心の貧しい者の幸い

マタイ5:1-3

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5:1 イエスはこの群衆を見て、山に登り、座につかれると、弟子たちがみもとに近寄ってきた。
5:2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて言われた。
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

 一、幸いはどこに

 人はみな、「幸いでありたい」と願っています。誰もが、どうしたら幸いになれるだろうかと考え、幸いになるために努力しています。

 今日では、多くの人が「幸い」とは、お金を得ること、財産を築くことだと考えています。確かに、収入は必要です。働いて収入を得、自分の生活を支えることは、決して利己的なことではありません。それは、借金したり、人の世話になったりして、他の人に迷惑をかけないためにする、愛の行為とも言えるでしょう。聖書は、「貧しい人々に分け与えるようになるために、自分の手で正当な働きをしなさい」(エペソ4:28)と教えています。

 しかし、「お金で幸せが買える」とか、「お金さえあれば幸せになれる」というのは間違っています。ありあまるほどの財産を持ち、セキュリティ・ガードのある邸宅に住んでいても、心に平安がなく、いつも何かに怯えている人がいます。毎日豪華な食事をしていても、砂を噛むようにしか味わえないでいる人もいます。人の内面の平安や希望、満足は、外側のものでは決して満たすことはできないのです。

 財産を得た人が次に求めるのは、地位や名誉、権力です。何事かをなしとげるためにはそうしたものも必要でしょう。わたしが知っている、ある下院議員は、以前学校の教師でした。子どもたちがもっと良い教育を受けられるため、何かしてやりたいと願っていました。しかし、教師としてできることに限界を感じ、現状を変えるためには、「力」が必要だと考え、政治の世界に入ったと、話してくれました。

 社会には上に立つ人が必要であり、注目を浴びる人が生れてくるのは当然です。しかし、利己的な思いで地位や権力を求めたり、自ら注目を浴びようとしても、それは、その人をも、他の人をも幸せ」にはしません。高い地位に登れば登るほど、人気が上がれば上がるほど、「いつそこから落ちるだろうか」という心配がその人を苦しめるからです。多くのビジネスマンが社内での地位争いに心が休まることがなく、人気スターがその人気を保つために神経をすり減らしています。そうしたストレスに耐え切れなくなってドラッグに手を出し、自らを滅ぼしてしまった人も多くいます。

 主イエスは「人のいのちは、持ち物にはよらない」(ルカ12:15)と言われました。多くの人は、「お金があれば…」、「地位があれば…」、「才能があれば…」、あるいは「健康があれば…幸せになれたのに」と考えます。つまり、何かを持てば、それによって幸せになると考えているのです。ところが、主イエスは、「人を幸せにするのは、持ち物ではない」と言われました。イエスは、「こころの貧しい人たちは、さいわいである」と言われ、むしろ、何も持たない者が幸いだと言っておられます。主イエスは、わたしたちに幸せになるために何かを得るようにというのではなく、私たち自身が幸いな人になるように、また、幸いな人であるようにと教えておられるのです。主イエスは、幸いな人の姿をさまざまに描いておられますが、その第一が、「心の貧しい人」です。

 二、心の貧しい人とは

 では「心の貧しい人」とはどんな人でしょうか。ここでいう「貧しい」とは、経済的に貧しいということだけではありません。イエスに従った人々の中には裕福な人たちも多くいました。ルカ8:3に「ヘロデの家令クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒にいて、自分たちの持ち物をもって一行に奉仕した」とあります。ユダヤの議会の議員であったアリマタヤのヨセフは自分のために作った墓に主イエスを葬っています。同じく議員であったニコデモは遺体に塗る大量の香油を持ってきました。ニコデモもヨセフも裕福だったので、そうすることができたのです。初代教会で大きな役割を果たしたバルナバはたくさんの財産を持っていて、それを教会にささげました。使徒パウロもある程度の資産があったと思われます。この人たちは財産があっても、財産に心を奪われず神に目を向け、財産や地位に頼らず神に頼った人々でした。

 聖書では、「貧しい人」という言葉は、自分の弱さ、足りなさを知って神に信頼する人々を指すときにも使われます。たとえば、詩篇40:17で、ダビデは「わたしは貧しく、かつ乏しい。しかし主はわたしをかえりみられます。あなたはわが助け、わが救主です。わが神よ、ためらわないでください」と祈っています。ダビデは王であって、たくさんの財産を持っていました。彼には権力もあり、武力もありました。なのに、なぜダビデは「わたしは貧しく、かつ乏しい」と言ったのでしょうか。それは、神を信じない人々から苦しめられ、追い詰められたとき、自分の内面にそれに立ち向かうことができるだけのものを持っていないことに気付いたからです。一国の王には、知恵、勇気、また決断が求められます。神の民イスラエルの王には、その上に、神への信頼が求められました。ダビデは困難に直面したとき、自分がいかにそうしたものに欠けた者であるかを自覚しました。しかし、彼は、自分を嘆くだけで終わらず、神に救いと助けを求めました。「心貧しい人」とは、自分自身の、人としての貧しさ、乏しさを知っている人、そのために神に信頼する人のことです。

 人が本気で神を求めないのは、自分の貧しさ、乏しさが分かっていないからです。パウロは自分を誇り、他を軽蔑している人々にこう言いました。「いったい、あなたを偉くしているのは、だれなのか。あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。あなたがたは、すでに満腹しているのだ。すでに富み栄えているのだ。わたしたちを差しおいて、王になっているのだ。」(コリント第一4:7-8)わたしたちが持っているもので「もらっていないものはない」というのは本当です。「これはわたしが働いて稼いだものだ」と言ったとしても、働くことができる健康、能力、また、その機会は、自分の力で得たものではありません。すべては神から「もらったもの」です。

