エジプトへの逃避

マタイ2:13-15

2:13 彼らが帰って行ったとき、見よ、主の使いが夢でヨセフに現われて言った。「立って、幼子とその母を連れ、エジプトへ逃げなさい。そして、私が知らせるまで、そこにいなさい。ヘロデがこの幼子を捜し出して殺そうとしています。」
2:14 そこで、ヨセフは立って、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトに立ちのき、
2:15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。

 このところ、日本からのニュースは、北朝鮮のことがほとんどですね。私は、横田めぐみさんが行方不明になった時、新潟県におり、蓮池さんたちが拉致されたという、柏崎市の海岸にも行ったことがありますので、興味をもってニュースを聞いています。その中で佐渡の曾我ひとみさんが「北朝鮮ではクリスマスの習慣がありませんので、日にちは知っていましたが、特別なことはしませんでした。」と言っていました。世界で、イスラム圏は別として、クリスマスを祝わない国は、北朝鮮ぐらいかもしれません。仏教会でも、クリスマスツリーを飾り、クリスマス・パーティをするところがあると聞きました。ある人がその仏教会の人を教会のクリスマスに誘ったら、「このごろは、キリスト教会でも、クリスマスをするようになったんですか。」と言われたとのことです。それほどに、クリスマスは世界中で祝われています。なぜでしょうか。昔も、今も、毎日、どこかで、赤ちゃんが生まれているのに、どうして、今から二千年前、ユダヤのベツレヘムで生まれた赤ちゃんだけが特別なのでしょうか。

 一、約束された救い主

 それは、イエス・キリストが救い主だからです。しかも、キリストは約束された救い主だからです。

 世の中が暗くなって来ますと、「われこそは世の救い主なり。」と名乗る人々が多く現われます。彼らは、新しい宗教を始めて、人々の心をつかもうとしたり、政権を獲得して国民を従えようとしたりします。彼らは面倒見が良く、人々を大切にしているようにふるまいますが、人々をしあわせにすることではなく、人々を支配することが目的ですから、かならず独裁的になり、権力を保つためには手段を選ばず、恐ろしいことを平気でするようになります。人々を救うどころか、ついには、人々を道連れにして、破滅への道をたどるのです。

 自分から「救い主」と名のるだけの人が救い主ではありません。ほんとうの救い主は、神が「救い主はこのように生まれ、このように育ち、このような人物で、このようなことを成し遂げる。」と、あらかじめ指定された通りの人でなければならないのです。マタイの福音書は、今から二千年前に生まれたイエスこそ、救い主の条件をすべて満たすお方であると教えています。救い主は、アブラハムの子孫、またダビデの子孫として生まれると約束されていましたが、イエスは、その通り、アブラハムの子孫、ダビデの子孫として生まれました。マタイの福音書第一章の系図は、そのこと物語っています。

 また、救い主は処女から生まれるということも預言されていました。イザヤ書に「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける。」(イザヤ7:14)とある通りです。「処女降誕」は、クリスチャンの信仰にとって大切なものですが、これを信じない人からは常に攻撃の的にされてきました。イザヤ書で使われている「処女」という言葉は、ヘブル語でも、ギリシャ語でも、はっきりと「結婚したことのない女性」を表わしています。ところが、それはたんに「若い女性」のことであって、処女のことではないという人が、宗教改革の時代にもいました。マルティン・ルターは、「この言葉が結婚している女性に使われている例を示した人には百グルテンあげよう。」と言っています。百グルテンとは今日では五十万ドルぐらいの価値があるそうです。ルターは、聖書学の博士であり、聖書をドイツ語に翻訳した人であって、この言葉の意味を良く知っていましたから、確信をもってそう言うことができたのです。マタイは、イエスが、処女マリヤから生まれたお方であり、イエスこそ、イザヤの預言を成就したお方であると言っているのです。

 聖書は、救い主が世に来た時、誰もが、この方こそ救い主だと分かるため、救い主は誰から、どのように生まれるかをあらかじめ知らせていました。聖書は、救い主がどこで生まれるかも告げています。東方の博士たちが救い主を訪ねてやってきた時、エルサレムの学者たちが、ミカ第五章二節を引いて答えたように、それは、ベツレヘムでした。イエスはこのように、聖書のすべての預言を成就して生まれたお方、神が人類に約束してこられた救い主なのです。

