苦しめられた救い主

マタイ20:17-19

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20:17 さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。
20:18 「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、
20:19 異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 一、苦しむ者の救い主

 なぜ、この世に苦しみがあるのか。なぜ、人は苦しむのか。なぜ、正しい人でさえ、苦しみを受けなければならないのか。どうしたら、苦しみを乗り越えることができるのか。――これは人類を悩まし続けている難問です。

 仏教によれば、「生」「老」「病」「死」の四つ苦しみを「四苦」と言い、これにさらに「愛別離苦(あいべつりく)」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとっく)」、「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」の四つを加えて、「八苦」と呼びます。「四苦八苦」という言葉はここから来ています。「生老病死」の「四苦」は、生まれるも苦、老いるも苦、病むも苦、死も苦ということですが、生まれ、老い、病を得て死んでいくのは人の一生そのものですから、人生の全体が「苦しみ」であるというのです。「愛別離苦」と「怨憎会苦」は、愛する人と別れるのも苦、憎たらしい人と出会うのも苦、「求不得苦」と「五蘊盛苦」は、求めても得られないのも苦、多くの物を持ちすぎるのも苦というわけです。仏教は、この苦しみは「煩悩」と呼ばれる執着心から生まれるので、それを捨てて、正しい物の考え方と正しい生活に励むよう教えます。

 ギリシャの哲学にはストア派とエピクロス派とがあって、ストア派は、人が苦しみに遭うのは、理性を失うからで、理性を用いて自制することによって、苦しみから逃れることができると教えました。もう一方のエピクロス派は、苦しみは悪であって、苦しみのない生活を求めるのが人生の目的であると教えました。

 聖書は、民族としての苦しみを味わってきたユダヤの人々によって書かれました。ユダヤの人々は古くはエジプトで奴隷として苦しめられました。また、アッシリヤやバビロンという大帝国によって国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに連れて行かれました。バビロン帝国が滅び、バビロンに移住させられた人々の子どもたちが祖国に帰り、神殿を再建しましたが、国は滅びたままでした。ペルシャ帝国が分裂したあと、ユダヤの人々はシリアによって治められましたが、シリアの王は神殿を汚し、ユダヤの人々を迫害しました。新約聖書の時代には、人々はローマ帝国と、「ユダヤ人の王」の地位を賄賂で手に入れたヘロデ一族の二重の支配を受け、苦しんでいました。聖書は、苦しむ人によって、苦しむ人々のために書かれたと言ってよいと思います。

 仏教徒であれ、キリスト者であれ、特定の宗教を持たない人であれ、誰もが同じ苦しみを体験します。そして、人は苦しみを通して自分を見つめ直し、真理を求めはじめます。また、苦しみを共有することによって、意見や立場を超えてひとつになることができます。9・11の時、アメリカはあの悲惨な出来事を通してひとつになりました。日本でも大震災があった時、大きな共感の輪ができました。「苦しみ」という問題を掘り下げていくとき、どの信仰や哲学に立つ人とも共通の基盤に立ち、そこから、聖書によって真理に至ることができると、私は考えています。

 聖書が苦しみについて語るとき、あまり哲学的な説明はしません。理論や概念としてではなく、もっと現実に即したものとして語ります。とくに、「なぜ正しい人が苦しむのか」という難問について、ある意味では「解答」を示していないのです。それは、「苦しみ」をテーマに書かれたヨブ記を見ても分かります。ヨブは「なぜ正しい人が苦しむのか」と、くりかえし神に訴えるのですが、神はそれに答えるかわりにヨブをいやし、その繁栄を取り戻しました。神はヨブに「解答」ではなく、「解決」をお与えになったのです。苦しみについては、どんなに立派な「解答」を得たとしても、それだけでは意味がありません。苦しむ人には「解答」だけではなく「解決」が必要なのです。

 イエスもまた、苦しみの問題に解答ではなく、解決を与えました。苦しむ人々に、慰めや励ましの言葉をかけるだけ、「今の苦しみを我慢しなさい」と忍耐を説くだけではありませんでした。耳の聞こえない人の耳を開け、足の効かない人を立たせ、寝たきりの人を起き上がらせました。息子を失ったやもめに「泣かなくてもよい」と言って、その息子を生き返らせました(ルカ7:11-17)。また、長血の女性には「安心して行きなさい。苦しむことなく、健やかでいなさい」(マルコ5:34)と言って、彼女をいやしました。イエスは、彼らを縛りつけていた様々な苦しみから、その人たちを解放してくださったのです。

 神のわざは、病気の人に現れただけではありません。ガリラヤの漁師たちは、健康そのもので、頑丈なからだを持っていました。救い主の力は、からだのいやしという面では現れませんでしたが、彼らの内面とその生き方を変えました。彼らは「人間をとる漁師」、つまり、人々を神の国に導く者となりました。レビやザアカイなどの取税人は、経済的には貧しくはありませんでしたが、金銭を追い求めるだけの人生で、心に何の満たしもなく、生きる目的を失っていました。しかし、イエスに出会い、心から悔い改め、神の前に富む者になったのです。ユダヤの最高法院の議員、ニコデモとヨセフは、人々の上に立つ人たちでしたが、彼らもイエスによって変えられ、この世の地位や名誉以上のものを神の国で持つ者となったのです。

 このように聖書は、苦しみについて語るとき、その苦しみからの救いを指し示します。詩篇34:19はこう言っています。「正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救い出してくださる。」イザヤ書49:13にはこうあります。「天よ、喜びの声をあげよ。地よ、小躍りせよ。山々よ、歓喜の声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。」イエスの時代のすべての病人が癒やされたわけではありません。すべての苦しみが地上で解決するとは限りません。しかし、すべては神の国で癒やされ、解決します。黙示録21:4はこう約束しています。「神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」「苦しみは苦しみで終わらない。」これが聖書のメッセージです。そして、聖書はイエス・キリストこそ、人を苦しみから救うお方であると教えているのです。

