それゆえ、あなたがたは

マタイ28:16-20

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28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。
28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

 教会の長い歴史の中で、イースターの礼拝では「まことに主はよみがえられた。ハレルヤ。」とことばをかわすのが慣わしになっています。私たちも、今朝、高らかにハレルヤと主を賛美したいと思います。私が「主はよみがえられた。」と言いますので、皆さんは、大きな声で「ハレルヤ。」と言ってください。三回くりかえします。「主はよみがえられた。」「ハレルヤ。」「主イエス・キリストはよみがえられた。」「ハレルヤ。」「まことに、主はよみがえられた。」「ハレルヤ。」

 一、主の命令

 私たちは「人生の五つの目的」を想う、四十日のデボーションを守ってきました。そして、そのデボーションがすこしでも励まされるためにと、パートナーとの祈り、スモールグループでのディスカション、今回を含めて12回の礼拝メッセージを聞いてきました。期待以上に恵まれた人、期待通りだった人もいれば、期待したようにはいかなったという人、本は買ったものの一度も開けなかった人、ワークブックが真っ白という人もあるかもしれません。教会全体での取り組みは一応終わりますが、スモールグループで、また、パートナーと、そして、個人で、もう一度やり直すことができます。今回うまく行かなかったと言う方も、あきらめないで、再び取り組んでみてください。みんなが「人生の五つの目的」を学び、同じスタートラインに立って、進んで行きたいと思います。

 リック・ウォレン師は、「五つの目的」は、マルコ12:30-31とマタイ28:19-20の二つのみことばから導き出されたと言っています。マルコ12:30に「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」とあるのは、神を愛し、神と交わる「礼拝」という第一の目的を、マタイ28:19に「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け」とあるのは、バプテスマ(洗礼)によって神の家族に加えられる「交わり」という第二の目的を教えています。マタイ28:19に「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とあるのは、キリストの弟子となる「弟子訓練」という第三の目的を、マルコ12:31に「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」とあるのは、教会の中で互いに仕えあう「奉仕」という第四の目的を教えています。そして、マタイ28:20の「わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」とあるのは、私たちに与えられた使命「伝道」という第五の目的を教えています。

 マルコ12:30-31で、主イエスは、十戒を要約して、神への愛と人への愛について教えました。十戒は、旧約にある神の命令の要約ですから、主イエスは、ここで、十戒だけでなく、旧約の命令のすべてを要約したと言ってよいでしょう。マタイ28:19-20は、主イエスが弟子たちに教えてきたすべてのことを要約しています。マルコ12:30-31が旧約の命令の要約であるなら、マタイ28:19-20は新約の命令の要約であり、マルコ12:29-31とマタイ28:19-20の二つのみことばは全聖書の命令の要約となっています。ですから、この二つのみことばに基づいた「五つの目的」は、聖書のすべての命令をまとめあげたものであると言うことができます。「五つの目的」を学ぶことによって、神が私たちに命じておられるすべてを学ぶことができるわけですから、これはほんとうに素晴らしい学びです。この四十日に十分に学ぶことができなかった方は、今年はあと四十週残っていますから、四十週かけてでも、ぜひ学んでいただきたいと思います。

 二、主の命令と権威

 けれども「五つの目的」は、ただ知識として学べばそれでそれで良いというものではありません。大切なのは、それを実行に移すことです。しかし、神を愛し、人を愛すると言っても、簡単にできることではありません。多くの人は、自分のうちに神を愛する愛のないことを嘆き、人を愛せないことに苦しんでいるのではないでしょうか。キリストのようになるまで成長したいと願いながら、すこしもキリストらしくない自分を見てがっかりすることが何度もあったのではないでしょうか。しかし、こうした嘆きは、実は正常なことなのです。自分の足らなさを知る人がはじめて成長することができ、そこから、きよめが始まるのです。そして、きよめられた心を持つようになると、神のために働くことができるようになります。人にほめられるためでも、自分の満足のためにでもなく、キリストのからだである教会が建てあげられることを喜びとして、神のために働くことができます。そして教会の中で神と人とに仕えることができるようになると、つぎには、教会の外に出て行って、まだ神を知らない人々、キリストを信じていない人々に、キリストの救いを伝えることができるようになります。私たちは、もっと親しい神とのまじわりが欲しい、教会への愛が欲しい、もっと成長したい、奉仕のための賜物を欲しい、伝道のための力が欲しいと願っています。「五つの目的」を実行するためのこうした力はどこから来るのでしょうか。

