神の家族

マタイ12:46-50

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12:46 イエスがまだ群衆に話しておられるときに、イエスの母と兄弟たちが、イエスに何か話そうとして、外に立っていた。
12:47 すると、だれかが言った。「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています。」
12:48 しかし、イエスはそう言っている人に答えて言われた。「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。」
12:49 それから、イエスは手を弟子たちのほうに差し伸べて言われた。「見なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。
12:50 天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」

 ある韓国の俳優が、自分のファンのことを「家族の皆さん」と呼んで、人々をとりこにしたことがありました。「家族」、「ファミリー」という言葉にはとても温かみがあります。会社や団体、地域やさまざまなつながりが、どうかすれば、効率だけを求めて機械的なものになっている時代ですから、人々はなおのこと家族的な温かさに憧れ、それを求めるのです。自分の家庭に温かさのない人は、擬似家族(バーチャル・ファミリー)にそれを求めます。「家族の皆さん、愛しています」などということばが、セールス・トークであることを知っていても、そうした甘いことばに惹かれて、日本のどこにでも、また外国までも、スターを追いかけていくのです。

 聖書では、教会は「神の家族」と呼ばれています(エペソ2:19)。「家族のようなもの」というのでなく、ほんとうに家族なのです。父なる神のもとに、神の子どもたちが集まるところ、それが教会です。神の家族としての教会、ここで、私たちは養われ、いやされ、力づけられます。この神の家族はどのようにしてはじまり、どのようにして成長し、どのようにしてひろがっていくのでしょうか。今朝はそのことを学んでみたいと思います。

 一、神の家族の始まり

 イエスが、あるところで教えておられると、たちまちその家は人で一杯になりました。そこに母マリヤと兄弟たちが、イエスを訪ねてきました。大勢の人のため、イエスに近づくことができませんでした。それに気付いた人が「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、あなたに話そうとして外に立っています」と言って、イエスに注意を促しました。少し、教えを中断して、お母さんに会いに行かれたらと、気を利かしたわけです。ところがイエスは、母と兄弟が来ていると聞いても、教えを中断する気配がありませんでした。むしろ、「わたしの母とはだれですか。また、わたしの兄弟たちとはだれですか。…見なさい。(あなたがたが)わたしの母、わたしの兄弟たちです。天におられるわたしの父のみこころを行なう者はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」と仰って、教えを続けられました。

 母マリヤがイエスを訪ねてきた時、おそらく、人々は、「イエスのお母さんが来ているって?それはすごい、私たちもお目にかかりたいものだ。」と思ったことでしょう。イエスは当時の有名人になっていましたから、有名人の母親なら会ってみたいと思うのは、昔の人も、今の人も変わらなかったことでしょう。母マリヤは初代教会で「信仰の母」として慕われ、後に「神の母」という称号を与えられるようになるのですが、イエスが地上におられた時でさえ、人々は「あなたを産んだ腹、あなたがすった乳房は幸いです。」(ルカ11:27)と言って、母マリヤは特別に尊敬されていました。しかし、イエスは、そのときも「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」(ルカ11:28)と言っておられます。イエスは、神のことばを聞く人々を自分の家族と呼んで肉親の家族よりも大切にされました。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです」(ローマ10:17)と聖書にありますが、神のことばをともに聞くところから、神の家族もはじまるのです。

 身内や家族がうまくいっているので、自分たちには、神の家族はいらないし、さして大切なものではないと言う人もありますが、はたして、そうでしょうか。親子の愛、肉親のつながりというものは、強いものです。しかし、そこに、神の愛が加えられなければ、親が子を虐待し、子が親を殺すなどという恐ろしいことが起こらないともかぎりません。いや、現代はそんなことが実際に起こっているではありませんか。「骨肉の争い」という言葉があるように、肉親の間で憎みあうという悲劇も生まれるのです。肉親のつながりにほんとうの愛がやどるためには、神の愛を知り、神の家族のまじわりの中に加えられる必要があります。イエスの兄弟たちは、最初、イエスを信じようとはせず、イエスに対してとても批判的でした。しかし、イエスの復活の後、イエスの兄弟たちもイエスを信じ、教会に加えられています。使徒1:14に「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。」とある通りです。イエスは一見して自分の親族に冷たい態度をとっておられるように見えますが、それはご自分の親族を神の家族の中に導き入れるためだったのです。

 イエスの親族のひとりヤコブは、後に、エルサレム教会の指導者となりました。「ヤコブの手紙」を書いた人です。ヤコブはその中で、自分がイエスの親族であるということにはひとことも触れていません。むしろ、自分を「神と主イエス・キリストとのしもべであるヤコブ」と呼んでいます。そして、信仰をともにする他のクリスチャンたちに対して「兄弟たち」と呼びかけています。ヤコブは、イエスと同じように、血縁や地縁といった地上の小さな家族ではなく、信仰によって結ばれた天の家族に目を向けていました。