 二、苦しめられた救い主

 ところが、聖書は、「苦しみからの救い主」であるイエスを「苦しめられた救い主」と呼びます。イエスご自身、弟子たちに、「人の子は多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらなければならない」(ルカ9:22)と告げ、何度もご自分の苦しみを予告していました。とりわけ、生涯の最後にエルサレムに上るときは、はっきりとご自分が受ける苦しみを具体的に、事細かに予告しています。「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(18-19節)

 イエスがご自分をさして言った「人の子」という言葉は、「神の子」、「キリスト」、また「救い主」と同じ意味です。大祭司の審問を受け「おまえは神の子キリストなのか」と問われたとき、イエスは「あなたが言ったとおりです。…あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります」と答えました(マタイ26:63-64)。「人の子」という言葉は、このように、本来は「天の神の御座から、栄光のうちに降りて来て、全世界を裁く方」という意味で使われます。

 ところが、イエスは、「人の子」であるご自分が「苦しみを受け、十字架につけられ、死ぬ」ということを明らかにし、その言葉の通りに、十字架に架けられました。十字架刑はそれまでローマにはなかったものでしたが、この時代にペルシャから取り入れられた、人類の歴史て最も残酷な処刑の手段でした。ユダヤにも鞭打ちの刑はありましたが、50回を超えてはならないという規定がありました。ところが、ローマにはそんな制限はなく、イエスは革紐に金属が埋め込まれたローマの鞭によってさんざんにむちで打たれた後、十字架に架けられたのです。

 世界を裁くべきお方が人間に裁かれ、正しい方が罪ありとされる。人々からあがめられるべきお方が嘲られ、天の栄光の御座に着くべきお方が十字架に釘付けにされる。しかも、神にさえ見捨てられるという苦しみの極みを味わいました。それは、すべて私たちのためでした。私たちがこの世の苦しみ、とりわけ、罪から来る苦しみから救われるためでした。

 苦しみのすべてが、私たちが犯した特定の罪から来るというわけではありません。規則を守って安全運転をしていても乱暴な車にぶつけれることがあります。見ず知らずの通りがかりの人が突然襲いかかってくるということもあるでしょう。病気になるのは、かならずしもその人が不摂生だったからとは言えません。「人を憎むと腰が痛む」などと、特定の罪と病気を結びつける人もあります。私は、ある宗教の人が「おまえが病気になったのは信心が足らないからだ」と責めているのを見たことがありますが、それは病気の人には、なんとも残酷な言葉です。ヨブのように信仰深い人にも病気が襲ったのですから、病気の霊的な原因について人は軽々しく語ることはできません。

 病気は罪から生じるとは言えませんが、病気から罪が生じることはあります。病気をすると、気持ちが落ち込み、ものごとに疑い深くなります。病気の辛さ、苦しみによって、わがままになり、他の人につらくあたったり、神への感謝を忘れて、不平ばかりを口にしたりすることがあるからです。そして、そういうときは、病気の苦しみよりも、自分の罪にもっと苦しむのです。

 イエスは、そうした苦しみから救ってくださる救い主です。しかも、私たちを苦しみから救うために、私たちの受ける苦しみのすべてを引き受けて十字架で苦しんでくださった救い主です。聖書は、イエスの苦しみが「私たちの罪のため」だと、はっきりと言っています。「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」(ローマ4:25)コリント第一15:3も「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれた」と言っています。

 使徒信条の「主は…苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり…」という言葉は、人を苦しみから救い出すお方が、人々によって苦しめられたという全く矛盾したことを言い表しています。それは、人の目には矛盾に見えるかもしれませんが、私たちが苦しみから救われるためには、どうしても必要なことでした。イエスは「苦しめられた救い主」となることによって、はじめて、「苦しむ者の救い主」となることができたのです。

 どんなに知恵ある人でも、苦しみの意味のすべてを理解することはできません。苦しみにどう対処していくかは人生にとって大きな課題ですが、私たちは、それに正しく対処する方法も、その力も持っていないのです。人生の苦しみは、ただそれを嘆いたり、気を紛らわせてごまかしたり、見ないようにして否定するだけで解決できるものではありません。苦しみが自分の力を越えたものとしてやってくるとき、私たちに必要なのは、実際の助け、救い、苦しみからの救い主が必要なのです。そして、その救い主こそ「苦しめられた救い主」イエス・キリストなのです。苦しみの問題は、頭で理解し、納得し、悟って解決できるものではありません。この救い主によって救われ、癒やされ、はじめて、その解決を見ることができるのです。

 聖書は言います。「キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。」(ペテロ第一2:24)それがどんな苦しみであっても、このお方に救いを求めましょう。私たちのために苦しまれたイエスは、かならず、その求めに答え、私たちを苦しみから救い、私たちに癒やしを与えてくださいます。

 (祈り)

 真実な神さま、あなたは聖霊によってイザヤ書63:9で「彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった」と語ってくださいました。あなたは、常に苦しむ者とともにいて、その苦しみを担ってくださいました。また御子はこの世のすべての苦しみをその身に負い、私たちの救い主となってくださいました。苦しみに遇う時、イエスに目を向け、その名を呼ぶ者としてください。そして、あなたが約束してくださった救いを体験させてください。救い主イエスのお名前で祈ります。

3/17/2019