子犬とパンくず

マタイ15:21-28

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15:21 それから、イエスはそこを去って、ツロとシドンの地方に立ちのかれた。
15:22 すると、その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」
15:23 しかし、イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。そこで、弟子たちはみもとに来て、「あの女を帰してやってください。叫びながらあとについて来るのです。」と言ってイエスに願った。
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。

 今年の年間聖句は「主よ。私たちにも祈りを教えてください。」(ルカ11:1)ですが、この五ヶ月、皆さんは、主イエスから、どのように祈りを教えていただいたでしょうか。今までとは違うどんな新しいことを学ぶことができたでしょうか。このように祈りが答えられた。まだ祈りは答えられていないけれど、平安が与えられた。祈りの格闘の中で、神に深く取り扱われたなどの体験をすることができたでしょうか。

 私は今から25年前に読んだ P.T.フォーサイスの『祈りの精神』という本を読み返しています。この本を翻訳された斎藤剛毅先生にお会いしたことがきっかけで、その後何度か読み返し、読み返すたびに大きな励ましを受けてきました。今年、私はこの本から、「粘り強い祈り」ということを学んでいます。フォーサイスはこう言っています。

われわれの祈りは「み心がなりますように」ということばでいつも終わるかもしれない。しかし、そのことばで始める必要はない。キリストが執拗な祈りを強調されたことを記憶すべきである。ねばり強い祈りは毅然とした信仰の回復を助ける。
フォーサイスはこのことばによって、「みこころがなりますように」というのが、心から願い求めることもしないで、最初からあきらめてしまい、「それが与えられなかったのはみこころだったのだ」などと、簡単に悟ってしまうことがあってはならないと言おうとしています。

 ねばり強い祈りは聖書の中に数多くあります。たとえば、ヤコブは兄エサウの復讐を恐れて、ひとりで神に祈り、主の使いと格闘しました。主の使いは「わたしを去らせよ」と言いましたが、ヤコブは「私を祝福してくださるまでは、あなたを去らせません」と言って、神の祝福を願い求めました。ヤコブは生きるか死ぬかのせっぱ詰まった状況にあったので、何がなんでも神の助けを必要としていたのです。それを求めて、ヤコブは一晩中、夜が明けるまで、神にねばり強く訴え続けました。ヤベツもまた「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように」と祈りました。ヤベツは彼が不幸な境遇に生まれたこと、わずかな土地しか相続できなかったことは神のみこころなのだから、それをそのまま受け入れようとは言いませんでした。このヤベツの祈りは、一度限りの祈りではなかったはずです。苦しみの日々の間、何年も何年もねばり強く祈り続け、ついにその答えを得たのです。神が私たちの祈りにすぐには答えてくださらない時でも、それがみこころではないというのでなく、もっと真剣に、熱心に祈り求めるなら、それを与えようとしておられることが多いのです。一、二度祈って答えがなければ「これは神のみこころではないのだ」と考えてしまうのは早すぎます。神は、私たちに、今ある状態を、簡単に「神のみこころなのだ」と受け入れ、あきらめてしまうのでなく、自分が勝手にみこころだと思い込んでいるものに逆らってまでも祈る、ねばり強く、熱心な祈りを求めておられるのです。そして、神はそのような祈りのゆえにご自分の心を動かし、その全能の手を動かしてくださるのです。

 一、ねばり強く祈る

 今朝の聖書の箇所は、そうした「ねばり強い祈り」の素晴らしい実例です。

 この箇所の舞台は、「ツロ」や「シドン」という、イスラエルから遠く離れたところ、外国の土地でした。イエスと弟子たちは、イスラエルでは休む間もなく働いていましたので、時々、イスラエルを離れて、そこで静かな時を過ごしていました。ところが、この外国の地にもイエスの評判は広まっていて、その土地のひとりの女性がやってきては、しつこくイエスと弟子たちを追いかけ回しました。弟子たちはこの女性にほとひと困り果てていました。

