人を生かすもの

マタイ4:1-4

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4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 公現節からレントの期間にかけて、私たちは、イエスのバプテスマ、荒野の誘惑、ガリラヤでの伝道など、イエスが人々を教え、弟子たちを訓練されたことを覚えて時を過ごします。それできょうは、イエスが荒野で受けた誘惑から学ぶことにしましょう。

 一、イエスと誘惑

 日本語の聖書には「誘惑」という言葉と、「試練」という言葉が出てきますが、じつは両方とも原語では同じ言葉です。同じ出来事が、物の見方の違いによって、「誘惑」とも、「試練」ともなるのです。ヤコブ1:13-14に、「だれでも誘惑に会う場合、『この誘惑は、神からきたものだ』と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである」とあるように、「誘惑」は、悪魔、つまり、サタンから来るものであり、人は自分の持っている罪のために、その「誘惑」にのってしまうのです。神は決して人を誘惑されることはありませんが、神は、人に「試練」をお与えになります。「誘惑」は人を神から遠ざけますが、「試練」は人を神に近づけます。

 誘惑の釣り針は人間の罪や、罪から出てくるさまざまな欲望にひっかかるものであって、罪のないイエスには無意味なはずです。なのに、なぜ、サタンはイエスを誘惑しようとしたのでしょうか。それは、悪魔がイエスが誰であるかをほんとうには知らなかったからだと思います。

 なるほど、サタンはイエスを「神の子」と呼んでいます。サタンの手下である悪霊たちも、イエスが神の子であり、キリストであることを知っていました。ルカ4:41にこうあります。「悪霊も『あなたこそ神の子です』と叫びながら多くの人々から出ていった。…彼らがイエスはキリストだと知っていたからである。」弟子たちが「あなたこそ生ける神の子、キリストです」と告白する以前から、サタンや悪霊はイエスが神の子であることを知っていました。

 しかし、サタンがイエスを「神の子」と呼んだとしても、それは、「神から特別な使命と権威を与えられて遣わされた人」という意味でしかありませんでした。当時のユダヤの人々は、独立を失い、ローマ帝国の属国になっているユダヤの国を建て直してくれる政治的なメシアを願い求め、それをイエスに期待しました。ユダヤの人々とくらべれば、サタンや悪霊たちのほうが、イエスがもっと霊的、世界的な救い主であることを知っていました。けれども、それは、弟子たちが「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白し、教会が、イエスを「父のひとり子なる神」として、あがめ、ほめたたえ、礼拝していることとは違うものです。悪霊たちは、イエスが彼らを滅ぼす力を持ったお方であることは知っていましたが、イエスの神としての本質も、なそうとしておられることも知らなかったのです。

 神について、キリストについて一部分のことしか知らず、その知識が信仰に至らないものは、古くから「悪魔の知識」と呼ばれて来ました。そのことは、ヤコブ2:19にこう書かれています。「あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。」わたしたちは、こうした悪魔、悪霊の知識ではなく、生きた知識、人を救いに導く知識を持ちたいと思います。それを増し加え、深めていきたいと願います。

 サタンは、イエスがほんとうの意味で神の御子であることを知りませんでした。彼はイエスをアダムのような存在だと考えた可能性があります。アダムは神が直接お造りになった最初の人間で、父も母も、先祖もありません。アダムは、そういう意味では、「神の子」(ルカ3:38新改訳)です。サタンが考えていた「神の子」というのは、そうしたレベルのことだったと思われます。ですから、アダムを誘惑して、神から引き離すのに成功したサタンは、今回も、イエスを誘惑できると考えたのでしょう。しかし、彼はイエスを誘惑するのに失敗しました。イエスは、サタンが考え、世の人々が考えている以上のお方だったからです。

 二、イエスと試練

 最初に、「誘惑」も「試練」も、原語では同じだと言いました。イエスの荒野での誘惑は、神から見れば「試練」でした。神がイエスを誘惑なさったのではありませんが、イエスが荒野で誘惑に会うことをお許しになったのは神で、イエスを荒野に導いたのは「聖霊」です。では、神は何のためにイエスにこの試練を与えたのでしょうか。

 わたしたちの場合、試練は、わたしたちをきよめるために用いられます。金や銀は、溶かされて不純物を取り除かれ、より純粋なものになっていきます。そのように、神は、試練という「炉」によって、わたしたちをきよめてくださいます。

 しかし、イエスの場合、試練によって取り除かれなければならないものは何ひとつありませんでした。そうであるのに、神がイエスを試練に会わせられたのはなぜでしょうか。それは、第一に、イエスが全人類の救い主となるために、人間が体験するさまざまな苦しみ、痛みを、神からの試練も含めて、通られる必要があったからです。イエスは神の御子、御子なる神でありながら、同時に、人となられました。イエスはわたしたちの信仰の対象であるのに、地上の歩みにおいては、神を信じる者のひとりとなって、まことの信仰者がこの世で受けるさまざまな苦しみを味あわれたのです。

 第二は、試練によってイエスが神の御子であることが証明されるためです。工場で作られる様々な製品は、最終検査を受けて「合格」の証印を押されてから市場に出荷されます。検査、テストは、製品が基準に達していることを証明するために、どうしても必要なものです。イエスの場合、神は試練を通してイエスが正真正銘の神の御子、そして人類の救い主であることをわたしたちに証明してくださったのです。

