迫害を受けている者の幸い

マタイ5:10-12

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5:10 義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。
5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。
5:12 喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。

 一、迫害と信仰

 きょうは、イエスが語られた八つの祝福の八番目を学びます。「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」これは「迫害を受けている者」の祝福を語っています。

 初代教会の時代は、じつに迫害の時代でした。教会は最初はユダヤ人から迫害を受け、のちに、ローマ帝国から迫害を受けました。エルサレムではじまった教会は、時を経ずして迫害によって散らされ、小さくなってしまいました。使徒パウロは、ローマ帝国の各地をめぐって宣教しましたが、迫害を受けなかった場所はどこもありませんでした。パウロは自分が受けた迫害について、「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度、ローマ人にむちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度、そして、一昼夜、海の上を漂ったこともある」(コリント第二11:24-25)と言っています。パウロのからだには迫害で受けた傷跡が数多く残っていたことでしょう。ガラテヤ6:17で、パウロは「だれも今後は、わたしに煩いをかけないでほしい。わたしは、イエスの焼き印を身に帯びているのだから」と言っていますが、「イエスの焼き印」というのは、おそらくそうした傷跡のことだろうと思われます。

 イエスはご自分に従おうとする者に、迫害を受けることを覚悟するようにと語り、使徒たちも、弟子たちに「神の国にはいるのには、多くの苦難を経なければならない」(使徒14:22)と教えました。初代教会の時代には信仰を持つことは、迫害を受けることを意味していました。それでも人々は、神を求め、真理を求め、救いを求め、天国を求めて教会にやってきました。けっしてご利益を得るためでも、何かの恩典を得るためでも、自己実現の場を見出すためでもありませんでした。バプテスマには、古い自分が死に、新しい自分が生きることが意味されていますが、初代の信仰者たちは、キリストのために死ぬ覚悟や天で生きる希望をバプテスマによって言い表したのです。

 日本でもキリシタンの時代、迫害が起こりました。日本に最初に伝道したのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルで、1549年8月15日に薩摩(鹿児島)に上陸しました。ザビエルの日本での伝道はわずか2年でしたが、彼は日本伝道のさきがけとなり、その後、次々と宣教師が訪れ、1600年、関ヶ原の戦いのころには日本には60万人のキリシタンがいたほどです。当時の日本の人口は1200万人ほどでしたから、キリシタンは日本の人口の5パーセントに達していました。

 信長は宣教師を保護しましたが、秀吉は宣教師を追放し、家康とその後の徳川の時代には、ローマ帝国による迫害にまさるとも劣らない迫害があり、4万人もの殉教者が出ました。それでも、信仰者たちはひるむことなく、主のために受ける苦しみを甘んじて受けました。苦しみや迫害は、かえって、人々の信仰を純粋なものにしました。1597年、秀吉の命により、京都で捕まえられ、耳をそがれ、雪の道を歩かされ、長崎で処刑された二十六人の殉教者の中には三人の少年がいました。その中で最年少の茨木ルドビコ(12歳)は、奉行の寺澤八三郎から「キリシタンを捨てれば命を助けて武士に取り立ててやる」と言われましたが、彼はこう答えました。「お奉行様、あなたこそキリシタンにおなりなさいませ。そして一緒にパライソ(ポルトガル語で「天国」の意)に参りましょう。」二十六人の殉教者たちの記念碑が処刑地の西坂の丘に建てられていますが、そこに彫られているレリーフには、ルドビコをはじめ、殉教者たちの、天を見上げ、神をあがめている美しい姿が描かれています。こうした人たちは「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである」との言葉を身をもって体験したのです。

 二、迫害と幸い

 日本には、古くからの宗教儀式や風習があって、クリスチャンとして生きようとするとき、そうしたものとの衝突が避けられないこともあります。しかし、クリスチャンが、クリスチャンであるというだけで嫌われたり、苦しめられたりすることは、今では、あまりないと思います。アメリカでは、クリスチャンであることが、当たり前のこととして受け入れられていますから、「迫害」などと言われても、何か遠い時代のことや、他の国ことのように思ってしまいます。

 しかし、アメリカでも、クリスチャンが曲がった時代を真っ直ぐに生きようとすれば、どこかでぶつかることがあるでしょう。信仰とはあまり関係のないことでも、正しいことを言ったりすると、嫌がられたりすることもあります。いわれのないことで、不正な取り扱いを受けたり、心ない言葉をあびせかけらたりすることもあるでしょう。そんなときも、受けた不正や侮辱に腹を立てて終わることなく、「義のために迫害されてきた人々は、さいわいである」との言葉を噛みしめたいと思います。

