父と子と聖霊との名によって

マタイ28:18-20

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28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

 きょうの箇所は、主イエスが、昇天を前に弟子たちに与えた言葉で、「宣教の大命令」と呼ばれます。この言葉は、しばしば、宣教師、牧師、伝道者、また、教会や伝道団体に与えられたものと思われがちですが、実際はすべてのクリスチャンに与えられたものです。「あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と言われている「あなたがた」は、クリスチャンひとびとりびとりのことなのです。しかし、「あなたが、すべての国の人を弟子とするのです」と言われても、わたしたちの多くは、「どうやってそんなことができるのですか。わたしにはとてもそんなことはできません」と、つい、口にしてしまいます。しかし、他の人を弟子にすることができなくても、わたしたちは、自分自身を弟子とすることはできます。じつは、自分がキリストの弟子になることが、すべての国の人を弟子にするという宣教の大命令に答える第一歩なのです。

 ここには、「行って、…弟子とし、…バプテスマを施し、…教えよ」といくつかの命令があるように見えますが、じつは、ひとつの命令しかありません。それは「弟子とする」という命令です。「行く」、「バプテスマを施す」、「教える」という言葉は、すべて、英語の “〜ing” の形、分詞で書かれており、「弟子とする」にかかっています。つまり、御言葉を携えて出ていき、人々をバプテスマに導き、バプテスマを受けた人々をさらに教える、というのは、人々を弟子にするステップを教えています。そして、この三つのステップは、同時に、わたしたちが弟子となるためのステップでもあるのです。きょうは、「弟子になる」という観点から、宣教の大命令、とくにその三つのステップを学んでみましょう。

 一、御言葉に聞く

 主イエスは、弟子たちに、人々を「弟子とする」ために、御言葉を携えて出ていくように命じられました。これを「弟子となる」という観点から見るなら、弟子となるための第一のステップが、御言葉を語るために遣わされた人々を受け入れ、心を開いて御言葉に聞くことであることが分かります。しかし、すべての人が御言葉を語る人を受け入れ、御言葉に聞いたわけではありませんでした。御言葉に耳を傾けないばかりか、御言葉を語る人に敵対し、迫害する人々も多くいました。現代は、キリストのことを語ってもあからさまに反対されることはありませんが、人々はいちおう聞いてはくれても、神の言葉に対する応答もなく、神の言葉が「無関心」というブラックホールの中に吸い込まれていくように感じることもあります。けれども、たとえ人々がそれを聞かず、信じなかったとしても、神の言葉が真理であり、人を生かすものであることには変わりはありません。わたしたちも、初代の弟子たちのように、御言葉そのものが持つ力を信じて、語り続けたいと思います。

 神の言葉を語る人を迎え、神の言葉を受け入れた人々は、それによって救いを受け、祝福を受けてきました。使徒10章に、コルネリオというローマの百人隊長のことが書かれています。彼は、「ペテロを招き、彼から神の言葉を聞きなさい」という示しを受けたとき、使いをやってペテロを招きました。コルネリオは、自分ひとりが神の言葉を聞くだけではもったいないと考え、親族や友人を自分の家に集めて、ペテロが来るのを待ちました。ペテロが到着したとき、コルネリオは言いました。「ようこそおいで下さいました。今わたしたちは、主があなたにお告げになったことを残らず伺おうとして、みな神のみ前にまかり出ているのです。」(使徒10:33)コルネリオも、そこにいた人々も、みな、ペテロから神の言葉を聞こうとして待ち構えていました。そして、このように真剣に神の言葉を求めた人々の上に、神の大きなみわざが現れたのです。弟子となる道の第一歩は、神の言葉を待ち望み、それに耳を傾けることです。

