悲しむ者の幸い

マタイ5:1-4

オーディオファイルを再生できません
5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:4 悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。

 ある大学の実験室で、教授がごくわずかな透明の液体を学生たちに渡して言いました。「これが何か、分析しなさい。」学生たちは懸命になって作業にとりかかりましたが、それが何であるか、なかなかわかりませんでした。だいぶ時間がたって、ひとりの学生が言いました。「教授、やっと分かりました。これは人の涙です。」教授は、「そのとおりだ。よくやった」と学生をほめてからこう言いました。「さらにくわしく分析すれば、この涙が悲しくて流した涙か、うれしくて流した涙かを見分けることもできるだろう。しかし、科学技術によっては、どんなうれしいことがあってこの涙が流されたか、どんな悲しいことがあって出てきた涙かは知ることはできない。ましてや、科学技術は悲しみをいやすことはできない。科学技術が万能だなどと、決して思ってはいけない。科学者、技術者は、人生の神秘の前に謙虚にならなければならない。」

 そう言って教授は学生たちを戒めたのですが、この教授の言ったことは真実だと思います。人が流す涙の真実な意味は、心理学などを駆使しても、完全には分からないでしょう。しかし、主イエスは、わたしたちの流す涙の意味を理解し、慰めてくださるお方です。どうして、そう言うことができるのでしょうか。

 一、涙された主

 それは、第一に、主は、わたしたちのために、また、わたしたちと共に涙を流してくださるお方だからです。

 ヨハネ11:35に「イエスは涙を流された」とあります。これは聖書でいちばん短い節ですが、とても心強い言葉です。主イエスが親しくしていたラザロが死んで、その墓に向かうとき、主は、ラザロの姉妹マリヤが泣き、いっしょにいた人々も泣いているのをご覧になり、涙を流されました。

 主は、すでに、「わたしはよみがえりであり、命である」と言われ、今、ラザロを生き返らせるために墓に向かっています。涙などいらないはずです。しかし、ラザロがもうすぐ生き返るとしても、主は、愛する者を失った人々の悲しみを、ご自分の悲しみとされたのです。

 主がそのとき悲しまれたのは、どの人の人生の最後にも必ずやってくる「死」という現実でした。聖書に「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)とあるように、死は罪の結果です。もし、人に罪がなければ、人は死を知ることがなかったでしょう。人は神とともに、永遠を過ごすことができたでしょう。主が涙を流されたのは、ラザロとその姉妹のためだけでなく、罪のために死の恐怖に縛られている、人類すべてのためでもありました。

 主がラザロを生き返えらせたのは、ご自分の十字架がすぐそこに迫っている時でした。主は、涙を流されただけでなく、十字架の上で血を流し、人々を罪から贖い出してくだいました。ご自分の死によって死を滅ぼし、永遠の命を与えてくださいました。主は、人が罪のために死んでいくのを黙ってみておられるお方ではありません。人の罪を悲しみ、その解決のために、涙とともに血を流してくださったお方です。

 マタイ5:1に、「イエスはこの群衆を見て…」とあります。マタイ9:36に「(イエスは)群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた」とありますから、山上の説教を語られたときも、主は深いあわれみをもって人々をご覧になったに違いありません。人の目には大丈夫そうに見えても、主イエスの目には「弱り果て、倒れかかっている」人たちのために、主はその人たちを生かし、励まし、導く、命の言葉を語ってくださったのです。イエスは主であり、王であるお方、最高の権威を持っておられるお方であるのに、常に、人々と同じ立場に立ち、人々とともに歩んでくださるのです。「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」で使われている「慰める」という言葉には「傍にいる」という意味があります。主は、悲しむ者に、第三者的に「めそめそするな、頑張れ」と言われたのではなく、「幸いだ」「祝福されている」と言われました。主は人々の悲しみを共にし、悲しみの中にある人と共にいてくださるお方です。主が共にいてくださる以上の祝福はありません。

 二、涙の祈り

 主イエスがわたしたちの流す涙の意味を理解し、慰めてくださるのは、第二に、主もまた、父なる神に涙をもって祈られたお方だからです。ヘブル5:7に「キリストは、その肉の生活の時には、激しい叫びと涙とをもって、ご自分を死から救う力のあるかたに、祈と願いとをささげ、そして、その深い信仰のゆえに聞きいれられたのである」とあります。この言葉を読むと、主が十字架を前にして祈られた「ゲツセマネの祈り」を思い浮かべますが、主が「激しい叫びと涙とをもって」祈られたのは、その時だけではなく、ご生涯を通してであったと思います。

 詩篇39:12に「主よ、わたしの祈を聞き、わたしの叫びに耳を傾け、わたしの涙を見て、もださないでください。わたしはあなたに身を寄せる旅びと、わがすべての先祖たちのように寄留者です」とあります。「涙の祈り」は、真実な信仰者たちに共通した体験でした。ハンナは神殿で泣いて祈り、その願いが聞き届けられました(サムエル第一1:10)。ヒゼキヤの涙も覚えられ、その病気がいやされました(列王紀第二20:5)。パウロも人々のために涙をもって祈りました(使徒20:19, 31)。そうであるなら、主イエスがゲツセマネ以外でも、涙の祈りをささげられたことは確かなことです。

 わたしたちはさまざまな時に涙を流しますが、主イエスがいちばん心に留めてくださるのは、祈りの中で流す涙だと思います。なかでも、自分が神のみこころを痛めていることに気付き、そのことを悲しんで祈る祈りを、主は、受けとめ、聞き入れてくださいます。