 イエスは「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」と弟子たちに命じました。この命令は、Great Commission(宣教大命令)と呼ばれ、とても大切な部分です。それで、私たちは、この部分だけに目を留めて、その前後のことばを見落としてしまいがちです。しかし、この命令の前後にこそ、この命令を実行する力が隠されているのです。マタイ28:19をもう一度見てください。「それゆえ」という言葉から始まっていますね。「それゆえ」という言葉は小さな言葉ですが、あってもなくてもよい言葉ではありません。この言葉をはずしてしまうと、大切なものを見失ってしまいます。「それゆえ、あなたがたは…」と言われているのは、主イエスが弟子たちに与えた命令には、「それゆえ」と言われる根拠があること教えています。

 その根拠とは何でしょうか。18節に「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」とあるように、それは主イエスの権威です。イエスは、もとから神の御子としての権威を持っておられました。イエスは人々を教える時、「律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えた」(マタイ7:29)とあります。イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)と言われました。「神のところに行きなさい。神があなたを休ませてくれます。」と言ったのではなく、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われたのです。イエスは、人生の重荷を抱え、疲れきった者を休ませる力を持っておられるお方です。私たちを含め、世界中のどれだけの人がイエスの愛の招きに応じてほんとうの安らぎを見出し、生きる力と希望を得てきたことでしょうか。イエス・キリストは人を救う権威を持ったお方なのです。

 しかし、主イエスは、十字架の上では、ご自分の一切の権威をお捨てになりました。神の御子という身分さえも投げ出して、ひとりの罪人になりきって、神の刑罰を受けました。聖書はこのことを、「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(ピリピ2:6-8)と書いています。

 イエスは十字架で死なれましたが、誰かから命を奪われたのではなく、ご自分から命をお捨てになったのです。主は、ヨハネ10:18で、「だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」(ヨハネ10:18)と言っておられます。イエスは「捨てる権威」という言葉を使っておられますが、これは、なんと、逆説的な権威でしょうか。この世では、権威を持っている人はその権威にしがみつき、もっと権威を増し加えようとします。しかし、主イエスは、私たちの救いのために進んでご自分のすべてをささげたお方です。イエスがご自分をお捨てになったあの十字架に、あの惨めで無力な姿の中に、イエスのほんとうの権威、イエスの愛の権威が示されているのです。イエスの権威は、私たちを上から押さえつける権威ではなく、私たちを罪の中から引き上げ、救い出す権威なのです。私たちは、この権威によって救われているのです。

 けれども、イエスが死んだままであったら、誰も、イエスの権威を知ることはできません。イエスは、「それをもう一度得る権威があります。」と言われたように、死を打ち破り、復活し、そして昇天することによって、ご自分の権威を明らかにされました。「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」(ピリピ2:9-11)と書かれているとおりです。イエスが「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」と言われた権威とは、このような権威のことです。どこの国の支配者にもまさる権威を主イエスは持っておられます。主イエスの権威は、全世界に及ぶのです。ですから、主イエスは、「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と弟子たちに命じることができたのです。主イエスが私たちに命令をお与えになる時は、かならず、それを実行する力をも与えてくださいます。伝道は人間の力だけで出来るものではありません。イエスが伝道を命じられる時には、かならず、伝道のための力も与えてくださるのです。伝道ばかりでなく、主が「忍耐しなさい。」「祈りなさい。」「悔い改めなさい。」「恐れてはいけません。」などと命じられる時、主は同時に、忍耐する力、祈る力を与えてくださいます。主は、ほんとうに恐れるべき神の権威を示したうえで、私たちに「恐れるな。」と語りかけてくださるのです。主の権威に目を留めましょう。主がその命令と共に私たちに与えようとしておられる力によって、主の命令を果たしていきましょう。

