キリストの弟子となる

マタイ11:28-30

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11:28 すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
11:29 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。

 一、Great Commandment

 わたしたちはひとり残らず、意味と目的をもって神に造られました。「人生に意味や目的などない」と言う人もいるでしょう。しかし、人は、意味や目的なしには生きられません。そう言う人であっても、いつか、どこかで人生の意味や目的を自分なりに設定しながら生きているのです。けれども自分で設定したものは、確かなものではないので、立ててはこわし、こわしては立て、右に曲がり、左にぶれる、不安定なものになってしまいます。

 人生の意味や目的は、自分で作り出すものではなく、神から与えられるものです。そして、それは、聖書の中に明らかに示され、誰でも聖書に尋ねさえすれば、それを見い出すことができます。難行苦行の末にやっと分かるようなものではありません。もし、そうなら、ほどんどの人は人生の意味や目的を見いだせないまま生涯を終えてしまうことでしょう。人生の最後の瞬間にそれを悟ったとしても、もう遅いのです。若い日のうちに人生の意味を知り、その目的にそって生きることができてはじめて、人生の終わりに満足を得ることができるのではないでしょうか。

 人生の意味と目的に関して、聖書には、はっきりとした言葉があります。それは“Great Commandment” と呼ばれています。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。』これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。』これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。」(マタイ22:37-40)

 ここで命じられている「愛」には順序があります。イエスは「神への愛」を「第一」とされ、「隣り人への愛」を「第二」とされました。「神への愛」と「隣り人への愛」は結びついていて、決して、切り離すことはできません。しかし、「神への愛」は「隣り人への愛」に勝るものでなければなりません。なぜなら、神の愛は人の愛に勝るからです。それは聖なる愛、次元の異なる愛だからです。

 このことが理解されていないと、神への愛と人への愛とが混同され、神への愛が第一のものでなくなってしまいます。そして、「神への愛」が第一のものでなくなるとき、第二のもの、「隣り人への愛」も、そのよりどころを無くしてしまうのです。

 罪あるわたしたちの愛は、そのままでは、ほとんどが自己愛で成り立っています。人に良くすることがあったとしても、それは自分が好む人に対してであり、自分に益となって返ってくるかどうかという計算がどこかで働いていますし、自分を満足させるものであることが多いのです。神が求めておられる純粋な愛ではないのです。そんなわたしたちが本物の愛に生きるには、聖霊によって神の愛を内面に注いでいただくほかはありません。ローマ5:5に「わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とあるとおりです。

 この、聖霊が注いでくださる愛とは、どんな愛でしょうか。ローマ5:8にこうあります。「しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。」それは、キリストがわたしのために死んでくださったほどの愛です。この愛で愛されていることが分かるなら、わたしたちは神を愛さないではおれなくなるのです。

 フードバンク、被災者への援助、さまざまなアディクションに苦しむ人たちのためのセルフヘルプ・グループなど、「隣り人への愛」の実践は「神への愛」に燃えている人々によってなされています。わたしの知っている教会では、ベーキングや手芸のグループがありますが、そこで作ったものを家に閉じこもっている高齢の方々への訪問に使っています。また別の教会では、毎年、9月ごろから手芸をはじめ、作ったものを持って、老人ホームなどでのクリスマスのキャロリングに出かけます。神への愛のゆえに、隣り人への愛が実践されているのです。

 神を愛して生きた人生ほど満ち足りた人生はありません。神の愛のゆえに隣り人を愛して生きた人生ほど意味深いものはありません。神に愛され、神を愛することの中に人生の意味を見出す人は幸いだと思います。

 二、Great Commission

 この神への愛、隣り人への愛にもとづいて、また、その愛を実践するために、わたしたちには、Great Commission と呼ばれている、使命が与えられています。それはマタイ28:18-20にあります。主イエスはこう言われました。「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」

 わたしたちはどのような使命を授かったのでしょう。わたしたちの多くは、こう言うでしょう。「“Great Commission” というのは、要するに“伝道しなさい” ってことでしょう。わたしたちはいろいろな集りや行事をして、教会に人が来るようにしていますよ。」しかし、“Great Commission” は、集会や行事、また、教会のいろいろな活動のことを語ってはいません。イエスは、実際のところ、何を、わたしたちに託しておられるのでしょうか。もういちど、イエスの言葉を読み返してみましょう。

 「それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。」この文章の中心の命令は「弟子とせよ」です。「行って」、「弟子とし」、「バプテスマを施し」、「教える」という四つのことが命じられているようですが、じつは、原文では、「行って」、「バプテスマを施し」、「教える」というのは分詞の形で書かれていています。主動詞は「弟子とせよ」です。「行って」、「バプテスマを施し」、「教える」というのは、人々を弟子とするための方法を言っているのです。

 このことから、イエスがわたしたちに託された使命は、宗教としてのキリスト教を広めることや教会を宣伝すること以上のものであることが分かります。それは、キリスト教に好感を持つ人を増やすということではなく、キリストに忠実に従うキリストの弟子を生み出し、育てるということなのです。

 パン屋はパンを作り、靴屋は靴を作ります。では教会は何を作るのでしょう。「キリストの弟子」です。人々に福音を語り、信仰とバプテスマに導き、バプテスマを受けた者がさらに主イエスに学び、従うようになる、それが「弟子を作る」ということです。人が多く集まる教会、活動の盛んな教会が、かならずしも、キリストの使命に生きている教会とは限りません。キリストの弟子がつぎつぎに生み出される教会、それが“Great Commission” を実践している教会であるといえるでしょう。

