博士たちの礼拝

マタイ2:1-12

2:1 イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
2:2 「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」
2:3 それを聞いて、ヘロデ王は恐れ惑った。エルサレム中の人も王と同様であった。
2:4 そこで、王は、民の祭司長たち、学者たちをみな集めて、キリストはどこで生まれるのかと問いただした。
2:5 彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者によってこう書かれているからです。
2:6 『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』」
2:7 そこで、ヘロデはひそかに博士たちを呼んで、彼らから星の出現の時間を突き止めた。
2:8 そして、こう言って彼らをベツレヘムに送った。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」
2:9 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
2:10 その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ。
2:11 そしてその家にはいって、母マリヤとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた。
2:12 それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、別の道から自分の国へ帰って行った。

 日本では1995年から「世相漢字」というものが、毎年、選ばれています。その年を漢字一文字で表わしたもので、1995年には、関西大震災があったので、地震の「震」という漢字が選ばれました。1996年は「O-157」という細菌による食中毒があったので「食」という漢字が、1997年は企業倒産が続いたので「倒」という漢字が選ばれました。1998年は和歌山での「毒入りカレー事件」があって「毒」という漢字が、1999年は世紀末ということで「末」という漢字が選ばれました。ずっと暗い話題が続きましたが、2000年はオリンピックで日本が金メダルをとったので、「金」という漢字が選ばれました。昨年は、アメリカでの「同時多発テロ」が起こり、選ばれた漢字は、戦争の「戦」でした。今年の漢字が、実は、最近発表されたのですが、何だと思いますか。それは、「帰」という漢字です。北朝鮮に拉致された五人が帰ってきたことにちなんでいるそうです。

 そこで、私も、今年の、私たちの教会を漢字一文字で表わすとしたらどうなるか考えてみました。皆さんは、どんな漢字を思い浮かべましたか。私は「動」という漢字を選びました。というのは、今年は特に人の動きが激しかったからです。昨年から今年にかけて、シリコンバレーには不景気の嵐が吹き荒れ、私たちの教会も大きな影響を受けました。いままで教会の中心になって活動してきた多くの人たちが、シリコンバレーでの仕事を無くし、他の地域に移って行きました。この一年は、アメリカの社会も、私たちの教会も大きく揺れ動いた年でした。しかし、神は、この年のはじめ、教会の年間標語として、「堅く立って動かされることなく、主のわざに励みなさい。」とのみことばを与えていてくださいました。世の中が動いても、教会に変化があっても、神の恵みによって堅く立ち、変わらず主のわざに励むことができたことを感謝しています。

 今年の初め、私は、どんな時にも変わらず励むべき、主のみわざを WORK という言葉で表わしました。Worship 礼拝、Outreach 伝道、Reproduction 弟子訓練、そして、Koinonia まじわりの四つですね。今年は、特に、その中の礼拝に焦点をあわせてきました。多くの人が他の地域に移っても、礼拝や祈り会の出席者がそんなに減らなかっただけでなく、ただ礼拝に「出席」するだけでなく、心を込めて賛美をする、メッセージに聞き入る、また、礼拝で奉仕をするなど、多くの人が礼拝に「参加」してくれるようになったことです。祈り会にも、もっと多くの方が参加して、あかしや祈りの課題を分かち合い、祈りあっていきたいと願っています。祈り会を守るには職場のスケジュールや家族の理解が必要で、困難があるかもしれませんが、月に一回でも、二回でも、できるところから始めて、共に祈るよろこびにあずかって欲しいと思っています。

 一、礼拝を第一に

 さて、今朝は、東方の博士たちが、イエスを礼拝したことから、学ぶのですが、まず第一に、博士たちが、礼拝を第一にしたということに目を留めましょう。今年、私たちは「礼拝を第一に」と、励んできたのですが、博士たちは、まさに、礼拝を第一にした人たちでした。

 ここに登場する博士たちは、もとの言葉では「マギ」と言って、新共同訳では「占星術の学者たち」と訳されています。「占星術」などというと怪しげなものに聞こえますが、彼らは、天体を観測する人たち、今日の天文学者だったと思われます。天文学は古代の科学の基礎で、天体の観測によって地上の距離を量るなど、それは、測量などの他の技術に応用されました。ですから、彼らは、天文学ばかりか、さまざまな科学技術にも通じていたと思われます。また、暦は天体の動きによって定められますから、この人たちは暦を管理していたことでしょう。今でも、農業暦というものがあって、いつ種を蒔き、いつ刈り取ればいいかという指針となっていますが、古代は、農業ばかりでなく、政治や経済なども、暦にしたがって動いていましたから、この人たちは、おそらく、そういった面で、政治にもかかわっていたと思われます。

