罪の赦し

マタイ18:15-20

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18:15 また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。二人または三人の証人の証言によって、すべてのことが立証されるようにするためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
18:18 まことに、あなたがたに言います。何でもあなたがたが地上でつなぐことは天でもつながれ、何でもあなたがたが地上で解くことは天でも解かれます。
18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。
18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」

 一、赦しの福音

 使徒信条は、日本語では漢字とかなでちょうど200文字、英語ではおよそ100の単語で書くことができます。とても短い言葉で信仰の真理を表しており、どの言葉も大切で、要らない言葉がないほどです。けれども、その中から、あえて、中心的な言葉を選ぶとすれば、それは、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず」となるでしょう。聖書と使徒信条が教える信仰はじつに、「イエスは主キリストである」という言葉に要約することができるからです。

 そして、イエス・キリストを信じる者に与えられる恵みの中で、一番大切なものは、「罪の赦し」だと思います。キリストの十字架も復活も、私たちの罪の赦しのためになされたものであり、私たちが聖霊を受け、キリストのからだに加えられ、やがて復活のからだと永遠の命を受け、神の国を受け継ぐことができるのは、すべて、罪の赦しに基づいているからです。

 キリストは天にお帰りになる前にこう言われました。「次のように書いてあります。『キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる。』エルサレムから開始して、あなたがたは、これらのことの証人となります。」(ルカ24:46-48)キリストは、「聖書の全体はキリストの十字架と復活を指し示しており、それによってもたらされる罪の赦しが全世界に宣べ伝えられる」と言われたのです。

 使徒たちは、この教えの通りに宣教しました。ペンテコステの日に、ペテロは「神が定めた計画と神の予知によって引き渡されたこのイエスを、あなたがたは律法を持たない人々の手によって十字架につけて殺したのです。しかし神は、イエスを死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、あり得なかったからです」(使徒2:23-24)と言って、キリストの十字架と復活を語りました。そして、人々が「兄弟たち、私たちはどうしたらよいでしょうか」と尋ねたとき、ペテロはこう言いました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。」(使徒2:38)「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」とキリストが言われた通り、ペテロも「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」と言っています。

 そして、悔い改めてイエス・キリストを信じた人々はバプテスマを受け、教会に加えられ、「パン裂き」つまり、聖餐を守りました。使徒2:41-42に「彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」とある通りです。

 使徒パウロも、同じ福音を語りました。使徒13:38でパウロは「ですから、兄弟たち、あなたがたに知っていただきたい。このイエスを通して罪の赦しが宣べ伝えられているのです」と言っています。聖書にはいたるところに、罪の赦しから来る平安や喜びが書かれていますが、パウロはローマ4:7-8で「幸いなことよ、不法を赦され、罪をおおわれた人たち」というダビデの言葉を引用して、赦しの喜びを説いています。ローマ5:1-5では、赦しから平安が生まれ、平安から希望が生じると言い、「この希望は失望に終わることがない」と言っています。ローマ8:34-39では、「だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。…どんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません」と、赦された者の確信が高らかに宣言されています。

 最初に宣べ伝えられてから今日まで、福音は「イエス・キリストによって罪を赦され、神に立ち返り、聖霊に満たされなさい」と、私たちに語り続けてきました。それは、今日も変わりませんし、今日ほどこのメッセージが必要な時はありません。今こそ、この福音を聞き、キリストがくださる罪の赦しに基づいた、確かな人生と希望を受け取りたいと思います。

 二、教会と罪の赦し

 キリストは、罪の赦しを人々に教え、確信させ、体験させ、実践させる務めを、教会にお与えになりました。罪の赦しは神のもの、キリストのものですが、神は、教会に罪を取扱う力を与え、キリストの赦しを運ぶチャンネルとしてしてくださったのです。そのことを教えているいくつかの聖書の箇所を見てみましょう。

 最初は、マタイ16:19です。「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」ここで「つなぐ」とか「解く」と言われているのは、ヨハネ20:23に「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。赦さずに残すなら、そのまま残ります」とあるように、罪の赦しのことを意味しています。「天の御国」を開く「鍵」とは「罪の赦し」のことで、教会はその鍵を主から預かっているのです。

 マタイ18:17には「それでもなお、言うことを聞き入れないなら、教会に伝えなさい。教会の言うことさえも聞き入れないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい」とあります。これは、教会には信仰者の霊的な罪を取扱い、適切に裁き、また、赦しを与える務めが委ねられていることを教えています。パウロは、信者同士が教会の中で問題を解決できずに、裁判で争うまでになったことを嘆いて「聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか」(コリント第一6:2)と言っています。教会は信徒たちの罪を取扱い、赦しと和解に導く務めを授っているのです。

 ヤコブ5:14-15にこうあります。「あなたがたのうちに病気の人がいれば、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病んでいる人を救います。主はその人を立ち上がらせてくださいます。もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」長老たちの祈りが病気の癒しとともに罪の赦しをももたらすことが書かれています。