 彼女がそれほどまでにイエスと弟子たちのあとを追いかけ回したのは、彼女の娘が悪霊に取りつかれていて、そのいやしを願ったからでした(22節)。悪霊につかれるというのが具体的にどんな状態だったのかわかりませんが、突然奇妙な行動をしたり、気を失ったりということがあったのでしょう。おそらくこの母親は、ツロやシドンの神々に祈ったことでしょう。しかし、聖書が「偶像」と呼んでいる、人間が作りだした神々には、悪霊を追い出す力はありません。もし、偶像に不思議なことができるとしたら、それはその背後にいる悪霊の力です。悪霊は、一時的に病気を直したり、不思議なことができたとしても、決して人から悪霊を追い出すことはできません。主イエスが言われたように、悪霊は悪霊を追い出すことはできないのです。人から悪い霊の影響をとりのぞき、その心をきよめ、人を生かすことができるのは聖霊によってしかできません(マタイ12:25-28)。この母親は、イエスが聖霊の力を持ったお方、聖霊の油そそぎを受けたメシア、つまりキリストであると信じました。「ダビデの子」という呼び名は救い主、メシア、つまりキリストを表わす呼び名でしたから、彼女は「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください」(22)と叫び続けたのです。

 マタイ9:27-31にはふたりの目の見えない人が「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫びながらイエスについていき、イエスに目を開けてもらったことが書かれています。マタイ20:29-34でも同じように「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください」と叫んだ目の見えない人に、イエスは「わたしに何をしてほしいのか」と尋ね、その目に触れて目を開けておられます。イエスは、イエスが救い主、キリストであることを信じ、「ダビデの子よ」と呼ぶ者、「私をあわれんでください」と、へりくだって願い求める者に答えてくださるお方です。

 ところが、同じように願い求めたこの母親の願いにイエスはひとこともお答えになりません。この母親がイエスの前にひれ伏して娘のいやしを願ったときも、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません」(24節)と言ってその願いを斥けました。しかし、この母親はそれで引き下がりませんでした。「しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、『主よ。私をお助けください。』と言った」(25節)と聖書は言っています。よく、「セールスは断られたときから始まる」と言われますが、祈りもまた拒否されたところから始まると言うことができると思います。

 フォーサイスは「祈りは…神の意志に逆らう形をとることができる。神の意志に逆らうことも神の意志にかなう場合がある」と言っていますが、この母親の祈りはまさにそのような祈りでした。主イエスの「ノー」ということばを聞いても、それであきらめることなく、なお求め続けました。私たちも、何度も祈ってもなかなか聞かれないことがあると、神に拒まれているように感じることがありますが、それでもなお、祈り続けたいと思います。新聖歌283では「主よ 主よ 聞き給え 切に呼びまつる わが声に」と歌いました。簡単にあきらめてしまうことなく、この賛美のように、父なる神の胸をたたき続けるような祈りをささげる者でありたいと思います。

 二、へりくだった祈り

 ツロの母親の祈りから学ぶことができる第二のことは、へりくだった祈りということです。

 イエスは自分の前にひれ伏す母親になおも、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです」(26節)と言われました。イエスはイスラエルの人々を「こども」、ツロの人々を「子犬」と呼びました。実際、当時のイスラエルの人々はユダヤ人でない人々を「異邦人」と呼び「異邦人」は偶像を礼拝する者で偶像の汚れを持っていると考えていました。そして、軽蔑の意味を込めて、ユダヤ人でない人々を「犬」と呼んだのです。ヨーロッパやアメリカでは犬はペットとして愛され、家の中で飼われますが、中東では今でも、犬は汚れたものとして、家の外で番犬として飼われていると聞きます。この母親も、イスラエルの人々がツロの人々を「犬」と呼んでいるのを良く知っていたことでしょう。

 けれども、この母親は、このことばにもめげませんでした。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」(27節)とイエスに答えています。この母親は、イエスが、他のユダヤ人と違って、「犬」という言葉ではなく、「子犬」という言葉を使われたことを手がかりに、こう答えたのです。大人になった犬は家の外に出されますが、子犬は家の中に入ってきて、食卓のおこぼれをもらうことがあったのです。この母親は自分が「子犬」と呼ばれてもそれに反発しませんでした。「主よ。そのとおりです。」と、自分を子犬の立場に置いています。なんというへりくだった態度でしょう。

 私たちの祈りもこのような「へりくだった祈り」でありたいと思います。聖書の祈りはどれも「へりくだった祈り」です。「祈る」ということ自体、自分の無力を認めて神の前にひれ伏すことですから、へりくだった行為なのです。ほんとうの祈りはみな「へりくだった祈り」です。祈りは命令でも、要求でもありません。被造物である人間が創造者である神に命令できるわけがありませんし、罪ある人間が聖なる神にどんな要求もすることはできません。人間は「私をあわれんでください」としか言えないのです。聖書に出てくる祈りは、詩篇51篇のダビデの悔い改めの祈りをはじめとして、みな「へりくだった祈り」です。イエスがほめられた祈りはパリサイ人が自分の善行を並べ立てた立派な祈りではなく、取税人の「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」(ルカ18:13)との祈りでした。「キリエ」(主よ)「エレイソン」(あわれんでください)という祈りは、ギリシャ語のまま初代教会の礼拝で祈られました。