 たとえあなたが、多くの親族を持ち、数多くの友人に囲まれていたとしても、そのことが祝福となるために、神の恵みが必要です。地上の関係は永遠の世界には持っていくことができないからです。仲違いをしていた親子や夫婦、兄弟や姉妹が、神のことばによって互いに和解し、ともに神の家族のまじわりの中に加えられ、愛し合う関係に変えられていったという話は、いたるところで耳にすることですし、皆さん自身が体験しておられることだと思います。この神の家族のまじわりの中で、それぞれの家族のまじわりが愛のあるものへと変えられていきます。たとえ、あなたが身寄りのない身の上であったとしても、孤独な中にいても、主が私たちを「あなたはわたしの母、わたしの兄弟」と語りかけ、永遠につながる神の家族の中で支え、導いてくださるのです。

 二、神の家族の成長

 神の家族は、みことばによって始まります。ペテロ第一1:23に「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」とあります。神の家族は、神の子どもたちの集まりですが、神の子どもとは、神のことばを聞き、それによってキリストを信じ、聖霊によって新しく生まれた者のことです。神のことばにより、キリストを信じる信仰により、聖霊により新しく生まれることを「新生」と言います。「新生・聖化・神癒・栄化(再臨)」の「新生」です。新しく生まれた赤ちゃんも「新生児」と呼ばれますが、すべての信仰者はほんとうに生まれ変わりを体験した「新生児」でなければなりませんし、生まれ変わったとはいえ、これから養われ、育てられ、成長していかなればならない、「生まれたばかりの乳飲み子」でもあるのです。

 生まれたばかりの赤ちゃんにミルクが必要なように、神の子どもされた者にもみことばが必要です。ペテロ第一2:2に「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」とあります。みことばの種によって神の子どもとされた者はみことばのミルクによって養われるのです。そして信仰者がみことばで養われるところが教会なのです。誰も生まれたばかりの赤ちゃんを放っておく人はいません。赤ちゃんは家庭に迎え入れられ、養われ、育てられます。そのように、キリスト者は、神の家族である教会の中で成長していき、神の家族自体もまた、みことばによって養われていきます。

 家族はまた、愛のうちに育てられていきます。会社は利益でつながり、団体は特定の興味でつながっているのかもしれませんが、家族は愛でつながっています。会社や団体は、そこを離れればそれで関係が絶たれてしまいますが、家族は、それぞれ住むところが違っても、つながりを保ち続けます。家族の間ではお互いが、お互いを気遣います。そこには「泣く者とともに泣き、喜ぶ者とともに喜ぶ」まじわりがあります。家族には愛が必要ですが、ほんとうの愛もまた、みことば、真理のみことばから来るのです。ペテロ第一1:22に「あなたがたは、真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、互いに心から熱く愛し合いなさい。」とあります。ここで「真理に従う」と言われているのは、みことばを聞いて信じる、信じて従うことです。真理の上に信仰があり、信仰から愛が生まれるのです。真理のない愛は偽物の愛ですし、愛のない真理も本物ではありません。神は、信じる者の心にきよめられた愛、嘘、偽りのない真実な愛の種を神の子どもたちの心に植え付けてくださいました。私たちと神との関係は、神に愛され、神を愛する愛の関係です。確かに信仰者の国籍は天にあり、その戸籍には、信じる者の父が神であり、信じる者はその子であると記されています。しかし、神と私たちとの父・子の関係は戸籍上の関係だけであってはならないのです。そこに生きた愛のまじわりがなくてはならないのです。神の家族も同じです。ひとりびとりが、与えられた愛を育てていくことによって、神の家族のまじわりはほんとうのまじわりになっていくのです。

 自分が愛されることだけを求めるとき、「愛」はときにわがままとすりかえられることがあります。神の家族の中では、家族のそれぞれに当然果たすべき責任がありますし、家族のルールというものもあります。誰も忠告を与えてくれなくても、家族だからと、叱ってくれることがあります。神の家族である教会では牧師は父親のような役割を果たします。それで、牧師は父親としてときには信徒に厳しいことを語らなければならないことがあります。けれどもそれは真実な愛から出たものなので、信徒は牧師に信頼し、従います。その教会の牧師と信徒の関係は、その教会のあり方をすべて物語っていると思います。牧師と信徒の間にときには厳しくても、温かいまじわりがある教会は、互いに戒めあい、愛し合うことのできる健全な神の家族です。

 三、神の家族の拡大

 さて、この神の家族がひろがっていくためには、何が必要なのでしょうか。それは「開かれたまじわり」です。

 神の家族のまじわりというのは、教会の中に親族が数多くいて仲良くしているとか、同じ学校の出身者や同郷の人がいて楽しく過ごしているなどということではありません。私は、カリフォルニアに来てはじめて「広島県人会」や「鹿児島県人会」、「沖縄県人会」などがあるのを見て、すごいなあと思いました。日本では、自分がどの県の出身かということはほとんど意識することがありませんでしたから、日本を離れると、同郷の人々が恋しくなるのかなぁと思いました。同郷の人々が助け合うのは麗しいことですが、神の家族は、同郷人の集まりのようなものではありません。派遣社員の方、定住の人、国際結婚をしておられる方には、それぞれに、共通したものがあり、同じ境遇の人々が集まるのは、必要なことでしょう。しかし、同じ境遇の人しか寄せつけないというのは、神の家族のまじわりではありません。神の家族のまじわりはもっと開かれたものです。