 そもそも、自分を生かしている命は、神の賜物以外の何ものでもありません。人は、神から与えられた命、また人生を正しく使い、誠実に生きる責任があります。たとえ、勉強や仕事ができ、特別な能力があったとしても、人は、人として誠実に生きるということにおいて、力の無いものなのです。地位のある人やオリンピック選手に選ばれるほどの才能のある人でも、その地位や才能とつりあわない、とんでもない犯罪を犯したり、不道徳のために家庭を壊したりしています。自分の貧しさ、乏しさを悟らず、自分のほうが人よりましだと考え、自己満足し、向上することを忘れてしまうと、わたしたちも同じような間違いを犯してしまいます。

 わたしはマタイによる福音書の5〜7章をはじめて読んだとき、そこに書かれていることは真理だと思いました。そして、自分はそこで教えられていることを少しも守っていない、いや守ることができないでいることに気付きました。この教えを語られただけでなく、そのとおりに生きられた主イエスのきよさに圧倒されました。主イエスに近づきたい、しかし、自分のような汚い人間は、主イエスのようにきよく、尊いお方には近づけないのだと感じました。しかし、マタイによる福音書の8章で、主イエスが「らい」患者に手を差し伸べ、その人に触って、「きよくなれ」と言われたことを読んだとき、わたしは、わたしもまた、主イエスに近づくことができる、主イエスはわたしを赦し、きよめ、受け入れてくださるということが分かりました。わたしはそのとき、「心の貧しい人」とは、自分の貧しさ、乏しさを知って、神に頼る人のことだということを知りました。そして、イエス・キリストを信じる信仰に導かれました。

 三、心の貧しい人への祝福

 それでは、心の貧しい人に与えられる幸いとは何なのでしょうか。

 主イエスは、「心の貧しい人はさいわいである」と言われましたが、これは、「1たす1は2である」「三角形の内角の和は180度である」といった、たんなる定義や命題ではありません。文語訳で「さいわいなるかな」と訳されているように、これは、「感嘆文」、感情のこもった叫びです。これは、主イエスがご自分の回りに集まってきた人々に、心を込めて呼びかけられた言葉です。

 日本語で「幸い」と訳されている言葉は、英語では "happy" ではなく "blessed" です。"happy" は "happen" から来ています。"happy" には、「自分にとって都合の良いこと、気分の良いことが起こったので、うれしい」といった響きがあります。ある日本語辞書では、「幸い」を「めぐりあわせのよいこと」と定義していました。「めぐりあわせ」とは、身の回りに起こる出来事のことです。そうであるなら、めぐりあわせの悪い人は、どんなにしても「幸い」にはなれなれません。わたしたちの回りに起こる出来事は、いつも「めぐりあわせ」がよいとはかぎりません。回りの状況によって左右される「幸い」は、不安的な「幸い」です。

 しかし、"blessed" の「幸い」は違います。"blessed" は「祝福された」という意味の言葉で、"blessed" の「幸い」は、神から来る「幸い」です。身の回りに起こる出来事によって左右されない「幸い」です。主イエスの回りに集まった人たちには、実際に貧しい人、社会的な地位の低い人たちもいました。病気や、その他の問題を抱えている人もいました。ユダヤの社会では、そうした人々は、神の祝福から見放されていると考えられていました。パリサイ人や律法学者たちは、そうした人々を「律法をわきまえないこの群衆は、のろわれている」(ヨハネ7:49)とさえ言ってなじりました。ところが、主イエスは、そうした人々をご覧になって、開口一番、「祝福されている」と呼びかけてくださったのです。そして、「天国は彼らのものである」と言って、天国を約束してくださいました。

 ヤコブ2:5に「神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富ませ、神を愛する者たちに約束された御国の相続者とされた」とあります。ヤコブの手紙で言われている「貧しい人たち」とは、実際に貧しい人たちのことですが、信仰に富み、神の国を受け継ぐことができるのは「心の貧しい人」も同じです。自分の貧しさ、乏しさ、無力を知る人は、天にあるすべての良いもので満たされるのです。それは天に着いてからのことだけではありません。地上での生活においてもです。信仰によって天国の幸いを先取りするのです。

 「わたしは貧しく、かつ乏しい」と祈ったダビデは、同時に「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」(詩篇23:1)と賛美しています。心の貧しい人は、この祝福を体験することができます。「あなたは幸い」と語りかけてくださっている主イエスの言葉は、真実です。あなたが、もし「わたしは十分恵まれていて、それ以上に神の祝福などいらない」と思っていたとしても、あなたにはこの祝福が必要なのす。これなしには、どんなに良いめぐりあわせの中にいたとしても、ほんとうの「幸い」はやってきません。今こそ、へりくだり、神からの「幸い」を求めましょう。また、たとえ、あなたが、様々な問題に取り囲まれていて、「自分ほど不幸な人間はない」と思っていたとしても、主イエスがくださる「祝福」によって、あなたもまた幸いな人になることができるのです。

 主イエスは、「わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:11)と言われました。ダビデが「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と言った、「主」は、わたしたちにとって、主イエス・キリストです。主イエスはわたしたちひとりひとりを愛して、その命までもささげてくださったお方です。このお方が、あなたを祝福してくださるのです。「心の貧しい者」となって、この祝福を受けるとき、あなたもまた「幸いな人」となるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御言葉によって、わたしたちに自らの貧しさ、乏しさを知らせてくださいます。それは、あなたに信頼するようにとの、あなたの愛の招きです。今、あなたの招きにこたえます。あなたがくださる「幸い」を与えてください。その「祝福」の中に、この生きる者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/15/2016