 三、信仰の祈り

 第三に、この母親の祈りは信仰の祈りでした。

 彼女は、イエスの足下にひれ伏して祈りました。しかし、その心では、イエスの顔を信仰をもって仰いでいました。子犬が顔をあげ、目を大きく開いて、食卓からのおこぼれを期待するように、彼女はイエスの恵みを信じ、それを待ち望みました。へりくだるというのは、決して自分は駄目な人間ですと言ってしょんぼりしてしまうことではありません。希望を投げ捨てることでもありません。新共同訳では27節は「主よ、ごもっともです。しかし、子犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」と訳されています。信仰は「しかし」の世界です。現状がどんなに八方ふさがりであっても、「しかし」神は私の助け手である。祈りがなかなか聞かれることがなくても、「しかし」神は真実で約束を守ってくださる。私が弱く、信仰も足りなくても、「しかし」神のあわれみは無限で私をお見捨てにならない。信仰は目に見える現状だけでなく、目には見えなくても、目に見えるものよりもっとリアルな神の存在と真実とあわれみに目を留めるのです。

 イエスの表面上の拒否にめげす、また、一見して冷たい態度にもなお、ねばり強く、そしてへりくだって願い求めた母親に、イエスは「ああ、あなたの信仰は立派です。その願いどおりになるように」(28節)と言われました。するとその時、娘から悪霊が出ていき、娘はいやされました。イエスの拒否も、冷たく見えた態度も、この母親から信仰を引き出すためだったことが分かります。イエスが私たちに求めておられるのは求め祈り続ける信仰です。イエスは私たちからそのような信仰を引き出そうとされ、私たちはそのような信仰によってイエスの力を引き出すのです。

 私たちは誰も、さまざまな必要を持っています。そしてそれを満たそうと努力しています。空腹を満たすだけならレストランに行けばよいでしょう。寂しさから逃れるためには人々の集まるところに行けばいいでしょう。しかし、どんなにおいしいものを食べても、どんなに人と楽しく話していても満たされないたましいの空白が人にはあるのです。その空白は神のかたちに造られた人間が持っているもので、まことの神のかたちであるキリストによってしか満たされないのです。

 多くの人がそんな空白を、満たされないものを感じてイエス・キリストのもとにやってきます。しかし、すこし聖書を読んだから、何度か教会に来たからといって、その空白や満たされないものが、インスタントに埋められるとは限りません。神は、私たちに、その空白がどこから来ているのかを知らせようとされます。私たちになおもたましいの飢え渇きを体験させ、生ける神を求めさせようとします。イエスは「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)と招いておられます。しかし、イエスはそれに続いて「あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい」(マタイ11:29)と言われました。「わたしがあなたがたを休ませあげます」だけで終わらず「あなたがたも…」とイエスは言われます。主イエスが「わたしが…」と言われたあと「あなたがたも…」と言われたように、主イエスの約束を受け取るためには、私たちの側でもしなければならないことがあるのです。そして、その中で第一のことが、信じて祈り求め続けることです。

 イエスのもとに来る人は多くあります。しかし、去って行く人も少なからずいます。マタイ19:16-22には、永遠のいのちを求めてイエスのもとに来た青年が、イエスから与えられた信仰のチャレンジに答えることがないままにイエスのもとから去って行ったことが書かれています。イエスのもとに来たなら、イエスのもとにとどまりましょう。そこから去らないでください。ねばり強い祈りで、へりくだった祈りで、信仰の祈りで、イエスにしがみつき、私たちのたましいを生かし、満たす確かな救いを、イエスから受け取ろうではありませんか。イエスは信仰をもって求める者に「パンくず」以上のもの、「いのちのパン」、イエス・キリストご自身を豊かに分け与えてくださるのす。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエスによって、私たちにねばり強い祈り、へりくだった祈り、信仰の祈りを教えてくださいました。私たちに、そうした祈りをなお学ばせてください。それを日々の生活の中で実践できるよう助けてください。あなたのもとに来る人々が、あきらめることなく、ねばり強く求めて、ほんとうの救いにいたることができますよう導いてください。また、祈りの格闘を経験している人々が、くじけることなく、祈り求め続けることができるように助けを与えてください。主イエスのお名前で祈ります。

6/6/2010