この上もない喜び

マタイ2:1-11

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2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 一、発見の喜び

 カリフォルニア州のシールには Eureka という言葉が書かれています。これはギリシャ語で「発見した」という意味の言葉です。自然に恵まれた豊かで、広いカリフォルニアを発見した人々が「見つけたぞ!」と叫んだ喜びの言葉が州の公式の紋章になったのです。カリフォルニアで金が発見されたことも、この言葉が入った理由のひとつでしょうか。カリフォルニアは今でも、新しい発見のあるところですが、かつては発見の喜びに満ちたところだったのです。

 「ユーレカ」という言葉で思い出すのは、アルキメデスのエピソードです。古代ギリシャのアルキメデスは、水が物を浮かせる力「浮力」を発見しました。言い伝えによると、アルキメデスはシラクサの王ヒエロン二世から、金細工人に作らせた王冠に混ぜ物がないかどうかを、王冠を壊さないで調べるようにとの命令を受けました。アルキメデスはこの難しい問題をどうやって解いたらいいか、朝から晩まで、何をするにも考え続けました。風呂に入っているときも、あれこれと考えていたのですが、浴槽いっぱいに張ってあった水があふれるのを見て、はっとその方法を見つけたのです。後に「アルキメデスの原理」と呼ばれるようになった法則を発見したのです。大喜びしたアルキメデスは風呂から飛び出して「ユーレカ」と叫んで裸のまま走っていったと言われています。

 発見の喜び、それは大きな喜びです。特に価値あるものを見つけたときの喜びは何にも代えることができません。イエスは「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイ13:44)という天国のたとえを話されました。ある人が、偶然、すごい値打ちの宝物を見つけました。しかし、そこは、自分の土地ではありません。「土地に埋められた宝物は、その土地の持ち主のもの」という法律がありますので、いくら自分が見つけたからといって、勝手に持ち出せば罪に問われます。しかし、その土地を買ってしまえば、その宝も自分のものになるのです。それに気付いたこの人は「大喜びで」自分の家に帰って、その土地が誰のものかを調べ、その土地を買ったというのが、このたとえ話です。天国というかけがえのない宝を見つけた人が大喜びしている様子が目に見えるようです。

 私たちの教会には「JOD」という聖書クラスがあります。これは Joy of Discovery を略したものです。今まで知らなかったことに目が開かれる。ずっと疑問に思っていたことが「なるほど」と納得する。そんな「発見の喜び」をこのクラスで味わって欲しいというので、この名前がつけられました。詩篇119:130に「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」とあります。朝、窓のカーテンやブラインドを開けると、光が差し込んで来るように、聖書の扉をあけると、そこから光が私たちのたましいの中に入ってきて、私たちの心が照らされるのです。みなさんはもう何年も、何十年も聖書を読んできたことでしょうが、聖書は開くたびに新しい発見がありますね。詩篇119:162に「私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。」とあるように、みことばの真理を発見することは、他のどんなものにも勝る大きな喜びです。それは聖書を学ぶ者に与えられるかけがえのない幸福です。

 二、救い主の発見

 クリスマスがイエス・キリストの誕生を祝うものであることは誰でも知っています。偉大な人の誕生を祝うのは意味のあることです。アメリカでも、ジョージ・ワシントンの誕生日が2月22日、アブラハム・リンカーンの誕生日が2月12日と互いに近いので、2月の第三月曜日を「プレジデント・デー」として祝っています。ワシントンもリンカーンも歴史に大きな業績を残しましたが、イエス・キリストは、それ以上のお方です。イエス・キリストの誕生以前は BC(Before Christ)、キリスト以後は AD(Anno Domini)と言われるように、キリストは歴史を二分するお方、歴史を導いておられるお方です。このキリストを祝うのがクリスマスですが、クリスマスで祝われるべきことは、この偉大なイエス・キリストが同時に「私の救い主」でああることなのです。そのことを発見するのが、クリスマスの喜びなのです。クリスマスの朝、こどもたちは、プレゼントを見つけて大喜びします。おとなも、普段音信のない知人からクリスマス・カードが届き、その知人が元気でいることを知って喜んだりもします。散らばっていた家族が集まって、みんなの元気な顔を見るのも大きな喜びです。しかし、クリスマスの一番の喜びは、救い主を見出す喜びです。