 コリント第二7:8-10は、このような悲しみについて、こう言っています。「そこで、たとい、あの手紙であなたがたを悲しませたとしても、わたしはそれを悔いていない。あの手紙がしばらくの間ではあるが、あなたがたを悲しませたのを見て悔いたとしても、今は喜んでいる。それは、あなたがたが悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めるに至ったからである。あなたがたがそのように悲しんだのは、神のみこころに添うたことであって、わたしたちからはなんの損害も受けなかったのである。神のみこころに添うた悲しみは、悔いのない救を得させる悔改めに導き、この世の悲しみは死をきたらせる。」

 ここには「この世の悲しみ」と「神のみこころに添うた悲しみ」とが、「悔い」と「悔改め」とが対比されています。「悔改め」とは、たんに、「あんなことをしなければよかった」と過去を悔やみ、そのことを悲しむことではありません。自分を哀れに思い悲しむことからは何の良いものも生れません。しかし、自分の罪を知って、それを悲しむことから、悔改めが生れます。悔改めは、罪の赦しへと導き、そこから、新しい歩みがはじまります。悔改めのない人生は後悔だけが残る人生ですが、悔改めのある人生は後悔のない人生となります。わたしたちは、真実な悔改めによって、悔いのない人生を送りたいと思います。

 真実な悔改めは、静かに、また、深く祈る中で、神の言葉と聖霊に導かれて体験するものです。毎日せわしなく過ごしていては、そこに至ることはできません。また、そそくさと祈るだけでは、それに導かれることもありません。エペソ4:30に「神の聖霊を悲しませてはいけない」とあるように、聖霊がわたしたちのうちで悲しんでくださる悲しみを共にすることによって、わたしたちははじめて真実な悔改めに導かれます。

 礼拝は喜びの時ですが、そこには、神に喜ばれないことを悲しむ、「聖なる悲しみ」も伴うものです。とりわけ、主の晩餐に臨む前にはそうだと思います。最高の祈りのときである礼拝、とりわけ、晩餐式に、精一杯の真実、誠実をもって備え、主に近づきたいと思います。そして、この主から、「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう」との言葉を聞きたいと思います。

 三、涙は拭われる

 さて、第三に、主イエスが、わたしたちの涙を完全に拭ってくださることを確認しておきましょう。

 イエス・キリストを信じる者たちは、罪を赦され、新しい人生を与えられました。ですから、かつては、自分の不幸を嘆いたり、悲しんでいたりしても、今は、もうそのようなことでは悲しみません。他の人から冷たい視線を向けられたり、軽く扱われたり、不利な目に遇わせられても、神をあがめることができます。なぜなら、信仰者は、神の子どもとされ、やがて天を相続することを知っているからです。

 しかし、信仰者には、何の悲しみもなく、涙を流すこともないかというと、そうではありません。信仰者もまた生身の人間として、この世では、痛み、悲しみを避けることはできません。自分に向けられた侮辱には耐えることができても、主イエスに対する侮辱を目にし、耳にするとき、心が痛みます。なにより、多くの人が、神を求めようとしないことに、悲しまずにはおれません。天が約束されていても、愛する人との地上の別れは悲しいものです。クリスチャンは罪の刑罰から「すでに」救われています。罪の存在からも、「やがて」救われるでしょう。しかし、この世にある限り、クリスチャンは、「すでに」と「やがて」の間で生きていて、様々な闘いや悲しみを体験します。けれども、そうした中でも、神に愛され、守られているという、天からの不思議な平安と喜びを味わうのです。それがクリスチャンの地上の生活です。

 しかし、やがて、すべてが平安に、すべてが喜びに包まれる時がやってきます。聖書はその時のことをこう描いています。「わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、『見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:1-4)

 これは、わたしたちの救いの完成を描いたものですが、この救いは、いきなり完成するのでなく、はじまりがあり、成長があって、完成に至るものです。ヨハネ1:14に「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」とあります。イエス・キリストが人となられたことを言っている言葉ですが、「宿る」と訳されている言葉には「幕屋を張る」という意味の言葉が使われています。「神の幕屋が人と共にある」という完成の時は、イエス・キリストが人なって世に来られたときに始まったのです。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」というヨハネ1:12の言葉の通り、「人は神の民となる」ということも、この二千年、数えきれないほどの人々がイエス・キリストを信じて、神の子ども、また、神の民とされることによって成長しているのです。イエス・キリストによってはじまった救いは、今、完成に向かっています。主イエスを信じたとき与えられた救いは、わたしたちのうちで成長し、完成に向かうのです。

 わたしたちは、完成した救いにいきなり入るのではありません。イエス・キリストがはじめてくださった救いを今、受け入れ、みずからのうちに救いの成長を見ることによって、救いの完成に至るのです。今は目に見えなくても、主イエス・キリストを受け入れる者が、やがての日に、主イエスに顔と顔とを合わせることができるのです。今、たとえ涙を流すことがあっても、主イエスに信頼し、従っていく者が、やがての時に、その涙を拭っていただけるのです。このとき、「彼らは慰められる」という約束は完全に成就します。たとえ、この世が悲しみ多いものであったとしても、その中で涙の日々を過ごすことがあっても、この主の約束に慰められ、日々を歩みたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、さまざまなことで悲しみます。しかし、主イエスは悲しむ者にも「幸い」を告げてくださいました。その「幸い」を得るため、わたしたちのために涙を流し、血を流し十字架に死なれた主の深い悲しみの心を悟るものとしてください。あなたのみこころに添った悲しみを悲しむ者としてください。すべての涙が拭われる日を待ち望んで、あなたの慰めの中に生きる者としてください。わたしたちとの悲しみを共にになってくださる主イエスのお名前で祈ります。

5/29/2016