 彼らが、自分たちの国で不思議な星を見た時、その星を追ってユダヤの国まで来たのは、なぜでしょうか。天文学者である彼らにとって、その不思議な星は、追っかけていって観測するだけの値打ちがあったようです。しかし、彼らは、天文学のために星を追っていったのではありませんでした。また、彼らが、政治にかかわっていたなら、星の観測のついでに、ユダヤの状況を見聞きしてきたら、一挙両得と、一般的には考えることができるかもしれません。しかし、彼らは、学問上の好奇心からでも、政治的な動機からでもなく、まことの救い主を礼拝するためだけに、自分たちの国を旅立ち、ユダヤに向かいました。博士たちは、学問よりも、政治よりも、礼拝を第一にしたのです。

 私たちも、博士たちから、「礼拝を第一に」という態度を学びましょう。先ほど、多くの人が礼拝で奉仕するようになったと話しました。しかし、奉仕が礼拝のすべてではありません。特別な奉仕はなくても、礼拝に集うこと自体が素晴らしい奉仕です。きょうは、奉仕があるから礼拝に出るが、来週は何もないから休むというというのでは、奉仕が先にきてしまって、礼拝が第一のものとなっていません。奉仕は、それを通して、神を礼拝することが目的なのであって、奉仕の目的を見失うと、奉仕がただ負担になるだけで、そこから喜びを得ることができなくなります。また、礼拝は、神を信じる人々、神を求める人々と「共に」ささげるところに意味があります。しかし、礼拝で神と交わることはそっちのけで、誰かに会いに来るだけになっているなら、それも礼拝が第一のものとなっていません。ずいぶん以前のことですが、私が、はじめて礼拝においでになった方に、あいさつしようとしましたら、「○○さんは、どうして来てないんですか。私は○○さんに用があって来たんです。教会に来たら会えるといったのに、どうしたんですか。」と叱られたことがありました。私は○○さんから、何も聞いていませんでしたので、ただ「そうですか。」と言うしかありませんでした。どんな動機であれ、礼拝に出ることは良いことですが、その人が、○○さんを見つけようとして、礼拝の間、あちらをきょろきょろ、こちらをきょろきょろ、人の顔ばかりを見て、神の顔を仰ごうとしなかったのは残念なことでした。

 博士たちは、他の何のためでもなく、救い主を礼拝するためにやってきました。私たちも、日曜の朝、何のために家を出てここに向かってきたのか、その目的を見失うことなく、毎週の礼拝を守りたいものです。

 二、みことばによる礼拝

 第二に、博士たちの礼拝から学ぶことは、「みことばによる礼拝」ということです。博士たちは、星をたよりに、東の国を出発しました。そして、救い主はユダヤの首都エルサレムにいるだろうと考え、ヘロデの宮殿にやってきたのです。しかし、ミカ書2:6に「ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して一番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。」とあるのを聞いて、彼らはベツレヘムに向かいました。最初は星に導かれた博士たちは、今度は、神のことばに導かれてベツレヘムに向かっています。博士たちが、自分たちの国で見た星を、救い主の誕生のしるしであると、判断したのも、おそらくは、彼らが聖書に「私は見る。しかし今ではない。私は見つめる。しかし間近ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こり、モアブのこめかみと、すべての騒ぎ立つ者の脳天を打ち砕く。」(民数記24:17)とあるのを知っていたからでしょう。博士たちを、ほんとうの意味で救い主に導いたのは、星の光ではなく、神のことばでした。

 星の光は、何か目に見えるしるしを表わしています。私たちは、信仰によって、悪い習慣を止めることができた、病気が良くなったとか、願っていたものが手に入ったなどという目に見える結果を得ることができます。しかし、いつでも、目に見えるしるしが与えられるとは限りません。目に見えるものが何もなくても、ただ静かに神をあがめ、神を待ち望むという信仰が求められることもあるのです。目に見えるものだけによって左右されると、それは星の光だけを頼りに暗闇の中を旅するようなもので、神の計画全体を見ることができなくなってしまいます。聖書は、神のみこころの全体を教え、私たちの行く道を照らすものです。最初は、目に見えるもので導かれたとしても、次には神のことばによって導かれ、神を正しく礼拝していきたいと思います。