 教会にはバプテスマと聖餐がありますが、両方とも「罪の赦し」に深くかかわっています。バプテスマは「罪の赦しのバプテスマ」でと呼ばれています。主は、聖餐をお定めになったとき、「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です」(マタイ26:28)と言っておられます。

 教会の「交わり」は、キリストに赦され、互いに赦し合うことによって成り立っています。「赦し合う」といっても、それは、お互いの罪に目を閉じたり、お互いを誉め合うだけで、教会に何の問題もないように振る舞うということではありません。人を赦すといっても、「私は間違っていない。けれど、私は寛大だから、間違っている人たちを赦してやるのだ」などといった高慢な態度ですることでもありません。真実な信仰者は、真剣に自分の罪と取り組み、悔い改めます。また、真実な教会は、教会全体としても、絶えず悔い改めながら、きよめられることを願います。イエス・キリストの赦しの恵みを信じて行う悔い改めは決して、後ろ向きのものではありません。自分を責めて終わるだけの、重苦しい義務でもありません。それは、神との交わりに、真実にキリストを愛する人々との交わりに導く恵みです。信仰者の特権です。私たちは教会で、「キリストが赦してくださった。だから互いに赦し合う」ということを学び、赦しの喜びを分かちあうのです。

 三、クリスチャンと罪の赦し

 人々に「罪の赦し」をもたらすという務めが、教会に、そして、信仰者に与えられているのは、畏れ多いほどのことです。自分の罪を知る私たちに、いったい、そんなことができるのでしょうか。できるとしたら、どのようにしてなのでしょうか。そのことを考えるために、最初の弟子たちのことを思い起こしてみましょう。

 キリストが天にお帰りになる前の弟子たちといえば、十字架にかかられたキリストを見捨てて逃げ隠れしていた頼りにならない人たちでした。ペテロは三度も「イエスという人など知らない」と言って、主を否定しています。キリストが復活された時も、すぐにはそれを信じなかった、不信仰な人たちでした。後に使徒となったパウロも、かつては、パリサイ派の若きリーダーとして教会を荒らし、クリスチャンを捕まえては牢にとじこめていた乱暴な人でした。なぜ、キリストはそのような人々に福音を託されたのでしょうか。

 それは、罪の赦しの福音は、それを体験した人でなければ証しできないからです。ペテロやパウロが力強くイエス・キリストを宣べ伝えることができたのは、自らが、イエス・キリストによって罪を赦していただいたからでした。キリストが福音を、罪のない天使たちによってでなく、罪の赦し無しには生きていけない、地上の信仰者たちに託したのは、罪の赦しがどんなに大きな恵みであるかを、この世に示すためなのです。

 以前ですが、大阪弟子教会の金沢泰裕先生のお話を聞いたことがあります。先生は、元ヤクザで、山口組系の暴力団員になり、組同士の暴力抗争に巻き込まれ、九死に一生を得、組を抜ける決意をしますが、なかなかうまくいきませんでした。そんなとき、父親が病気で亡くなったことを通して、信仰に導かれました。金沢先生の両親はクリスチャンで金沢先生も、中学生になって不良仲間に入るまでは両親と一緒に教会に行っていたのです。金沢先生は、母親の祈りが自分をクリスチャンにしたと話していました。

 先生は自分の体験から、「僕も人生をやり直せました。誰でも、イエスさまを信じるなら人生をやり直すことができます。決して、もう遅いということはありません」と話してくれました。こうした言葉は、何の失敗も問題もなく、人生の表街道を歩いてきた人が語っても、さして重みはありません。高校に入ったとたんにやめてしまい、暴走族に加わり、少年鑑別所に入れられ、覚醒剤や大麻、野球賭博に溺れるという、いわゆる「落ちこぼれ」であった人、また人生の裏街道を歩いてきた人から語られた言葉だからこそ、重みがあり、真実があり、力があるのです。

 聖人、聖徒と呼ばれる人の多くは、罪深い過去を持っていました。そうした人たちは、それが目に見える形で現れることがなかったとしても、魂の深いところで、自分の罪に苦しみ、格闘してきた人たちでした。アウグスティヌスがそうですし、マルチン・ルターがそうでした。また、マザー・テレサも魂の暗黒の時を過ごしたことが、2007年に彼女の生前の手紙が出版されて明らかになりました。しかし、主はマザーに “Come, be my light.”(わたしの光になれ)と言われました。罪の闇を知る者が、最もよく、神の恵みを示す「光」となることができるのです。神は、罪の赦しを最も必要とする者を、それを証しする者にしてくださっているのです。

 「地の塵に等しかり 何一つ取りえなし 今あるはただ主の 愛に生くる我ぞ 御救いを受けし 罪人に過ぎず されど我人に伝えん 恵み深きイェスを」(聖歌522)私たちも、キリストによって罪を赦された喜びを勇気をもって語り、互いに赦し合いながら生きることによって、その恵みを証ししていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、キリストの恵みなしには、私たちにあるものは、ただ罪だけです。そのような私たちに、あなたは、罪の赦しの福音を聞かせ、その恵みを与えてくださいました。その恵みを確信し、喜び、それを証しする私たちとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/21/2019