神の言葉で生きる

マタイ4:1-4

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4:1 さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
4:2 そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
4:3 すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。4:4 イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。

 あるジャムの会社が、ジャムのパッケージに「人はパンだけで生きるものではない」と書きました。「パンだけでなく、わが社のジャムもつけてお召し上がりください」というわけです。「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は多くの人に知られているので、宣伝効果は抜群だったそうです。

 「人はパンだけで生きるものではない」という言葉は、もちろん、「ジャムも必要」と言う意味ではありません。イエスは、この言葉に続いて「神の口から出る一つ一つのことばによる」と言っておられます。人を生かすのは「神の言葉」だと言われたのです。多くの人は、自分は神の言葉で生きているわけではないと考えています。日曜日に教会に行って説教を聞けばためにはなるだろうが、そうしなかったからといって生活にさしさわりがあるわけではない、まして、命にかかわることではないと思っています。しかし、主イエスは「人を生かしているのは神の言葉である」と言っておられます。主イエスは、どういう意味でそうおっしゃたのでしょうか。そのことをご一緒に考えてみましょう。

 一、神の言葉と創造

 まず最初に世界のあらゆるものが神の言葉によって生かされているということを考えてみましょう。神の言葉が、世界を創造し、それを支え、それを生かしているのです。創世記を読むとそのことが分かります。神が「光あれ」と言われると、光ができました。「大空よあれ」と命じられると大空ができました。「かわいた地が現われよ」と言われると、陸地が現れました。また「天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」と命じられると、太陽、月、星がその役割を果たすようになりました。

 神は世界を形造ってから、そこを命あるもので満たされました。神が「地は植物…を地の上に芽生えさせよ」と命じられると、陸地に草花、樹木など、あらゆる植物が生じました。「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」と命じられると、海や川、湖に魚が泳ぎまわり、空には鳥が飛ぶようになりました。さらに、神は「地は生き物を種類にしたがっていだせ」と命じ、あらゆる動物を造られました。世界は神の言葉によって造られ、植物も動物も神の言葉によって命を与えられたのです。

 あらゆるものを造られた神は、最後に人を造られました。神が人をお造りになるときには、たんに「人よあれ」とはおっしゃらず、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造ろう」と言われました。神は、人を他の生き物とは違った、特別なものとして、心を込め、愛を注いでお造りになったのです。しかも、神は、その愛の心、愛の思いを言葉に出して、人を造られました。人も、神の言葉によって造られたのです。

 古代の人々は世界の起源について、さまざまに考えました。ギリシャの人々はギリシャ神話の神アトラスが天空を支えていると考え、インドの人々はゾウが地面を支えていると考えました。しかし、聖書は世界を支えているのは神の言葉だと教えています。詩篇33:6に「もろもろの天は主のみことばによって造られ、天の万軍は主の口の息によって造られた」とあります。ヘブル11:3には「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである」とあります。

 「くちから出た言葉だけでは信用できない」という考え方があります。それで「くち約束はあてにならないから、証文を書いてくれ」ということになるのです。しかし、聖書では、たとえそれが文字にならなくても、くちから出た言葉には、重みがあり力があるとされています。言葉はくちから出て、空中に消えていくのではなく、物事に働きかけて結果をもたらします。実際、ポリスが「フリーズ」と言えば、人々は両手をあげてじっとします。心ない言葉が矢のように人の心を突き刺すこともあれば、ひとことの温かい言葉が傷ついた心を癒やすこともあります。

 人間の言葉ですら、そんな力を持っているとしたら、神の言葉はなおのことです。イザヤ55:10-11にこうあります。「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。」雨や雪が降り、地を潤し、地に実りをもたらし、人にパンを与えます。しかし、天に命じて雨を降らせ、地に命じて実を結ばせているのは、じつは、神の言葉なのです。人間には、言葉だけで物を造り、命を生み出す力はありません。人間は意志したことを体を使って行わなければ、何も作り出せませんが、神の場合、そのご意志は言葉によって実行されるのです。

 人は、大地の実りを収穫し、それを脱穀し、臼でひいて粉にし、その粉を焼いてパンを作るのですが、それらすべての背後に神の言葉があるのです。神の言葉によって、はじめてわたしたちはパンをくちにすることができるのです。主イエスが「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言われたのは、こうしたことなのです。神の言葉がすべてを造り、すべてを生かし、すべてを支えています。わたしたちの一日三度の食事も、じつは神の言葉によって備えられているのです。 わたしたちは神の言葉によって生かされているのです。

 二、神の言葉と再創造

 わたしたちは、神の言葉によって生かされ、生きているのですが、「生きる」といっても「たくましく生きる」、「上手に生きる」、「より良く生きる」といったレベルがあります。「たくましく生きる」ということでは、動物たちはすごいと思います。庭にやってくるリスを見ているとそう思います。100度を超える日もリスは木にのぼったり、フェンスの上を元気に走り回っています32度を下回る寒い日も、外に出て餌を集めています。どんな環境の中でもじつに、たくましく生き抜いています。それに比べれば、人間はひ弱です。冷房や暖房なしには暑さにも寒さにも耐えられません。精神的にも、いつも心配したり、思い患ったり、失望したり、落胆したりしています。わたしたちは動物たちから「たくましく生きる」ことを教えてもらわなければならないかもしれません。