 二、斥けられた救い主

 ところが、この救い主は、同時に、人々から斥けられた救い主でもありました。人々は、特にユダヤの人々は、救い主を待ち望んでいたはずです。しかし、今から二千年前、最初のクリスマスには、救い主の誕生を喜び、救い主を迎え入れた人は、ほんのわずかしかいませんでした。本当なら、ベツレヘムで一番豪華な家が救い主の誕生のために用意されていて良かったのです。しかし、どの家も、どの宿屋も、救い主のために一部屋すら開けて迎え入れることをしませんでした。救い主は、家から、宿屋から、人の住む場所から締め出され、家畜がつながれている場所で生まれたのです。聖歌に「入れまつる家あらず、休めまつる宿もあらず、ただむさき馬小屋を、かりの宿となしたもう」と歌われているとおりです。

 救い主が生まれた時、天で天使たちが賛美を歌ったとあります。それは、救い主がひっそりと生まれ、誰一人、その誕生を祝う者がなかったので、せめて天使たちにでもと、神が賛美を歌わせたのだと、私は思っています。しかも、その天使たちを見たのは、羊といっしょに野宿していた羊飼いたちだけでした。羊飼いたちは、天使たちのことばのとおり、飼葉桶に寝ている赤ん坊を見て礼拝し、神を賛美しました。羊飼いたちは、この出来事をベツレヘムの家々に知らせて回ったのに、ベツレヘムの人々は救い主を礼拝しようとはしませんでした。

 次に救い主を礼拝したのは、東方の遠い国の博士たちでした。ユダヤの人々ではなかったのです。「私たちは神の民である。」と言って誇り、外国人を「異邦人」と呼んで軽蔑していた人たちが救い主を礼拝せず、彼らが軽蔑していた異邦人が、救い主を礼拝するために遠くからはるばる旅してきたのです。

 この博士たちから救い主の誕生のことを聞いたヘロデ王は、博士たちにこう言いました。「行って幼子のことを詳しく調べ、わかったら知らせてもらいたい。私も行って拝むから。」(マタイ2:8)しかし、これは真っ赤な嘘で、ヘロデの心には、救い主を礼拝する心などかけらほどもありませんでした。ヘロデは、狡猾で猜疑心が強く、自分の王位を狙う者があれば、自分の子どもであっても殺した、権力の亡者でした。そのころ、ヘロデについて、「ヘロデの息子になるくらいなら、ブタになったほうがましだ。」とささやかれていたほどです。ヘロデは「救い主」などというやっかいな者は葬り去るのが一番と、この時、救い主の殺害を計画していたのです。

 救い主を礼拝した博士たちは、夢で神からのお告げを受け、ヘロデのところに戻らないで、別の道を通って自分たちの国に帰りました。そして神は、ヨセフにエジプトに逃れるよう示し、ヨセフは神のことばに従って、幼子のイエスとマリヤを連れてエジプトに逃れていきました。ヘロデがベツレヘムに軍隊を送り込んだのはその後でした。ベツレヘムの二歳以下の男の子がひとり残らず、殺されるという惨事が起こりました。

 聖書は、救い主が、人々から斥けられ、ついには、そのいのちを奪われるということを預言しています。イエスは十字架につけられ、人からも神からも見捨てられるのですが、その十字架にいたる前にも、誕生の時から、すでに、人々から斥けられていたのです。イエスの生涯は苦難の連続でした。イエスは、神の子であるのに、しもべとなってその苦難を背負い、神に従い通し、ついには、十字架でそのいのちをささげたのです。ある人が「クリスマスはカルバリで過ごすべきだ。」と言いましたが、確かに、イエスの十字架にかかられたカルバリの丘からクリスマスを見る時、イエスの死からイエスの誕生を見る時、その意味が一番良く分かるのです。

 三、罪からの救い主

 イエスは約束された救い主でした。人々から待ち望まれ、受け入れられて当然のお方なのに、その誕生の時から、斥けられた救い主でした。しかし、イエスは、人々のこうした叛逆を黙って耐え忍び、それによって私たちの罪からの救い主となってくださいました。イエスは、自分にはむかう者たちを滅ぼし、受け入れない者たちを罰することができたのですが、人間の神への叛逆や不従順のすべてをご自分の身に負ってくださいました。ヘロデにいのちを狙われ、エジプトに逃げていくイエスの姿にそれを見ることができます。