 これは、担うのに重い使命であり、達成するのに難しいゴールです。しかし、だからといって、これを水増ししたり、別のものと置き換えたりすることは許されていません。そんなことをしたら、教会は教会でなくなります。それだけではなく、教会をとうしてキリストの弟子となるはずの多くの人が失われてしまうのです。それがどんなに困難な使命であり、ゴールであったとしても、そこに向かって努力し、向上を目指していくこと、それが、キリストからいただいた使命に生きるということなのです。

 三、Great Invitation

 では、わたしたちは、どうしたら、キリストの弟子を生み出す者になることができるのでしょうか。それには、まず、わたしたち自身がキリストの弟子になる必要があります。まだ、バプテスマを受けていない人から、「自分のこどもにバプテスマを受けさせたいのですか…」と相談されることがあります。そんなときわたしは、「それは、とてもよい願いですね。そのためには、まず、あなたがバプテスマを受けてください」と答えます。バプテスマを受けたこどもを導くのは親の責任です。こどもが小さいときはとくにそうです。家庭でいっしょに聖書を学び、祈り、賛美するのに、親がバプテスマを受けていなくて、どうしてそのことができるでしょうか。教会に来て、イエス・キリストの素晴らしさに触れると、他の人にも勧めたくなるのは自然なことです。しかし、その人自身がバプテスマを受け、聖書を学び、キリストの弟子となるなら、どんなにか力をもって他の人に信仰を勧めることができるかわかりません。わたしたちは、自らがキリストの弟子となることによって、他の人がキリストの弟子となるのを助けることができるのです。

 きょうの聖書箇所は、キリストの弟子になるようにとの招きの言葉です。きょうは、“Great Commandment” と“Great Commission”を引用しました。マタイ11:28-30も“Great” という言葉をつけて、“Great Invitation” と呼んでよいでしょう。

 キリストの弟子になるとは、キリストのもとに来ることです。そこに罪の重荷を下ろすことから始まります。ある人が「人類最大の重荷は罪である」と言っていますが、わたしたちはみな罪の重荷にあえいでいます。主イエスは、そんなわたしたちに「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」と言っておられます。主は、どうしてそう言うことができたのでしょうか。それは、イエス・キリストが、あの十字架の上で、わたしたちの罪の重荷を、すべて引き受けてくださったからです。

 では、いちどイエスのもとに来たら、あとは、もう来なくてよいのでしょうか。そうではありません。罪の重荷を下ろし自由になり、罪を赦され平安を得た、わたしたちですが、世に生きるかぎりは、罪との戦いは続きますし、人生の旅路には雨も風もあります。勝利や平安は、主イエスにあるのですから、わたしたちは何度でも主のもとに来るのです。いいえ、主のもとに留まり、主と共に歩むのです。

 イエスはこのことを「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」という言葉で表わされました。わたしたちは、罪の重荷を主におまかせしました。もう、その重荷を背負い込む必要はありません。しかし、何も背負わないのではありません。重荷にかえてイエスの「くびき」を背負うのです。「くびき」というのは、二頭の動物を繋ぐもので、そこに鋤などをつけて畑を耕すのに使います。これは、わたしたちがイエスから別の重荷を負わせられるということではありません。むしろ、わたしたちが、ほんとうは、ひとりで負わなければならないものを、主がともに背負ってくださるということなのです。

 力の弱い牛が一頭で広い畑を耕さなければならないとしたら、その牛はたちまち疲れてしまいます。しかし、力の強い牛と「くびき」で繋がれ、いっしょに畑を耕すとしたらどうでしょうか。力の弱い牛も、あまり疲れずに、その日の務めを果たすことができます。イエスは、わたしたちがひとりで背負いきれないものを、わたしたちと共に背負うことによって、わたしたちを支えてくださるのです。罪の重荷を取り去っていただいたわたしたちが“Great Commission” という使命に生きるようになったことを意味しています。しかも、この使命を果たすにも、ひとりでするのではありません。「くびき」のもう一方はイエスが負ってくださるのです。イエスの「くびき」を負うというのは、イエスから何かを背負わせられることではなく、わたしが背負うべきものをイエスに背負っていただくことなのです。

 イエスは「わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい」と言われました。じつは、この「学ぶ」という言葉から「弟子」という言葉が生まれました。ですから、「弟子」には、「学ぶ者」という意味があります。この世の「くびき」から解放され、こんどはイエスとともに、与えられた使命に生きる。それが、「弟子となる」ことなのです。そのように、自らが弟子となることに励むとき、わたしたちは、他の人をキリストに導き、もうひとりの弟子を生み出すことができる者になることができるのです。

 弟子となる道、そこには信仰と訓練が必要です。しかし、それは、特別な人にしかできないようなものではありません。イエスが共にその道を歩んでくださいます。イエスがその使命を果たす力を与えてくださいます。イエスが「そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう」と約束されたように、イエスに学ぶ道、キリストの弟子となる道は、わたしたちの魂を生かす道なのです。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスはわたしたちに、「すべての国民を弟子とする」という使命を与えてくださいました。しかし、同時に、主は、わたしたちと「くびき」を共にして、この使命を担ってくださると約束してくださいした。どうぞ、わたしたちをキリストの弟子とし、この使命をわたしたちの人生の目的としてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/23/2018