 では、みことばに導かれるためには、ただ聖書の知識があればそれで良いということなのでしょうか。聖書の知識は多いにこしたことはありませんが、もっと大切なのは、その知識をどう用いるかということです。ヘロデ王から「キリストはどこで生まれるのか。」と聞かれたエルサレムの学者たちは、「それはユダヤのベツレヘムです。」と正しく答えることができたのに、その中のだれひとりとして、キリストを礼拝するためにベツレヘムに向かった者はありませんでした。彼らは聖書の専門家たちでその知識を誇っていました。しかし、彼らは、神のことばに聞き従う信仰がなかったのです。しかし、東方の博士たちは、聞いたことばにすぐさま従っています。9節に「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。」とありますから、博士たちは、すでに夕暮れになっていたのに、ベツレヘムに向かい、あたりが暗くなるにしたがって、その星がいっそう輝きを増すのを見たのでしょう。博士たちは、「エルサレムで一夜を明かしてから、ベツレヘムへ。」とは考えないで、聞いたみことばにすぐさま従っています。私たちも、このように、神のことばに聴き従うことによって、ほんとうの礼拝をささげることができるのです。

 三、礼拝はささげるもの

 博士たちの礼拝から学ぶ、第三のことは「礼拝とはささげるもの」だということです。時たま、「今日は良い礼拝を受けました。」と言う人があります。礼拝は、神からの祝福を受け取る場ですから、そういう言い方も間違いではないと思いますが、やはり、礼拝とはささげるものです。最高のお方に、私たちの最善のものをささげることが礼拝です。博士たちは、イエスの前にひれ伏し、宝の箱から黄金、乳香、没薬などの、高価なものを取り出し、ささげています。彼らのささげものは、キリストがどんなに価値あるお方かを表わしています。もし、博士たちが、キリストを単なる人間と見なしていただけなら、こんな高価な贈り物を、貧しい夫婦の赤ちゃんに与えるようなことはしなかったでしょう。英語の Worship という言葉は、worth(価値、ふさわしい)という言葉から来たといわれます。私たちは、神を、神にふさわしい態度であがめているでしょうか。救い主にふさわしいものを、キリストにささげているでしょうか。

 旧約時代には、ささげものを持って来ることなしには、礼拝は成り立ちませんでした。それぞれが、自分たちの羊や家畜の群れの中から、傷のない一番良いものを選んでささげました。新約の時代には、動物のささげものは不必要ですが、礼拝にささげるべきものを携えてくるという原則は変わってはいません。では、私たちは、何をささげるのでしょうか。私たち自身をささげるのです。ローマ12:1に「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」とあります。よく、「忙しくて礼拝に行けませんが、こころは、礼拝にありますから…」と言う人がいます。病気や他の事情で礼拝に出られなくて、自宅で、礼拝の時間を覚えてくださっている場合は別として、なんとか都合がつくなら、こころだけでなく、からだも、この礼拝堂に来て、いっしょに礼拝をささげて欲しいと思います。神は、私たちのこころだけでなく、「からだ」も求めておられるのです。

 しかし、からだをささげるというのは、具体的にはどうすることでしょうか。それは肉体労働をすることでしょうか。それができない人は頭を使って何かをすることでしょうか。それは奉仕活動に忙しくすることを意味しているのでしょうか。そうしたことが全く含まれないわけではありませんが、ローマ人への手紙の「からだ」は、私たちの五体だけはなく、その五体を使って生活をしている、私たちの日常の生活のことを指しています。ですから、「からだ」をささげるというのは、この、週のはじめの日の礼拝で、この一週間の生活を神にささげていくことを意味します。日曜日の礼拝が月曜日から土曜日の生活の中に反映されていくよう努めていく、それが神への一番のささげものと言えるでしょう。礼拝を一週間の出発点にするのです。

 それと同時に、礼拝は、一週間の生活のゴールでもなければなりません。月曜から土曜までの生活は、次の日曜日への準備なのです。東方の博士たちが、黄金、乳香、没薬を途中で手に入れたのでもなく、思いつきでささげたのでもなく、自分たちの国を出発する前から準備していたように、私たちの一週間の生活が、次の日曜日にささげる礼拝のための準備になっていくなら、どんなに神は喜ばれることでしょう。礼拝から始り、礼拝に向けていく一週間、礼拝が中心となり、心棒となって回転していくような生活、それこそが、キリストにささげる私たちの「黄金、乳香、没薬」です。

 礼拝のために、救い主を礼拝するというただひとつのことのために、準備をし、犠牲を払った博士たちから、私たちも、礼拝の心構えを学びましょう。そして、博士たちが味わった「この上もない」喜びを私たちのものとしましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、クリスマスをもうすぐ迎えようとしている日々を感謝いたします。さまざまなことに心せわしくしている私たちですが、クリスマスが礼拝の日であることを覚えさせてください。あなたとあなたの送ってくださった御子キリストとを、ここからあがめ、たたえ、愛する礼拝をささげさせてください。私たちの生活が、礼拝に導かれ、礼拝に導かれた生活をもって、さらにあなたを礼拝するものとしてください。主イエス・キリストの御名で祈ります。

12/15/2002