 修養会などでは、特別講師の他にも、地域の牧師たちがいくつかの集会で説教をします。ある修養会で、講師の先生が、どの集会にも、一番先に来て、一番前の席に座り、他の牧師の説教に熱心に耳を傾けている姿を見て、とても教えられたことがあります。その先生は、御言葉を語る者であるからこそ、御言葉を聞くことを大切にしていたのです。御言葉を聞くことによって、御言葉を語る力を受けていたのです。わたしたちも、同じようでありたいと思います。「行って、語る」前に、みずからが御言葉に聞くことです。それによってわたしたちは行って、御言葉を語る者へと変えられていくのです。

 二、バプテスマを受ける

 第二のステップは「バプテスマを受ける」ことです。初代教会では、「バプテスマを受ける」という言葉は、「信じること」や、「信仰を告白すること」と同じ意味で使われました。ペンテコステの日に、ペテロの説教を聞いた人々が「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と言ったとき、ペテロは、「悔い改めなさい。そして、…バプテスマを受けなさい」(使徒2:37-38)と答えています。バプテスマは、「わたしはイエス・キリストを、わたしの救い主として受け入れ、信頼します。これからのちは、イエス・キリストをわたしの主として従い、このお方に仕えます」という信仰の表明です。それを、言葉とともに、全身を水に浸すという行為で表わします。それは、わたしたちの信仰が、言葉だけのものや抽象的なもので終わることなく、日常生活の中で目に見えて働くものとなるためです。

 バプテスマは「父と子と聖霊との名によって」授けられます。ここには父なる神と子なる神、そして聖霊なる神が語られています。そうであるなら、「名によって」てとあるところの「名」は複数形でなければなりません。ところが、実際は単数形が使われています。これは、父、子、聖霊がひとりの神であること、つまり、神が三位一体のお方であることを表わしています。バプテスマが「父と子と聖霊の名によって」授けられるのは、バプテスマが三位一体の神への信仰を言い表わすものであるからです。初代の教会では、バプテスマを受ける者に「あなたは父を信じるか」、「子を信じるか」、「聖霊を信じるか」という質問がなされ、バプテスマを受ける者は、その質問に「はい、信じます」と答えてから、バプテスマを授けられました。「使徒信条」という、最も古い信仰告白文はバプテスマ準備の教材として作られたもので、父、子、聖霊への信仰が記されています。

 バプテスマを受ける者には、今も、同じ信仰が求められています。わたしたちがバプテスマによって言い表わす信仰は、ただ漠然と神が存在することを認めるというものではありません。イエス・キリストの父なる神を神として信じることなのです。また、それは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)と言われた主イエスの言葉のとおり、神の御子の十字架と復活によらなければ、罪ある自分が神のもとに行くことができないことを知って、イエス・キリストを救い主として受け入れ、信頼することなのです。さらに、神を信じ、キリストに従うと言っても、自分の力ではそれができないことを知って、聖霊の助けを呼び求め、聖霊に信頼することでもあるのです。

 キリストなしでも神のもとに行くことができる、聖霊なしでもキリストに従うことができると言う人がいないわけではありません。また、「キリストを信じる」、「聖霊を信じる」と言っても、それは言葉だけで、実際にはキリストを必要とせず、聖霊によらないで生活している人がいるかもしれません。しかし、「父と子と聖霊との名による」バプテスマは、文字通り、三位一体の神への信仰を求めています。「三位一体」は人間の認識を超えた神の存在のあり方を指すものですから、それを理性だけで理解し尽くすことはできません。しかし、だれでも、本気でキリストの弟子になりたいと思うなら、父、子、聖霊がそうがかりで助けてくださらなければ、弟子にはなれないことが分かります。そして、おのずと、三位一体の信仰に導かれ、父と子と聖霊の名によってバプテスマを受けることがなぜ必要なのかが分かってくるのです。また、すでにバプテスマを受けた者は、自分の受けたバプテスマをふりかえるたびに、バプテスマによって父と子と聖霊とに結ばれていることを感謝し、それによって、キリストの弟子とされていることを喜ぶのです。