 三、主の命令と約束

 今朝、もうひとつ覚えておきたいことは、主の命令には、必ず約束が伴っているということです。主イエスは弟子たちに、「行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」と命じましたが、それとともに、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。主は、弟子たちに「行きなさい。」と命じましたが、弟子たちだけを伝道に向かわせたのでなく、主は、「わたしもいっしょに行こう。わたしはいつもいっしょにいる。」と言って、弟子たちとともにいてくださったのです。ヨシュアがカナンに遣わされようとしていた時、主は、彼に「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」(ヨシュア1:9)と約束されました。パウロがコリントで伝道していた時、主は「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。わたしがあなたとともにいるのだ。」(使徒18:9-10)と言われました。マルコ16:20には、「主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。

 「主は彼らとともに」というのは、なんと力強いことばでしょう。主がともにいてくださる、一切の権威を持っておられるお方がともにいてくださるというのは、なんと心強いことでしょう。恐れに取り囲まれる時、孤独を感じる時、さまざまなことに失望してしまう時、そこに打ち消すことのできない主の臨在を感じることがあります。恐れに囲まれながらも勇気がわいてくるのを感じます。孤独の中にありながら慰めを受けます。失望の中から希望をつかみとります。そこに主がいてくださるからです。主は、多くの場合、私たちが祈った通りに答えてくださり、願ったとおりのことをしてくださいますが、時として、祈ったとおりにはならず、願っていることがなかなか実現しないことがあります。私も、そんないらだちを感じながら祈っていて、「主よ、どうしてこのことをしてくださらないのですか。」とつぶやいたことがあります。しかし、その時、主は私の心に「わたしがいるではないか。」と語りかけてくださいました。私ははっとしました。祈っていることの答えはまだありませんでした。奇跡もおこりませんでした。しかし、祈りの答えよりも、奇跡よりも、素晴らしいもの、主ご自身がここにおられるということを、主は私に気づかせてくださいました。特別なしるしはありませんでした。しかし、心に、ひたひたと平安がみなぎってきました。「主がともにおられる。」このことによって私たちは恐れを乗り越えることができます。「主がともにおられる。」これは、信仰者の力であり、勇気の源です。教会はこのことを「臨在の恵み」と呼んできましたが、主は、主の命令に答え、従おうとする者たちに、このような臨在の恵みを約束しておられるのです。

 「あらゆる国の人々を弟子としなさい。」という命令は、「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」という根拠と、「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」という約束に両側から挟まれています。主が私たちにくださったどの命令も同じです。神を愛することに関しても、人を愛することに関しても、自分を成長させることに関しても、また、与えられた使命を果たしていくことにおいても、すべて、根拠と約束で挟み込まれています。それはちょうどサンドイッチのようです。サンドイッチは、中身だけ取り出して食べるものではなく、中身を挟んでいるパンごとかぶりつくものですね。そのように、私たちは、その根拠と約束と一緒に主の命令を受け入れましょう。主がなぜ、私にこのことを求められるのかを理解しましょう。そして、そこに約束された主の臨在を体験しましょう。私たちは、今朝、「主は、よみがえられた。」「たしかに主は、よみがえらえた。」と告白しました。主は、なんのためによみがえられたのでしょうか。今も生きて、私たちとともにいるためです。今も生きて、ともにいてくださる主によって、はじめて、私たちは、人生の五つの目的を実行に移すことができるのです。イースターのこの朝、私たちもまた、主を心に迎え入れ、主とともにある人生を歩みはじめようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエスの復活により、主イエスが、天においても地においても一切の権威を持っておられることを、示してくださいました。それは、聖書にある通り、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白するためです。私たちの人生と永遠は、イエスをどのようなお方とするかにかかっています。私たちが主イエスの権威を受け入れる時、主イエスもまた私たちに神の子とされる権威をさずけてくださいます。今朝、ふたりの姉妹がイエスはキリスト、主ですと、言い表して、洗礼を受け、公に神の子どもであると宣言されました。そのことを、ここに集まった会衆一同と心から感謝いたします。どうぞ、同じ告白を言い表わす人々が続きますように。また、イエスを主と告白する者たちが、あなたの定めてくださった人生の目的を追い求め、あなたの力と臨在のうちに生きることができますように。常に、変わらず、信じる者とともにいてくださる主イエス・キリストのお名前で祈ります。

3/27/2005