いちばん大切な質問

マタイ16:13-16

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16:13 イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。
16:14 彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

 以前、オレゴンのある教会の週報をもらったことがありました。そこにこんな文章がありました。「クリスチャンの信仰にとって最大の敵は、キリストの教えは素晴らしいと言いながら、キリストがすべてのものの主であることを否定する人たちです。アメリカでは、何百万という人が、まさにこの日に、自分たちは熱心なクリスチャンであるが聖書にあるがままのイエス・キリストは信じないと明言しているのです。」この文章が何を言おうとしているかお分かりですか。多くの人は主イエスが愛について、赦しについて、勇気や希望について教えていることは喜んで受け入れるのですが、主イエスがご自分について教えておられること、つまりイエスが神であり、主であるということを、そのまま受け入れようとしないということです。この文章はそうしたことに警告を与えているのです。

 一、主からの問い

 主イエスの教えの素晴らしさについては、今さら言う必要はないでしょう。主イエスが信仰について、愛について、希望について教えたことは、それまで誰も教えたことのなかったものでした。主イエスの言葉はいつの時代にも、世界中の人々に感動を与えてきました。キリスト教に反対する人々でさえ、主イエスの教えの素晴らしさを誉めています。どれだけ多くの文学が、音楽が、芸術作品が、建築物が、主イエスの教えに感化されて作られてきたことでしょうか。主イエスの教えなしにはこの二千年間の文化、政治、社会を語ることはできないでしょう。  しかし、主イエスの「教え」の素晴らしさを認めるだけでは、人は救いにいたることはできません。聖書は究極の救いを「永遠のいのち」という言葉で表わしていますが、永遠のいのちは「教え」そのものの中にはないからです。主イエスはヨハネ5:39で「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである」と言われました。主イエスは、聖書をたんに「教え」や「規則」の本として扱うのではなく、聖書をキリストを証言するものとして読むように言われたのです。聖書によってキリストを見出すのでなければ、「永遠のいのち」を得ることはできないと言っておられるのです。なぜなら、主イエスが真理であり、道であり、いのちだからです。「永遠のいのち」はイエス・キリストにあるからです。

 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)という言葉ほど、多くの人をキリストに導いた言葉はないでしょう。みなさんの中にもこの言葉に導かれて信仰を持った人が多くいると思います。「道」、「真理」、「いのち」。これは人が人として確かな生き方をするために必要なものであり、誰もが求めているものです。

 人は「道」を求めています。ベビーブーマの時代には信仰を持つ年齢が16歳から18歳というのが一番多かったのですが、最近では30歳台が一番多くなっています。その人たちの多くはティーンエージャーのころ「30歳以上の人の言うことは信じるな」と教えられてきました。親や教師の意見など見向きもしませんでした。そして教会から離れた生活をしてきました。しかし、その人たちも結婚し、子どもを持つようになって、自分が子どもに与えるべき確かな指針を持っていないことに気付くようになりました。子どもに何を教えたらいいのか分からず、その悩みを解決するために教会に戻ってきています。この人たちの悩みは「子育て」のように見えますが、じつは「自分育て」なのです。自分自身の人生の確かなガイドラインを求めているのです。ですから、若い両親の多くはたんに「子育て」を援助してくれる教会ではなく、自分たちの霊的な求めに答えてくれる教会に足を運んでいると言われています。若い人たちも、「ハウツー」に答える「方法」ではなく、人生を導く指針、「道」を求めて教会に戻ってきているのです。

 また、人は「真理」を求めています。自分はなぜこの世に生まれてきたのか。何のために生きているのか。死んだらどうなるのかということを知りたいと願っています。「そんなことは分からなくても、今、健康でお金があって、楽しく過ごせればいいじゃないか」と言う人もいるでしょうが、人のたましいは人生の真理を発見するまでは、ほんとうの平安を得ることはできないのです。日本で有名なタレントが、じつはドラッグの常用者で、六日間も逃げ回ったあげく自首したことがありました。この人は人気もあり、収入もあったのに、その心に満たされるものが無かったのです。どんなに人の注目を浴びても、お金があっても、それは人のたましいを満たしません。人のたましいは真理によってしか満たされないのです。真理から離れた人生はむなしいのです。

 さらに、人が求めてやまないのは「いのち」です。何をどのようにしたら良いか分かっていてもそれを行う力がない。それがわたしたちの現状です。日本では「○○力」というのが流行語になり、今もさかんに使われています。「就活力」、「婚活力」などと、今までにはなかった日本語が使われるようになりました。ある政党の選挙ポスターに「日本を守る責任力」などと書いてありました。この言い方にならえば目的と意味のある人生を生きる力は「人生力」とでも言えば良いのでしょうか。こういう言葉が作られるのは、それだけ人々が、自分たちの内面に力がなく、無力を感じているからではないかと思います。「元気」という言葉もよく使われますが、それもまた人々が「元気」を無くしているからかもしれません。「力」や「元気」のみなもとは「いのち」です。「いのち」のない「元気」はゼンマイじかけのおもちゃが動きまわっているようなものです。ゼンマイが伸びきってしまったら、おもちゃが動かなくなるように、「いのち」につながらない「力」や「元気」は一時的なものにすぎません。

