柔和な者のさいわい

マタイ5:1-5

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5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
5:5 柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう。

 一、神の国の幸い

 国連とコロンビア大学は、2012年から、世界157ヵ国の「幸福度」ランキングを調査しています。今年(2016年)3月16日に発表されたものによると、第1位はデンマーク、2位はスイス、3位はアイスランド、4位はノルウェー、5位はフィンランド、6位はカナダ、7位はオランダ、8位はニュージランド、9位はオーストラリア、10位はスゥエーデンです。アメリカは13位、日本は53位となっています。

 主イエスの時代のユダヤの国は、もし、「幸福度調査」というものがあったなら、おそらくずいぶん低いランキングになったでしょう。国はローマ帝国の属国になっており、多くの人々は貧しく、明日の生活の保証などありませんでした。ところが、主イエスは、ご自分に従ってきた人々に「あなたがたはさいわいだ」と、力強く宣言されました。なぜ、主イエスは、そういうことができたのでしょう。それは、主イエスを信じ、主イエスに従う者が神の国の国民とされているからです。神の国の国民が「幸せ」でないはずがありません。神の民は、この世のレベルを超えた最高の幸福と祝福を受けているのです。それは、神の国の王である主イエスが「さいわいだ」と宣言されるのですから、これ以上確かなことはありません。

 しかし、「神の国」とは、いったいどんなものなのでしょう。ユダヤの人々は、「神の国」を、ユダヤが「復興」することだと考えていました。ダビデやソロモンの時代のように、力強い王がユダヤに現れ、独立国家になることによって「神の国」が実現すると考えていました。しかし、主イエスが教えられた「神の国」は、そういうものではありませんでした。「神の国」はユダヤの人々のためだけのものではなく、ましてや、ローマ帝国と戦って独立を勝ち取るといった、政治的なものでもありませんでした。「神の国」は世界のすべての人のためのもので、人々をこの世の闇から解放するものです。この「神の国」は、特定の場所を指して、「ここにある」、「あそこにある」と言うことができるものではなく、「神の国」の王である主イエスがおられるところ、つまり、主イエスを受け入れた人々の中にあるのです。人は、主イエスをこころに、生活に、人生に受け入れることによって、「神の国」に入るのです。人はどこにいても、そこで「神の国」の「さいわい」を受けることができるのです。神の国の民として、地上のどんなものも与えることのできない「さいわい」を受け取るのです。ローマ14:17に「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである」と書かれているとおりです。

 わたしたちは「主の祈り」で「御国を来たらせたまえ」と祈りますが、それは、「神の国」が目に見える形で実現しますようにとの祈りであるとともに、今、目に見えない形で、わたしたちの人生に働くようにとの祈りなのです。天を目指す者たちは、地上でも「神の国」の「さいわい」を体験しながら、やがて、それが全世界に及ぶことを待ち望んでいるのです。

 二、民の苦しみを知る王

 さて、主イエスが、「さいわい」を力強く宣言することができた第二の理由は、御国の王である主が、人々の貧しさ、悲しみ、また絶望を知り尽くしておられたからです。もし、主イエスが、なにもかも恵まれて育ち、何の苦労も知らず、人々の生活からかけ離れたところにおられたとしたら、主イエスが「こころの貧しい人たちは、さいわいである」、「悲しんでいる人たちは、さいわいである」と言われたとしても、それは、そらぞらしく聞こえたことでしょう。人々は、「彼は貧困の苦しみを知っているのか」、「人生の悲しみを味わったことがあるのか」と反論したかもしれません。

 主はまた「柔和な人たちは、さいわいである」と言われましたが、「柔和」という言葉には「無に帰す」という意味があります。さまざまな苦しみ、圧迫に押しつぶされて、心が砕けてしまう、つまり絶望してしまうということです。ですから、もし、主イエスが人々の絶望を理解できそうもない恵まれたところにいたなら、人々は「われわれの失望、絶望を分かっているのか」という気持ちになったことでしょう。

 しかし、主イエスは、人が体験するすべての苦しみを味わったお方です。「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と言われた主イエスは、貧しくなることがどんなことかを、誰よりもよく知っておられました。コリント第二8:9にこうあります。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、あなたがたが、彼の貧しさによって富む者になるためである。」近頃は、大金持ちが一夜にしてホームレスになることもある時代ですが、主が貧しくなられたのは、それ以上のことです。主は、神の御子として持っておられた天の栄光をすべて捨て、この地上に人となって来られました。この落差は、地上のどんなものとも比較することはできません。主が人となられたとしても、地上でそれふさわしい尊敬を受けたのであればまだしも、主は、大工の子として生まれ、貧しく育ち、貧困の苦しみを知っておられました。主は、本来なら、王宮の玉座に座すべきお方なのに、マタイ5章では、主に与えられた玉座は山の上の石でした。群衆は、最初はもの珍しさもあって主イエスを歓迎しましたが、やがて主が語られる真理に耳を塞ぐようになりました。主は、命がけで人々を愛したのに、人々は主を斥け、卑しめ、さげすんだのです。主イエスほど、ご自分を貧しくなさったお方はありません。

 主はまた、人の「悲しみ」を知っておられました。イザヤ53:3は、主イエスのことを預言して、「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった」と言っています。