 イエスは、他の七つのさいわいについては、簡潔にその祝福を宣言しておられるだけですが、「迫害を受けている者」のさいわいについては、11節と12節で、次のように言葉を足しておられます。「わたしのために人々があなたがたをののしり、また迫害し、あなたがたに対し偽って様々の悪口を言う時には、あなたがたは、さいわいである。喜び、よろこべ、天においてあなたがたの受ける報いは大きい。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」それは、「迫害を受ける」こと、つまり、正しい生活をしていて苦しめられることほど、理不尽なことはないからです。いつの時代、どの地域でも、迫害を受ける人は、真実な信仰と正しい良心をもって神と人とを大切にして生きている善良な人たちです。それなのに迫害を受ける、いや、それだから迫害を受けるというは、やはり、理不尽なことです。聖書には「いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、みな、迫害を受ける」(テモテ第二3:11)とあります。ですから、主は、言葉を足して、苦しめられている者を励ましてくださったのです。

 主が宣言された最初の三つの祝福は「こころの貧しい人たち」の祝福、「悲しんでいる人たち」の祝福、「柔和な人たち」の祝福でした。これは、「貧しくされた人たち」、「悲しみに突き落とされた人たち」、「低くされた人たち」と言い換えることができます。「迫害を受けている人たち」というのは、じつに、迫害によって財産を奪われ「貧しくされた人たち」、愛する人たちを奪われ「悲しみに突き落とされた人たち」、また、人々の面前で辱められ「低くされた人たち」です。「迫害」の中には、三重の苦しみがあるのです。

 しかし、同時に、「迫害」に耐える者、わけなく苦しめられた、その苦しみの中で主を仰ぐ者は、四重の祝福を受けます。「義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、彼らは飽き足りるようになるであろう。」「あわれみ深い人たちは、さいわいである、彼らはあわれみを受けるであろう。」「心の清い人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。」「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」とあるように、まことの信仰者は迫害の中で神の義を追い求め、それを得るのです。主イエスが十字架の上で「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」(ルカ23:34)と言われたように、自分を迫害する者に対してさえ、愛の思いあわれみの心を与えられます。苦しみを通して清められた心は神を見るでしょう。そして、たとえ、まわりがどんなに荒れ狂おうとも、神からの平安に満たされた姿を見て、人々は「この人はほんとうに神を信じる人、神の子どもだ」と言うようになるでしょう。

 信仰者には、ゆえなく苦しむことが多くあると思います。そんなとき、「あなたはさいわい!」と宣言しておられる主のお言葉に耳を傾けましょう。そして、主からいただく祝福によって苦しみを乗り越え、前進していきましょう。

 三、迫害と証し

 ペテロはペテロ第一3:13-16で、「義のために迫害されてきた人たちは、さいわいである」という主イエスの言葉をとりあげています。こう書かれています。「そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。」

 ここで、ペテロは、イエス・キリストを証しすることについて述べています。主イエスはわたしたちに「キリストの証人」になるように命じられましたが、この主の命令に忠実であろうとするとき、迫害が起こるのです。けれども、その迫害に耐えることによって、主イエスをさらに証しすることができるようになるのです。ですから、ペテロは、主を証しするのに恐れたり、うろたえたりしないで、イエス・キリストを信じる信仰を、「やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明」する用意をしているようにと教えているのです。

 再び、キリシタンの迫害のことをお話しますが、江戸時代、米沢(山形)にはおよそ3千人のキリシタンがいました。藩主の上杉景勝はキリシタンを保護し続けましたが、その子、定勝の時代になって、幕府の圧迫が強くなり、重臣、甘糟右衛門をはじめとするキリシタンを処刑せざるをえなくなりました。1629年1月12日、53名が処刑されました。刑場で処刑を執行する奉行がこう言いました。「皆の者、ここにおる人たちは、信仰のためにこのようなことになった。皆、この人たちに向かって土下座してわびてくれ。」そしてこう続けました。「この人たちが何をして来たかは、われらが一番良く知っておる。らい患者を世話し、子どもや年寄りのために尽くし、米沢の領内で無くてならぬ人たちである。しかし、今、時代の流れはこの人たちがキリストを信じることを許さない。だが、われらにとってみたら、この人たちはまるで仏様みたいな人たちなのだ。だから、皆、土下座してわびてくれ。」

 ギリシャ語では、「証人」という言葉も「殉教者」という言葉も同じひとつの言葉です。「殉教者」はその「死」をもってイエス・キリストを証しした人のことですが、実際は、その人が生きてきた人生でキリストを証ししてきたからこそ、その死も証しとなったのです。迫害があろがなかろうが、殉教しようがしまいが、主がわたしたちに求めておられるのは、日々の生活の中で主を証しすることです。臆病にならないで主を証しするとき、主が宣言された「祝福」を体験することができます。いいえ、自分が体験できるだけでなく、それを他と分かち合うことができるようになるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスが宣言してくださった八つの「さいわい」を感謝します。この祝福が、わたしたちのものとなるために、主の示された信仰の道を歩むことができますよう導いてください。それによって、この祝福を証しし、それを多くの人々と分かちあうことができるよう、助けてください。主イエスのお名前て祈ります。

9/18/2016