 私がまだ神学生のころ奉仕をしていた教会でのことです。その教会では、そのころの日本では珍しく、お互いをファースト・ネームで呼びあっていました。ところが、礼拝後、すぐに教会員同士でかたまってしまい、新しく見えた方がいても、声をかける人もなかったのです。もちろん、このことは、後になって改善されましたが、最初、私はとても気になったのを覚えています。教会の兄弟姉妹が仲が良いのは決して悪いことではありません。しかし、それが、外に対して開かれたものでないなら、神の家族のまじわりとしては健全ではありません。ある教会の指導者は「成長している教会は、新しい人にまじわりの手を差しのばす教会だが、成長しない教会は、教会員が自分たちだけでまじわっている教会である」と言っています。

 心臓や腎臓などの移植技術が進んできましたが、移植の時に起こる拒絶反応が、いまだに乗り越えられない壁になっています。私たちのからだには自分のものではないものが入ってきたときそれを拒絶するメカニズムが備わっています。そうでないと、どんな病原菌でも自分の中に取り入れてすぐに病気になってしまうからです。教会にも、正しい教えと間違った教えとを区別し、正しいものを受け入れ、間違ったものをしりぞける健全なメカニズムが必要です。しかし、互いに慣れ親しんだ人たち、自分たちと似た特定の人たちは受け入れるが、そうでない人にはたちまち拒否反応を起こすというのでは、教会のまじわりは成長しません。教会はキリストのからだで、お互いはからだの器官なのですが、拒否反応が強すぎて、どんな新しい器官も受け付けないということでは、キリストのからだは建てあげられていかないのです。

 私は、神の家族のまじわりが「内輪」のまま終わらないようにと願っています。この頃は、もう使わなくなりましたが、ぱたぱたとあおいで風を起こす道具を「うちわ」と言いますね。「うちわ」というのは、たいていは、自分のほうに風を送り、自分を涼しくさせるのです。ところが、扇風機は、周りに向かって風を送り出します。私のこどものころ、「首振り扇風機」というものができて、風を一方向だけでなく、四方に送ることができるものが現れました。こどもの頃の私は、どうして首を振るんだろうと、不思議に思い、自分も首を振りながら、それを長いこと眺めていた思い出があります。「内輪」のまじわりというのは、「うちわ」で自分にむかって風を送るようなものです。そこでは、自分が居心地良く居られることが第一になっています。「扇風機」のまじわりというのは、神の家族とされた喜びをまわりに送り出すまじわりです。「うちわ」でなく、「扇風機」のまじわりが広がっていきますよう、心から祈ります。

 聖書は、神を「天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父」(エペソ3:15)と呼んでいます。神が「父」と呼ばれるのは、たんなる称号ではありません。実際に家族を持ち、家族を愛し、家族のために働いておられるので、そう呼ばれるのです。「神の家族」、それは、きっと立派な人々だけがそこに加えられるところだと、多くの人は考えているかもしれません。しかし、聖なる神は、神に背を向け、神から遠く離れて生きてきた者たちを、あえて神の家族の中に招き入れてくださいました。キリストは「あなたがたは神の家族なのだ」と、この父の愛を確認してくださるのです。

 人々がみことばを聞こうとイエスのまわりに集まったように、私たちもみことばを聞こうと牧師を中心として集まります。イエスがみことばを聞くために集まった人々に、「わたしの母、わたしの兄弟」と呼びかけてくださったように、私たちも礼拝の中でみことばに聞くとき、神の家族とされている喜びを感じ取るのです。みことばに聞く、みことばに聞きあう、そんな礼拝がここにあることをうれしく思います。そこにこそ、真実な神の家族のまじわりが生まれ、育ちます。このまじわりの中に導かれた私たちは、大きな感謝とともに、「私たちは、神の家族です。」と応答しましょう。そして、この神の家族のまじわりが神のことばによって養われていくため、みことばのために働いている牧師を支え、牧師のため祈りましょう。神の家族を必要としている人々に手をさしのべ、そうした人々を温かく迎え入れ、神の家族を育てていきましょう。

 (祈り)

 天でも地でも家族と呼ばれるすべてのものの父なる神さま、私たちは、あなたから遠く離れた者、あなたの敵であったような者ですのに、あなたは私たちの罪を、イエス・キリストの十字架によって赦し、イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちを神の家族としてくださいました。この、あなたの大きな愛を、新しい年のはじめに覚えることができ、ありがとうございます。神の家族のまじわりの中にとどまり、あなたの愛をさらに豊かに体験することのできる私たちとしてください。さらに多くの人々を、この神の交わりに招くことができますよう、私たちを導いてください。愛する主、イエス・キリストのお名前によって祈ります。

1/23/2011