 最初のクリスマスの夜、羊飼いたちは、天使の声を聞いて、生まれたばかりの救い主を探しにいきました。あちらの家畜小屋、こちらの家畜小屋と歩き回って、やっと飼い葉おけに寝かせられた赤ちゃんを探し当てました。聖書は、羊飼いたちは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(ルカ2:20)と書いています。羊飼いたちは救い主を見出した喜びで満たされて、神をあがめ、賛美したのです。

 東方の博士たちは「ユダヤの王」が生まれたことを星によって知りました。そしてエルサレムにやってきました。エルサレムで、「ユダヤの王」がベツレヘムで生まれたことを知ると、博士たちはすぐにベツレヘムを目指しました。すると、自分たちの国で見たあの星が再び現れ、博士たちを導いたのです。マタイ2:10は「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。」と言っています。長い旅の苦労が報われるときが来たのです。もうすぐ、ユダヤの王として生まれた救い主に会うことができるのです。博士たちも、羊飼いのように、救い主を発見する喜びを味わったのです。

 イエス・キリストはすべての人の救い主としてお生まれになりました。ルカの福音書に出てくる羊飼いたちはユダヤ人で、マタイの福音書に出てくる博士たちは異邦人でした。羊飼いは教育の機会に恵まれなかった人々、経済的に貧しい人々を代表し、博士たちは知識人や経済的に豊かな人を代表しています。そして、羊飼いも博士たちも共に救い主を捜し求め、見出しています。このことは、イエス・キリストがユダヤ人であれ、異邦人であれ、全世界のすべての人の救い主であることを物語っています。社会のどの階層の人であっても、どんな境遇にいる人も、すべての人は救い主を捜し求めさえすれば、必ず見出すことができるということを教えているのです。ですから、天使は羊飼いたちに「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10)と告げたのです。「あなたがたのために」というのは、最終的には「すべての人のために」という意味ですが、直接的には、羊飼いたちのことです。当時、羊飼いたちは、羊を追って転々としていたため、神の律法をきちんと守ることのできない人々、救い主の約束からほど遠い人々と思われていたのですが、天使は、羊飼いたちに「あなたがたのたに」救い主が生まれたと告げています。当時異邦人は救い主の約束に縁のない人々と思われていましたが、神は異邦人の博士たちをも、救い主のもとに導いておられます。

 「イエス・キリストは救い主である」という知識が人を救うのではありません。そのようなことなら、ほとんどの人が知っています。人を救うのは、クリスマスの日にお生まれになったイエス・キリストが、他の誰のためでもない、この私の救い主であるということを認め、この救い主イエス・キリストを自分の心に、生活に、人生に迎え入れる信仰なのです。みなさんは、もうすでに、「イエス・キリストは<この私の>救い主である」ということを発見をしているでしょうか。ベツレヘムの飼葉おけに、「私の」救い主を発見する人は幸いです。このクリスマスに、ひとりでも多くの方が、この信仰の発見の喜びに導かれて欲しいのです。

 三、発見の過程

 救い主を発見する喜び。それは、偶然に与えられるものではなく、そこには、踏むべき手順があり、過程があります。それは東方の博士から学ぶことができます。

 第一に、東方の博士たちは神のことばに導かれて、救い主のもとに至りました。博士たちを導き、その道を照らしたのは星の輝きだけでなく、博士たちの心の中にあった「預言のことば」というともしびでした。当時、聖書はユダヤの人々にだけでなく、まわりの民族にも広く知られていました。東方の博士たちも聖書に通じており、自分たちが見た星が、民数記27:17に「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」と預言されていることであると悟ったのです。エルサレムでは、ミカ5:2の「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」とのことばによって、救い主がベツレヘムで生まれることを知りました。

 私たちを救い主に導くものはみことばです。すべての人が天使のお告げを聞いたり、輝く星を見ることができるわけではありません。しかし、神のことばはすべての人に与えられています。誰もが聖書を手にすることができ、教会で聖書を学ぶことができます。ペテロ第二1:9に「また、私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。夜明けとなって、明けの明星があなたがたの心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、それに目を留めているとよいのです。」とあるように、聖書を熱心に読み、真剣に学ぶなら、私たちも、博士たちと同じように救い主キリストのもとに導かれていくのです。