 人が求める「道」、「真理」、「いのち」はイエス・キリストにあります。主イエスご自身が道であり、真理であり、いのちなのです。なのに、人々が聖書を学びながら、永遠のいのちにいたる道を発見できないのはなぜでしょうか。それは聖書の主題がイエス・キリストであることを見落としているからです。聖書を読み、主イエスの教えたこと、なさったことを学ぶ人には、当然「いったいこのお方はどなたなのだろう」という疑問が起こってくるはずです。その疑問は、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」という、主イエスの問いかけなのです。せっかく聖書を読みながらそこにキリストを見ていない、教会に来ていながらキリストに出会っていない、クリスチャンと呼ばれながらキリストを知らないとしたら、それほど残念なことはありません。わたしたち皆が、「わたしをだれと言うか」というイエスの問いに正しく答えられる者になりたいと思います。

 二、弟子たちの答え

 それでは、「あなたがたはわたしをだれと言うか」という問いに、主イエスの弟子たちはどう答えたのでしょうか。今朝の箇所から学びましょう。

 主イエスは「あなたがたはわたしをだれと言うか」と質問する前に、「人々は人の子をだれと言っているか」(13節)と質問しました。当時、人々は主イエスをバプテスマのヨハネの生き返りであると信じていました。また、旧約の預言者エリヤの再来であるとも考えていました。また主イエスはよく涙を流されたので、「涙の預言者」と呼ばれたエレミヤのようだとも言っていました。それで、弟子たちは「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」(14節)と答えたのです。「人々は人の子をだれと言っているか」というのは客観的な質問です。これに答えるのにはリサーチをしてその結果を報告すれば良いのです。わたしたちも、聖書を調べ、教会の歴史を調べれば、弟子たちがイエスをどう信じたか、教会がイエス・キリストについてどんな信仰を持っていたかを知ることができます。聖書はどの古代の書物よりも数多くの、正確な写本を持っており、聖書に関する歴史資料には事欠くことがありません。また、聖書はあらゆる学問に影響を与えてきました。それで、聖書は今にいたるまでさまざまな分野の学者たちの研究の対象となってきました。聖書を研究しているのは、クリスチャンばかりではないのです。クリスチャンでない学者たちも、聖書について、信仰について、かなり正確な知識を持っています。しかし、だからと言って、その知識がそのままキリストを信じる信仰にはならないことは、皆さんもよく知っている通りです。イエス・キリストを信じる信仰には、「イエス・キリストについて」何かを知っているだけでなく、「イエス・キリストを」知っていることが必要だからです。つまり、客観的な知識だけではなく、「わたし」と「イエス・キリスト」との関係、「信頼の関係」が、信仰には求められるからです。

 主イエスは「人々は人の子をだれと言っているか」という最初の質問に続いて、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」(15節)という質問を弟子たちに与えました。「人々」がどう言っているかではなく、「あなた」はどう言うのかと、イエスは弟子たちに問われたのです。客観的な知識ではなく、弟子たちの主観を伴った判断を求められたのです。最初の質問には、信仰なしでも答えられますが、この質問には信仰なしには答えられません。主イエスは弟子たちに信仰の告白を求められたのです。

 この質問にペテロは「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えました(16節)。主イエスはこの答えを喜び、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」(17節)とおっしゃってペテロを大いに祝福されました。なぜでしょう。それは、この答えが人を救い、永遠のいのちを与えるからです。ヨハネ20:30-31にこう書かれています。「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。」聖書は、イエス・キリストが誰であるかを教えるため、また、わたしたちがイエスを「神の御子キリスト」であると信じることができるために書かれました。この聖書の主題から離れずに聖書を学びましょう。そして、「わたしをだれと言うか」という、主イエスの質問に答える用意をしていたいと思います。

 「わたしをだれと言うか。」これはイエスがわたしたちになさったいちばん大切な質問です。ひとり残らず「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えて、主イエスの道を歩み、主イエスの真理を学び、そして、主イエスのいのちにあずかる者になりたいと思います。また、「あなたこそ生ける神の子キリストです」との答えは、主イエスを信じたとき、バプテスマのときだけで終わるものではないはずです。誘惑の時、試練の時、困難な時、弱さを覚える時、失望の時、落胆の時こそ、主イエスに向かって、「あなたこそ生ける神の子キリストです」と申し上げましょう。この告白によって、主イエスに信頼し、誘惑に勝ち、試練を耐え、困難を乗り越え、弱さを克服し、失望、落胆から希望へと向かいたいと思います。「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」(第一ヨハネ5:5)この言葉に励まされ、いつ、どんな時も、主イエスの問いかけに信仰をもってお答えしていきましょう。主は、あなたの答えを待っておられます。このいちばん大切な質問への答えを通して、わたしたちの人生にいちばん大切なものを与えてくださるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスは「わたしをだれと言うか」という問うておられます。この問いかけに一同が声をそろえて「あなたこそ生ける神の子キリストです」と答えることのできるわたしたちとしてください。また、主イエスこそが「道であり、真理であり、いのち」であることをみずからが確信し、他の人々にも証しすることができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

7/26/2015