 三、キリストに学ぶ

 キリストの弟子となるステップの第三は、「キリストに学ぶ」ことです。たしかに、人はイエス・キリストを信じた時点ですでに神からの命を受けています。しかし、それは、母親の胎内に宿ったのと同じです。信仰者はバプテスマによって、おおやけに神の子どもとしての歩みを始めます。それまでは胎盤を介して母親から酸素や栄養をもらっていた赤ちゃんが、誕生後は、自分の肺で呼吸し、ミルクを飲んでそれを消化するようになるのと同じです。けれどもバプテスマによって神の子どもとなっても、すぐには弟子にはなれません。子どもが愛情のこもった世話を受けたり、厳しく躾けられたりして、人ととして成長していくように、バプテスマを受けた者も、キリストに学び続けることによって、キリストの弟子として成長していくのです。

 「キリストに学ぶ」というのは、たんに聖書やキリスト教についての知識を得るということではありません。主が「あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ」と言われたのは、教会の決まりやしきたりを守るということでもありません。自分の人格を形作り、日々の生活を生かし、他の人を助けることができるものとして霊的なことがらを学ぶということなのです。

 こんにちの学校教育では、先生が教室に来て生徒を教えますが、古代は生徒が先生のところに行って学びました。ヨハネ1:38で、バプテスマのヨハネのふたりの弟子がイエスに「先生、どこにおとまりなのですか」と尋ねたのは、そのことを表わしています。「どこにおとまりなのですか」というのは、「あなたのところに行ってもいいですか。入門させてもらえますか」という意味でした。イエスの弟子たちは、イエスと生活を共にし、イエスが行くところへはどこにでもついていって、イエスのなさるすべてのことを見、イエスの語られるすべてのことを聞きました。弟子たちは、「イエスについて」学んだのではなく、「イエスを」学んだのです。「弟子」という言葉には、もとの言葉で「学ぶ者」という意味があります。しかもそれは、密接な師弟関係の中で体験的に学ぶことを指します。

 使徒ペテロとヨハネが、ユダヤ議会からの審問を受けたときのことです。人々は、ペテロとヨハネのふたりが、ユダヤ社会の最高の権威を持つ人々から審問を受けても、決して動じないでいる姿を見て不思議に思いました。律法の専門家である彼らは、ふたりを「無学な、ただの人たち」として軽蔑しましたが、同時に「彼らがイエスと共にいた」ことを認めざるを得ませんでした(使徒4:13)。ペテロやヨハネ、また他の弟子たちは、ユダヤ議会が認める教育を受けませんでしたが、イエスと共にいて、イエスから学んだ者たちでした。最高の教師であるイエスから学び、また、イエスと等しい教師、聖霊から学び続けている彼らに、ユダヤの最高議会といえども太刀打することはできませんでした。わたしたちも、そのように「イエスと共にいて」、「キリストに学ぶ」ものでありたいと思います。キリストに学ぶ者は、どんな学者にもまさって、人生の真理を手にすることができます。人々の注目をあびることはなくても、苦しむ人をほんとうに慰め、悩む人に導きの光を与えることができるのです。

 わたしは、著名な学者たちやその書物からばかりでなく、身近な人々から多くのことを教えてもらいました。忠実に聖書を学び、深く祈り、人の目に触れないところで奉仕を捧げている人たちからどんなに多くのことを教えられたことでしょう。その人たちからは、言葉によってだけでなく、実際の姿によって、キリストを示していただきました。みなさんも、同じ体験を持っていることと思います。わたしたちも、そうした人々に倣って、本物のキリストの弟子になりたいと思います。みずからがキリストの弟子になること、それが、「すべての国民を弟子とする」という「宣教の大命令」に答える道であると、信じます。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたが御子イエスによって信じる者を救い、聖霊によって信じた者をキリストの弟子として成長させてくださることを感謝します。わたしたちに与えられた宣教の大命令はあなたのみこころであり、それは聖霊によって達成するもの、聖霊によってしか達成できないものです。三位一体の神よ、わたしたちをキリストの弟子とし、あなたのみこころのために働く者としてください。キリストのお名前で祈ります。

6/11/2017