 第二に、博士たちは犠牲を払って救い主発見の旅に出ました。今も、旅行は、飛行機やホテルを予約したり、荷物を詰めたり、なかなか大変なものです。旅先で病気にならないか、盗難に遭わないかなどという心配もあります。まして、古代の旅行にはもっと大きな苦労がありました。地図も不完全で、山賊、海賊などは日常のことでしたから、長い旅行は大きな危険を伴いました。博士たちはそんな危険を覚悟してまでも、犠牲を払って旅立ちました。救い主に出会うのに、難行苦行が必要なわけではありませんが、信仰を求めるのに何の努力もいらないわけではありません。聖書を学ぶために時間を取り、教会に来るための時間を作るという努力が必要です。心の中に神を思う場所を確保しなければなりません。自分が救い主を必要としていることが分かるために、自分に向き合う努力も必要です。

 そして、なによりも、救い主を探し出す霊的な旅の第一歩を踏み出す決断が必要です。博士たちが、いくら聖書に通じ、知識があっても、救い主の誕生を知らせる星を見たとしても、自分たちの国にじっとしていたのでは、救い主を発見することはできませんでした。荷造りをし、らくだにまたがり、最初の一歩を踏み出す必要がありました。あなたにとっての第一歩は何でしょうか。それは、聖書を読み始めることかもしれません。聖書の学び会に来ることかもしれません。入門クラスや洗礼準備会に出ること、個人的な導きを求めて指導を受けることでしょうか。示された一歩を踏み出してください。それは、かならず、あなたを救い主発見の喜びに導くことでしょう。

 第三に、博士たちは、救い主イエスを礼拝しています。博士たちが救い主を求めて旅したのは、決して好奇心からではありませんでした。それは、救い主を礼拝するためでした。その証拠に、博士たちは「私たちは、…拝みにまいりました。」とヘロデ王に言っています。ヘロデ王にさえ与えなかった黄金、乳香、没薬という高価な宝物を、生まれて数ヶ月の赤ん坊にささげ、この幼子の前にひれ伏しています。これは、この幼子こそ、全世界の救い主であるとの信仰の告白でした。信仰が形をとったもの、それが礼拝です。クリスマスは、イエス・キリストに私たちの尊敬を、愛を、まごころをささげるとき、礼拝のときです。救い主に出会ったなら、その尊いお方を礼拝したいという信仰のこころが、私たちを救い主に導きます。賛美歌に O come, let us adore Him.(「いそぎゆきて拝まずや」)とあるように、礼拝のこころをもって、救い主を尋ね求めましょう。そうするなら、私たちはかならず救い主を見出し、この救い主を、大きな喜びをもって礼拝できるようになるのです。

 「私はすでに救い主を見出しています。」という人は、この救い主の愛と真実がどんなに高いものか、恵みやあわれみがどれほど深いものか、その力と栄光とがどんなに大きいものかを、さらに豊かに知ることができるよう、求めようではありませんか。私たちの救い主イエス・キリストは偉大なお方です。私たちはイエス・キリストのすべてを知り尽くすことはできません。さらに主を知ることを求めましょう。今まで知らなかったイエス・キリストの素晴らしさを発見する喜びを受け取りましょう。最初にキリストを救い主として見出した喜び、それは、確かに大きなものです。しかし、その最初の喜びが減らないようにと、それにしがみついているのが、クリスチャンの生活ではないのです。信仰の喜びは、キリストを知るにつれて増し加わっていくもの、さらに大きくなっていくものです。それは日ごとに新鮮なものです。もし、そのような喜びを失っているとしたら、今年のクリスマスに、それをみことばによって、キリストに向かう努力によって、そして、キリストを礼拝するこころによって、取り戻していこうではありませんか。クリスマスの喜び、救い主発見の喜びが皆さんに豊かにありますように。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは天使を使わして、「あなたのための救い主が生まれた。」との、大きな喜びの知らせを、私たちに告げてくださいました。この喜びの知らせは、私たちの心に大きな喜びをもたらします。アドベントの「喜び」のキャンドルに灯をともした今日、私たちをこの喜びの知らせに耳を傾け、それに応答する者としてください。救い主イエスを「私のための」救い主として受け入れ、礼拝し、そのことによって喜びに喜びを増し加えることができるよう、私たちを助けてください。救い主イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/13/2009