 紀元前千四百年、イスラエルがエジプトで奴隷だった時、神はモーセを遣わして、イスラエルをエジプトから救ってくださいました。神は、ホセア書で「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した。」(ホセア11:1)と言っていますが、それは出エジプトをさしています。神は、かって奴隷であったイスラエルを解放して自由人としました。そればかりか、神はイスラエルを「わが子」と呼んで、神の子どもとしての身分をも与えたのです。出エジプトは、歴史の事実ですが、同時に、やがてモーセに匹敵するような指導者がイスラエルに起こり、その人が救い主となって、私たちを罪の奴隷から救ってくださることを示すものでした。そして、このことは、イエス・キリストによって成就したのです。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネ1:12)とあるように、キリストを信じる者は、罪の奴隷から解放され、神の子とされるのです。

 しかし、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」という言葉が、私たちに成就するためには、ただひとり、ほんとうの意味で、神から「わたしの子」と呼ばれるべきイエスが、まずエジプトに降っていかなければなりませんでした。神の御子は天の栄光を捨てて、罪の世界に入ってこられ、人間の神への叛逆、不従順、不信仰のために、エジプトに追われていったのです。しかし、それは、私たちが罪から救い出されて神の子とされるためでした。

 このように、クリスマスの情景の中に、すでに、カルバリが、キリストの十字架の救いが示されており、クリスマスの飾りにも、キリストの十字架を連想させるものがいくつもあります。クリスマス・カラーは「レッド・アンド・グリーン」ですが、赤い色は、キリストが私たちのために流された血潮を表わし、緑色は、キリストによって与えられる永遠のいのちを表わしています。常緑のクリスマスツリーは永遠のいのちの象徴ですが、同時に、人間の背丈ほどの高さのツリーは、イエスがそこにかけられた十字架をも表わしているのです。

 クリスマスに無くてならないキャンデーケーンも、イエス・キリストとその救いを表わしています。これは、羊飼いの杖の形をしていますね。「わたしは良い牧者です。」とおっしゃった、私たちの羊飼い、キリストを表わします。これをさかさまにしますと、「J」という字になり、「Jesus」を表わします。「イエス」という名は、「神、救いたもう。」という意味で、イエスが救い主であることを表わしています。キャンデーケーンに赤い縞模様がありますが、これはイエスの血を表わします。白い部分は、イエスのきよさを表わします。イエスは、私たちと変わらない、正真正銘の人間となってくださいましたが、人間の持つ、罪や汚れは一切ありませんでした。イエスは罪のないお方だからこそ、私たちの罪の身代りになることができたのです。そして、ここにある細い筋は、イエスがその体に受けた傷を意味します。イエスは、その受けた傷によって、私たちの傷をいやしてくださいました。キャンデーケーンはペパーミントの味がします。ペパーミントは聖書に出てくる「ヒソプ」に似ています。ヒソプが、旧約時代に宗教的な「きよめ」のために使われたように、イエス・キリストも私たちを、罪や汚れからきよめるお方となってくださいました。キャンデーケーンを食べる時、私たちはそれをポキッと折りますが、それは、イエスが私たちの救いのために、その体を裂かれたことを思いおこさせてくれます。そして、私たちは、このキャンデーケーンを人々に分け与える時、神が、私たちのために救い主を与えてくださったことを喜び、感謝するのです。

 私たちは、なぜクリスマスを祝うのでしょうか。今から二千年前に生まれた赤ちゃんが、普通の赤ちゃんではなく、かけがえのない、神の御子であって、約束の通りに生まれ、私たちの救いのために、私たちに代わって苦しみを背負ってくださったお方だからです。「クリスマスをカルバリで」祝いましょう。今年のクリスマスを、罪からの救い主となってくださったイエスを信じ、受け入れ、礼拝する時としましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、このクリスマスに、もう一度、イエス・キリストがどのようなお方なのかを思い見ることができ、有り難うございました。歴史の中に、数多くの偉大な人物が生まれましたが、イエス・キリストはその誰とも違って、ただひとり私たちの罪を背負ってくださったお方、私たちを罪の奴隷から解放してくださる、私たちの救い主です。このお方を心に迎え入れ、心からほめたたえる私たちとしてください。キリストのお名前で祈ります。

12/22/2002