 主はまた、「絶望」を知っておられました。人は、どんな苦しみの中でも、「救いの道がある。自分を救ってくれる人がいる」という希望があるかぎりは、それに耐えることができます。聖書にあるヨブという人は、家族を失い、財産を奪われ、彼自身もひどい病気にみまわれました。しかし、それでも、ヨブには希望の光がありました。それは、ヨブが語った言葉に表れています。ヨブは言いました。「わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。」(ヨブ19:25)ヨブは、この希望によって、生きながら死を味わうような苦しみを耐えることができたのだと思います。

 主イエスも、十字架の上で生きながらの死を体験されましたが、主イエスの場合はすべての希望の光が奪われています。主が十字架にかけられたとき、正午から午後3時まで暗闇が十字架を包みました。主は、その暗闇の中で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と叫ばれました。主は、その言葉のとおり、十字架の上で、神にさえ見捨てられたのです。それは、主が全人類の罪をその身に負われ、罪びととなられたからです。主は、人が体験するあらゆる貧しさ、悲しみ、そして絶望を背負い、十字架で死なれました。それは、あらゆる貧しさ、悲しみ、絶望のみなもとである罪から人々を救うためでした。わたしたちは、主イエスの貧しさによって富む者となり、主イエスの悲しみによって喜びに満たされ、主イエスが味わった絶望によって、希望を与えられるのです。

 ここにわたしたちの救いがあり、「さいわい」があります。主イエスが宣言してくださる「さいわい」は、主イエスが、信じる者たちのために、ご自分のいのちをかけて得てくださった「さいわい」です。わたしたちは、この「さいわい」を無駄にすることなく、信仰をもってしっかりと受け取り、保っていたいと思います。

 三、信じる者への報い

 主イエスが「さいわい」を力強く宣言できた第三の理由は、貧しさや悲しみ、そして失望や絶望さえも、主イエスにあっては、祝福へと変わるからです。

 主イエスは、貧困に苦しむ人々に、「『こころ』の貧しい人たちは、さいわいである」と言われました。「こころの」という言葉をつけ加えることによって、人々の目を物質的な貧しさから霊的な貧しさへと向られました。信仰者が、他の人々と同じように物質的な貧しさに苦しめられて終わるのでなく、そこから、自分が神の前にどんなに力のない者、貧しい者であるかを知り、より神に信頼する者、つまり、信仰に富む者になるようにと、主は願っておられるのです。「悲しんでいる人たちは、さいわいである」というのも、同じです。不幸、不運を嘆くのではなく、自分の罪を悲しみ、悔い改めへと導かれるようにというのが、主のみこころです。

 同じように、主はさまざまな苦しみ、圧迫に押しつぶされて、心が砕けてしまった人、失望や絶望を味わっている人を、そのままにはしておかれません。その心を、神に対して砕かれたものにしてくださるのです。「柔和な」という言葉には「無になる」という他に、「従順な」、「へりくだった」、「優しい」という意味があります。つまり、自我が砕かれ、神に従順で、人に優しいということです。神は、信仰者の苦しみを決して無駄にはなさいません。それを用いて、「柔和な」者へと造りかえ、「柔和な人たちは、さいわいである、彼らは地を受けつぐであろう」とあるように、柔和な者に与えられる、神の国の祝福を注いでくださるのです。

 「柔和な人が地を受け継ぐ」というのは、何も、地所を手に入れるという意味ではありません。これは、「しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる」という詩篇37:11の言葉から取られたものです。様々な苦しみを通って、神に信頼するようになった人たちは、この世にあっても、神の守りの中に生きることができるという意味です。それは、詩篇10:17-18に「主よ、あなたは柔和な者の願いを聞き、その心を強くし、耳を傾けて、みなしごと、しえたげられる者とのためにさばきを行われます。地に属する人は再び人を脅かすことはないでしょう」とあることからも分かります。また、イザヤ書29:19には「柔和な者は主によって新たなる喜びを得、人のなかの貧しい者はイスラエルの聖者によって楽しみを得る」とも約束されています。

 主は「わたしは柔和で心のへりくだった者である」と言われました。主は、この言葉によって、「わたしは、あなたの苦しみ、悩み、痛みを知っている」と語っておられるのです。また、主は、この言葉によって、「あなたがわたしに従うというのなら、あなたもわたしのように柔和で心のへりくだった者となりなさい」と言っておられるのです。そして、主は続けてこう言われました。「わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。」(マタイ11:29)信仰者であっても、心身ともに押しつぶされるような経験をします。「なぜ、わたしはこんな苦しみに遭わなければいけないのか」という思いを抱いてしまうような状況に置かれることがあります。しかし、忘れてはならないのは、どんな苦しみも、主イエスにあっては、祝福になるということです。失望や絶望さえも、信じる者には、「柔和な者」になっていくためのプロセスのひとつであり、それは「地を受けつぐ」という祝福に変わり、そのたましいは安息を見出すのです。

 「あなたはさいわいだ」との祝福の言葉に押し出されて、この一週間を歩み出しましょう。ひとりで歩くのではありません。主がともに歩いてくださいます。主と、主がくださる報いから目を離さずに、一歩を踏み出しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエスを信じる者を御国の民とし、この世が与えることのできない祝福を与えてくださいました。主を信じるわたしたちに、なおも、その祝福がどんなに大きく、豊かなものであるかを教えてください。そして、その祝福の中を歩むことができるよう、助けてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/17/2016