 「上手に生きる」というのは、少し知恵のある動物でもできます。チンパンジーに棒を与えると、それでバナナをたたき落として食べます。人間はもっと知恵があり、この分野では他の動物には負けません。しかし、あまりにも自分の知恵に頼ってしまい、そのために、結局は愚かな生き方をしてしまうことが多いのです。科学技術が発達し、毎日のように新しい製品が作られ、わたしたちの生活はそうしたもの無しには成り立たなくなってきました。しかし、そうした技術の進歩がほんとうに人をしあわせにしているかというと疑問です。そうしたものがかえって人の心を蝕んでいるという現実があります。人間はその知恵によって核兵器を作り出しました。そして、自分たちが作ったもので、自分たちが滅びてしまうのではないかという恐怖の中に生きているのです。これは、まさに人間の愚かさの典型だと思います。

 神は人間に「たくましく生きる」、「うまく生きる」というだけでなく、「より良く生きる」というレベルの人生をお与えになりました。それは、パンを食べて体を生かすといった以上のものです。工夫をして生き延びることに勝るものです。人として価値ある生き方をするということ、神から与えられた目的や使命を発見してそれに向かって生きていくということです。しかし、人はそうしたことに心を向けることなく生きるようになりました。人は、罪を犯したとき、神を愛し、人を愛して生きるというレベルの命、霊的な命を失いました。そのため、神に背を向け、人を押しのけて生きるようになったのです。だからといってそういう人がいつも病気であるとか、精神状態が安定していないというわけではありません。健康で、何があっても動ぜず、自分の思いを貫き通していく強さを持っている人がほとんどです。また、才能に恵まれ、人付き合いにもそつがなく、社会的に成功している、そんな人も多いのです。「より良く生きる」というレベルが欠けていても、「たくましく生きる」ことや「うまく生きる」ことができなくなるわけではないからです。しかし、どんなに「たくましく生き」「うまく生き」たとしても、神と共に生きることのない人生は、結局は、意味も目的もない人生です。お金はあっても豊かな心を持つことができません。快楽はあっても本物の喜びはありません。気休めはあっても動かない平安はないのです。神の目から見れば、からだは生きていても霊は死んでいるのです。

 神は、そんなわたしたちを、新しく造りかえ、霊の命を与えて生まれ変わらせてくださいました。それは、もちろん、イエス・キリストにより、聖霊によってなのですが、同時に、神の言葉によってです。第一ペテロ1:23は「あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである」と言っています。神の言葉は、人にパンを与えてからだの命を支えるだけではなく、人に霊の命を与え、人に神を愛し、他を愛して生きる、新しい命を与えるのです。神の言葉は創造の力ばかりでなく、再創造の力をも持っているのです。人が神に造られたものとして、ほんらいの人間として生きるには、神の言葉が必要なのです。人は神の言葉によって、はじめて、ほんとうの意味で「生きる」ことができるのです。

 三、神の言葉と成長

 神の言葉によって生まれた者は、神の言葉によって成長します。第一ペテロ2:2に「今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである」と書かれています。神の言葉によって生まれた者は、神の言葉を食べ、飲んで成長します。ここには、赤ちゃんがミルクを求めて、泣き叫ぶように、わたしたちも神の言葉を熱心に求めなさいと、教えられているのです。

 しかし、現代は、神の言葉を求めることに熱心でなくなりました。教会もまた、人々に神の言葉を分け与えることに専念しなくなりました。わたしが日本にいたころ、教会の集会といえばほとんどが聖書を学ぶものばかりでした。けれども現代の教会では、聖書を学ぶ集まりが少なくなり、カルチャーセンターでやっているような集まりが多くなりました。聖書を学ぶ集会があったとしても、参加者は少なく、他のイベントとスケジュールが重なったときには、聖書の学びのほうがキャンセルされるというのが現状のようです。時代とともに、人々のニードも変わってきますから、教会でもさまざまな集会や催しが必要に応じてなされて良いと思います。しかし、わたしたちの霊の命を支えるのは、なんといっても神の言葉です。それは他のところが与えることができないものです。どんなに時代が変わっても教会では神の言葉が第一にされるべきだと思います。

 アモス8:11に「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである」という言葉があります。世界中の指導的な牧師たちは、みな口をそろえて、今の時代は御言葉の飢饉の時代だと言っています。教会で神の言葉が神の言葉として語られ、聞かれていない。その結果、わたしたちは霊的な栄養失調に陥り、霊的な力を失っているというのです。

 わたしも家内もそうしたことを感じてきました。アメリカでは自分を生かしてくれるような日本語のメッセージをなかなか聞けないことに苦しい思いをしていたときです。日本のある先生が、わたしたちのところに寄ってくださることになりました。それで、その先生に礼拝メッセージをお願いしました。そのメッセージを聞いて、家内はこんな詩をつくりました。

あゝいいなあ
神を愛し 人を愛し
福音を愛して
聖書を絶対の真理として
握っている人の話は…
心が生きる!
わたしもその先生のメッセージに心が生きました。それは、その先生が、わたしたちにとって親しい方だったからではありません。先生が神のことばを神のことばとして、忠実に語ってくださったからです。それで神の言葉が私たちの心の中に入って働いたのです。

 詩篇に「これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします」(詩篇119:50新改訳)とあります。礼拝で神の言葉を聞くたびに「神の言葉によって生かされている」ことを確認しましょう。個人で聖書を読むとき、「神の言葉によって生きる」ことができますようにと、祈り求めましょう。そのようにして、「人は…神の口から出る一つ一つのことばによる」との御言葉を体験していきましょう。その体験を持ち寄って来週また共に主を礼拝しましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、御言葉によってこの世界を造り、わたしたちを生かしてくださいました。あなたのお言葉によって与えられた命は、あなたのお言葉無しには決して成長することはありません。赤ん坊のように、霊の糧である御言葉を求めます。くちを大きく開けます。週ごとの礼拝で、日毎の祈りのときに、わたしたちを御言葉で満たし、生かし、力づけてください。主イエスのお名前で祈ります。

7/12/2015