 新生讃美歌213は盲目の讃美歌作者、ファニー・クロスビーの作品ですが、彼女は、その二番目の歌詞で、イエスが受けた試練についてこう書いています。

Fasting alone in the desert, 荒野で、ひとり、断食された
tell of the days that are past; あの日々のことを聞かせてください
how for our sins He was tempted, わたしたちの罪のために主は誘惑を受けた
yet was triumphant at last. だが、最後には勝利された
Tell of the years of His labor,  主の労働の日々を聞かせてください
tell of the sorrow He bore; 主が負われた悲しみを聞かせ てください
He was despised and afflicted, 主は侮られ、苦しめられた
homeless, rejected and poor. 枕するところなく、疎外され、貧しかった
わたしは、この賛美を歌うたびに、ヘブル2:18の御言葉を思いおこします。こう書かれています。「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである。」イエスご自身が試練を通られ、その試練に合格されて、ご自身がまことの神の御子、わたしたちの救い主てあることを証明されたのです。わたしたちが試練を通されるとき、これ以上の慰め、励ましはありません。

 三、誘惑の意図

 最後に、イエスが受けた誘惑の意図を考えて終わりましょう。「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい。」この誘惑は何を意味していたのでしょうか。そして、イエスはそれにどうお答えになったのでしょうか。

 この誘惑は、イエスに対する「チャレンジ」ではありません。親切な「サジェスション」です。「サタン」という名の意味は「敵」です。サタンは神と、神を信じる者に敵対する者ですが、彼は、いつでも敵意をむき出しにして攻撃してくるとは限りません。アメリカのような国では、信仰者の味方のようにして、近づいてくることのほうが多いかもしれません。悪魔は、四十日の断食を終えて空腹となったイエスに同情するかのようにして言いました。「あなたは神の子なのでしょう。だったら、ここにある石をパンに変えて食べ、空腹を満たしたらどうでしょうか。『腹が減っては戦は出来ぬ』と言うではありませんか。これからメシアとしてデビューするのですから、まずは腹ごしらえをなさったら、どうでしょう。」なるほど、それはもっともなことです。しかし、イエスは、この提案にある下心を見ぬいておられました。

 「石をパンに変える」という言葉には、こういう意図が隠されていました。「イエスよ、あなたはこれから神の国を宣べ伝えようとしている。しかし、この世を見るがいい。食べ物がなく飢えている人がとんなに多くいることか。天国のことよりも、まずは地上で飢えている人々にパンを食べさせるのが第一ではないか。あなたの神の子としての力を、そのために使うべきではないか。」

 今も、世界の四分の三の人はお腹をすかしたまま寝るといわれています。世界規模で見るなら、死亡率が一番高いのは、ガンでも、心臓病でも、脳内出血でもありません。それは、「餓死」です。世界の人口の七分の一の人々が十分な栄養を得られないため亡くなっています。食べるものがない地域では、こどもたちは石を口の中に入れて、しばらくの間空腹を紛らわしています。イエスがその石をパンに変えてくださったら、どんなにいいでしょうか。

 イエスが「人はバンだけで生きるのではない」とお答えになったとき、人々にパンを与えなくてよいとは言われませんでした。実際、イエスはわずかなパンと魚で、大勢の人々を満腹させる奇蹟を起こしておられます。しかし、そのとき、イエスは弟子たちに「あなたがたの手で食物をやりなさい」(マタイ14:16、マルコ6:37、ルカ9:13)と言っておられます。イエスは人々にパンを与えること、口の中の石をパンに変えることを、弟子たちの、また、わたしたちの仕事としてお与えになったのです。

 飢餓は自然災害などでも起こりますが、飢餓の一番の原因は戦争です。戦争で田畑が荒らされてしまうからです。また、食べ物があっても、戦争のある地域にはそれを届けることができないため、内乱のある地域の人々が飢餓で亡くなっていくのです。信仰者たちは、今にいたるまで、平和の福音を宣べ伝えて戦争をやめさせ、愛の教えを広めて分け与え、捧げる心を起こして、飢えた人々に食べ物を届けてきました。その働きは、教会以外の団体、クリスチャン以外の人々によっても、熱心に行われるようになりました。

 この「石をパンに変える」働きの源は、イエス・キリストの神の国の福音でした。イエスは、人々にパンを与えることの大切さをご存知でした。しかし、「パン」の前に「神の言葉」が必要なことを知っておられました。人が「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とき、そこに「石をパンに変える」愛のわざが生まれ、広まっていくのです。

 教会やクリスチャンは、いつも、多くの誘惑にさらされていますが、一番の誘惑は、ほんとうは第一でなければならない神の言葉を、後回しにしてしまうという誘惑です。もちろん、教会から聖書が取り去られることはないでしょうけれど、教会の歩みにおいても、個々のクリスチャンの歩みにおいても、聖書に問い、神の言葉に導かれるということがなくなってくるのです。何をするにしても、あれが良い、これをしたいという人間の思いや判断によって決められてしまうがちです。わたしたちがそれが誘惑なのだということに気付いていなければなりません。

 イエスは神の言葉を「神の口から出たもの」と言われました。これは、「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、…」(テモテ第二3:16)という言葉を思い起こさせます。「霊感」という言葉には「神の息吹」という意味があって、聖書が、まさに、神の口から出たものであることを教えています。人を生かすもの、それは、神から出たものだけです。生きていくのに、また、神のために働くのに知恵も知識も必要でしょう。しかし、この世の知恵、知識には限りがあり、それは一時的なものです。決して、人を神の国に導くことはできず、この世の根本的な問題の解決も与えません。「神の口から出る一つ一つの言葉」こそがわたしたちを生かすもの、すべての人に必要なものです。このことを信じ、この神の言葉に信頼し、神の言葉に従う者となりましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、わたしたちは、世にあって主イエスが受けたのと同じ誘惑を受けています。どうぞ、御言葉に教えられて、その誘惑の本質を見抜くことができ、御言葉によってそれに打ち勝つことができるようにしてください。試練にあうとき、同じ試練を味わってくださった主を覚えることができるよう、助けてください。主イエスの御名で祈ります。

1/28/2018