百倍の実

マタイ13:18-23

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13:18 ですから、種蒔きのたとえを聞きなさい。
13:19 御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。
13:20 また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
13:21 しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
13:22 また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
13:23 ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」

 キャンベルのユニオンどおりに遠藤さんというお百姓さんがいました。遠藤さんは、サヤエンドウの種を蒔くことになりました。

(遠藤さん)「雨が降って、ずいぶん、土もやわらかくなって、豆太郎、豆次郎、豆三郎、豆子たちもそろそろ旅立つころになったなあ。さあ、豆太郎、豆次郎、豆三郎、豆子、サヤエンドウの殻から出て、良い地へ行って、百倍、六十倍、三十倍に実を増やしておいで!そして実を増やしたら、また帰ってくるんだよ。途中で道草しちゃだめだよ。ちゃんと良い畑まで行くんだよ。石ころだらけのところや、茨のところも行っちゃだめだよ。さあ、行ってらっしゃい。」

(豆たち)「ハーイ。行ってきます。」

(遠藤さん)「みんな元気で出ていったけど、大丈夫かなあ。ちゃんと良い畑まで行ったかなあ。途中で道草を食っていないかなあ。おや、あれは、豆三郎じゃないか。豆三郎、もう帰ってきたのかい。」

(豆三郎)「エーン。エーン。」(と、泣く。)

(遠藤さん)「豆三郎、どうしたんだい。いったい何があったんだい。」

(豆三郎)「ぼくね、じつは良い地までいかなかったんだ。」

(遠藤さん)「やっぱりね。どこで道草を食っていたのかね。」

(豆三郎)「キャンベル・ストリートだよ。プルーンヤードにお店がいっぱいあって、見ていたら、カラスがやってきてね…」

(遠藤さん)「パクリとのみこまれちゃったというわけだね。でもよくここに帰ってきたね。ははーん。カラスのウンチの中から逃げてきたんだね。」

(豆三郎)「でも、ちゃんとロスガトス・クリークで洗ってきたら、きれいになったよ。」

(遠藤さん)「それは、それは、大変だったね。豆三郎くん。」

(豆三郎)「あっ、豆次郎のお兄ちゃんも帰ってきたよ。」

(遠藤さん)「ほんとうだ。豆次郎、どうしたんだい。」

(豆次郎)「ぼく、良い地まで行こうとしたんだよ。でも、途中でね、石ころのいっぱいあるところで一休みしていたんだ。そうしたら、芽が出てきたんだけど、根が出てこなくって、太陽がギラギラして、もうすっかり脱水症状になってしまって…」

(遠藤さん)「でも、よく帰ってこれたね。さあ、水をたくさん飲んで、体を休めなさい。」

(豆三郎)「豆次郎のお兄ちゃんも、良い地まで行かなかったんだね。でも、豆太郎のお兄ちゃんなら、きっと良い地まで行ったよ。」

(遠藤さん)「そうだといいけどね。おや、『噂をすれば影』とやら、豆太郎も帰ってきたよ。おーい、豆太郎、どうしたんだい、からだ中、傷だらけじゃないか。」

(豆太郎)「遠藤さーん。ごめんなさい。ぼく、行っちゃあいけないって言われていた茨のいっぱいあるところに行ってしまって…」

(遠藤さん)「そうか。それでさんざん茨にやられしまったんだね。それは痛かっただろう。さあ、早く手当てをしなさい。豆三郎、手伝ってやりなさい。」

(遠藤さん)「豆三郎は道端に、豆次郎は石ころだらけのところに、豆太郎は茨の中に行ってしまって、実を結べなかった。残念だなあ。でも、豆子がまだいる。豆子が良い畑まで行ってくれるといいんだが…。」

(豆子)「遠藤さーん。わたし、帰ってきましたよ。良い畑に行ったら、ほら、見て。百倍も実を結ぶことができましたよ。」

(遠藤さん)「豆子ちゃん、良い畑まで行けて良かったね。(ふりかえって)おーい、豆太郎、豆次郎、豆三郎。豆子ちゃんが帰ってきたぞ。」

(豆太郎)「豆子ちゃん、すごいね。百倍にも実をふやしたんだね。」

(豆子)「そうよ、みんなも、良い地へ行けば、百倍、六十倍、三十倍に実をふやすことができるわよ。」

(豆次郎)「ぼく、もういちど頑張って良い畑まで行くよ。」

(豆三郎)「ぼくも。」

(豆太郎)「さあ、みんなで行こう。」

(豆子)「行ってらっしゃい。たくさん実をふやしてきてね。」

 さあ、みなさん、サヤエンドウの豆三郎くん、豆次郎くん、豆太郎くん、豆子ちゃんは何を表しているかわかりますか。それは、神さまのことばです。神さまはいつも私たちに語りかけてくださっています。私たちは神さまのおことばを聞いて、神さまによろこばれる良いことをすることができます。

 でも、神さまのことばを聞いても、こころに受けとめなかったら、どうなるでしょうか。イエスさまは言われました。「御国のことばを聞いても悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪って行きます。道ばたに蒔かれるとは、このような人のことです。」せっかく聞いた神さまのことばが取り去られてしまって、なくなってしまうのです。

 神さまのことばを、最初は喜んで聞いても、それをしっかり守らなければどうなるでしょうか。神さまのことばによって、救われることがないのです。イエスさまは言われました。「また岩地に蒔かれるとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。しかし、自分のうちに根がないため、しばらくの間そうするだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」

 では、神さまのことばを聞いても、他のおもしろいことに夢中になって神さまのことばを忘れてしまったらどうなるでしょうか。また、いろんなことをくよくよ心配して、神さまのことばを信じなかったらどうなるでしょうか。イエスさまは言われました。「また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。」

 みなさんの心は、「神さまのことばなんか聞くものか」という道端のように固い心でしょうか。それとも、聞いた神さまのことばをすぐ忘れてしまう、石ころだらけの土地のように浅い心でしょうか。あるいは、神さまのことばよりも、もっと楽しいこと、自分がやりたいこと、または、心配ごとのほうに心が向いていて、神さまのことばを駄目にしてしまう茨が心に一杯あるのでしょうか。柔らかいこころで神さまのことばを聞き、信じ、守っている、良い地のようでありたいですね。イエスさまは言われました。「ところが、良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いてそれを悟る人のことで、その人はほんとうに実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。」みなさんはまだちいさいかもしれませんが、今から神さまのことばをしっかりと聞いて、信じて、従うなら、百倍の実を結ぶ人になることができます。みんながたくさんの実を結ぶことができるよう、願っています。

 (祈り)

天のお父さま。私たちに、あなたのことば、聖書をくださって感謝します。神さまのことば聖書をもっとたくさん教会で学ぶことができますよう、助けてください。学んだ神さまのことばを良いこころで聞いて、信じ、従い、たくさんの実を結ぶことができますよう、お助けください。イエスさまのお名前によって祈ります。

11/1/2009