神の子どもとされるのは、信仰によるのです。しかも、漠然とした「信仰」ではありません。「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった」とあるように、イエス・キリストを神の御子、救い主、全世界の主と信じる信仰によってなのです。

 なぜ「イエス・キリストを信じる信仰」でなければならないのでしょう。それは、イエス・キリストこそがまことの神の御子、私たちを神の子どもとしての身分を与えてくださることができる方だからです。その神の御子であるお方が、神の御子としての栄光を捨てて天から降ってこられました。自らしもべとなって、人々に仕えてくださいました。古代の裕福な家には、大勢のしもべがいて、主人に仕えていましたが、その家の子どもとしもべの間には厳格な区別がありました。しもべたちは短い丈の着物を着、たいていは裸足でした。しかし、子どもは長い裾の服を着、履物を履いていました。しもべは主人と家族が食事をするときには給仕をし、主人と家族の食事が終わってから、自分たちの食事をしました。神の御子であるイエスは本来は私たちによって仕えられるお方なのですが、そのようなしもべになられたのです。それは、私たちを神の家族の息子、娘とするために、私たちに仕える者となってくださった。ご自分の子としての身分私たちに与え、私たちの罪の一切をその身に負われたのです。イエスは言われました。「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。」(マルコ10:45)これは、イエスの十字架を意味しています。イエスによらないで、誰も神の子どもとされることはありません。私たちが神の子どもとされるのは、神の御子であるイエスを受け入れる信仰だけによるのです。

 神の子どもとされるのは、第二に、聖霊によってです。イエスはヨハネ3:3で、「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。この言葉を聞いて驚いたニコデモに、イエスはさらにこう言われました。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3:5-6)これは、人が心を開いてイエス・キリストを迎え入れるなら、聖霊がその人のたましいに働いて、その人を内側から新しく造り変え、神の子として生んでくださることを言っています。

 聖霊は、生まれ変わった人に、イエスに対する信仰の告白を与えてくださいます。コリント第一12:3に「ですから、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも『イエスは、のろわれよ』と言うことはなく、また、聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です』と言うことはできません」とある通りです。「イエスは主キリストです」との信仰告白は、神の子どもの産声です。また、ローマ8:15-16に「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは『アバ、父』と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます」とあるように、聖霊は、私たちが神の子どもとされていることを、確信させてくれます。神は、この大宇宙の創造者、あらゆるものの支配者、何の汚れも、曇りもない、聖なるお方です。そのことを考えるだけで、私たちは神に近づくことさえできないと思ってしまいます。しかし、イエス・キリストを信じ、聖霊によって生まれ変わり、「神の子ども」とされた者は、神に向かって、「父よ」と叫び、イエスに向かって、「主よ」と呼び求めることができるのです。神を父と呼び、イエスを主と呼ぶことができれば、私たちはどんな困難にも立ち向かうことができ、苦しみの中でも絶望してしまうことはありません。これが私たちに与えられた「神の子どもとされる特権」です。

 ヨハネの手紙第一3:1に「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい」とあります。皆さんは、このことを深く思い巡らしたことがありますか。どれほど頻繁に「考えて」いますか。ときたまではなく、いつも心に覚えましょう。そうすれば、私たちは感謝にあふれ、喜びが湧き上がり、力に満たされるのです。

 三、「神の子ども」になる

 イエス・キリストを信じる者は、すでに「神の子ども」です。それは、私たちの善良さや、努力によるものではありません。何かをして「神の子ども」になるのではありません。ですから、「山上の説教」には「神の子どもになりなさい」とは教えられていません。信仰を持つ人々に、すでに「神の子ども」なのだ。だから、天の父の子どもとして、父のみこころを学び、それに従いなさいと教えているのです。

 今日の箇所で、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」とあるのは、ユダヤの言い伝えの律法、パリサイ人や律法学者が教えていたものです。彼らは聖書の言葉を人間が行い易いものに変えてしまったのです。イエスは、パリサイ人や律法学者の教えをとりあげ、それを一つひとつ否定しておられます。「あなたがたは、そう聞いているが、それは言い伝えに過ぎない」と、誤りを正しておられるのです。ここでも、「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と教えておられます。

 自分に反対する人を憎く思い、自分を苦しめる人にやりかえしたくなる、それが多くの人の正直な気持ちでしょう。「敵を愛し、迫害する者のために祈る」――そんなことなどできないと考えるのが普通です。イエスの教えよりも、律法学者やパリサイ人の教えのほうが現実的で守りやすいと考えても不思議ではありません。しかし、彼らの教えは、どうやったら世の中をうまく生きていけるかという、人間の側からの教えにすぎません。私たちが学び、従うべきものは、神のみこころです。人ではなく、神が何を望んでおられるかです。イエスは「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と教えられました。パリサイ人や律法学者のように、神のみこころの水準を引き下げてしまったら、完全を目指す神の子どもとしての成長が止まってしまうのです。しかし、不完全な私たちが完全を目指すのですから、簡単にいくはずがありません。何度も失敗するでしょう。ですから、神の子どもにしていただくために信仰が必要なように、神の子として生きることにおいても、神に信頼し、神の助けを願い求める信仰が必要なのです。

 イエスが言われた「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」との言葉は、以前の訳では「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです」(新改訳第二版)となっていました。私は、はじめてこの言葉を読んだとき、私には敵をも愛するような大きな愛がない、私は神の子どもにしていただけないのだろうかと不安になりました。けれども、これは、私が神のみこころを守り行うことによって神の子どもになるというのではなく、神の子どもとされたのだから、神の子どもらしくあり、神のみこころを行うことができるため、より神に信頼するのだと知り、安心しました。

 こんな話があります。昔、ある国の王子は、落ち着きのない人で、いつもきょろきょろしていました。それで、王子が落ち着きをなくすと、お付きの人が王子の袖を引っ張って、こう言うのです。「殿下、ご身分を!」王の子どもであることを自覚してくださいというわけです。やがて、この王子は、自分の身分や立場を自覚して、立派な王になったとのことです。私たちも、イエス・キリストを受け入れ、神の子どもとされているのなら、「天の父の子ども」としての身分や立場を自覚していたいと思います。天の父の子どもとして成長したいと願うなら、自分が神の子どもとされていることを確信し、自覚することから始めましょう。この週も、私たちが神の子どもと呼ばれるために、天の父がどんなに大きな愛を与えてくださったか、今も、その愛で包み込んでいてくださるかを、できるだけ数多く、深く思いみましょう。天におられる愛の父を仰ぎながら歩み続けましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたを「父」と呼ぶことができること、あなたが、ご自分の子どもを決してお見捨てにならないことを心から感謝します。私たちは、あなたの完全にほど遠い者ですが、あなたの子どもとして、それを目指して生きたいと願っています。そのために、あなたが私たちをあなたの子どもとしてくださった愛に留まる者としてください。御子イエスのお名前で祈ります。

8/13/2023