主の証人たち

マタイ10:27-28

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10:27 わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

 日本では、クリスチャンの数が1パーセント、100人にひとりだと言われています。そして、そのパーセンテージはいっこうに増えません。なぜでしょう。そのことに関してさまざまな意見があり、多くのリサーチがなされてきました。キリスト教は日本人には合わないのだという意見もあります。しかし、歴史を調べてみると、戦国時代に、日本に、はじめて宣教師がやってきたとき、多くの人々がクリスチャンになったという事実があります。領主がクリスチャンになったので、集団改宗で、多くのクリスチャンが生まれたということもあったでしょう。しかし、ほとんどの人々は殉教も辞さない確かな信仰を持っていました。キリスト教は日本人にはなじまないし、日本人は本当の意味でクリスチャンになれなとは言えないと思います。

 きょうは日本の宣教の歴史を短く紹介します。そこから、わたしたちの信仰について、人々にキリストを証しするわたしたちの役割について学びたいと思います。

 一、キリシタン時代の殉教者

 日本にはじめて到着した宣教師はローマ・カトリック・イエズス会のフランシスコ・ザビエルでした。ザビエルは1541年4月7日、彼の35歳の誕生日に、ポルトガルのリスボンからインドのゴアに向けて出発しました。アフリカの喜望峰をまわる船旅で、翌年5月6日、一年以上かかってゴアに到着しています。インドで宣教した後、今日のマレーシアやインドネシアの島々でも伝道しました。ザビエルは1547年12月にマレーシアのマラッカでひとりの日本人に会いました。ヤジローという人です。ザビエルは彼を信仰に導き、バプテスマを授け、ヤジローは日本人最初のクリスチャンとなりました。ヤジローとの出会いによってザビエルは日本宣教をこころざし、翌年1549年4月15日に日本に向かうことになりました。薩摩(鹿児島)に上陸したのは1549年8月15日のことでした。

 ザビエルは薩摩の大名、島津貴久より宣教の許可を受けますが、貴久が禁教に傾いたため、そこを離れ、京に登って将軍と天皇に日本全国での宣教の許可を得ようとしますが、失敗しています。そこで、長州(山口)に戻り、大内義隆より宣教の許可を得、寺の建物を譲りうけて教会堂とし、そこを拠点に伝道しました。1551年4月から8月にかけてのことで、この5ヶ月間に600人の人々が信仰に導かれています。

 1551年9月、ザビエルは長州での伝道を他の宣教師に任せ、豊後(大分)に行って、大友義鎮のもとで11月までの短い間ですが、そこで伝道しています。義鎮は「キリシタン大名」のひとりで、隠居してからは宗麟と名乗り、1578年に洗礼を受けています。

 豊後で順調に伝道していたザビエルでしたが、インドのゴアとの音信が途切れたままであることを気にかけ、その年の11月に日本を離れゴアに向かいました。ザビエルは、日本に伝道するには、日本の文化のみなもとである中国で伝道しなければならないと考え、1552年4月ゴアから中国に向けて出発しますが、マカオの上川島で足止めされました。そのうち病を得、12月3日、その地で亡くなりました。46歳でした。

 ザビエルの日本での伝道はわずか2年でしたが、彼は日本宣教のさきがけとなり、その後、次々と宣教師が日本を訪れました。織田信長の庇護もあって、教会堂はもとより、学校、病院、孤児院などが次々と建てられました。当時の「士・農・工・商」の身分制度を越えて、大名も平民も、豊かな者も貧しい者も、男性も女性も信仰に入りました。当時のクリスチャンは「キリシタン」と呼ばれましたが、1600年の関ヶ原の戦いのころ日本には60万人のキリシタンがいたとされています。当時の日本の人口は、1200万人ほどだったようですので、ザビエルの宣教からたった50年で、キリシタンは日本の人口の5パーセントに達していたことになります。

 信長の時代はキリシタンにとって自由な時代でしたが、秀吉の時代から迫害が始まりました。豊臣秀吉は天下統一ののち、1587年に「バテレン追放令」を出しました。「バテレン」というのは神父、宣教師のことで、これは実質的な禁教命令でした。秀吉は宣教師や日本人神父、信徒を京都で捕まえ、長崎まで雪の道を歩かせ、長崎で彼らを処刑しました。1597年の「26聖人の殉教」です。秀吉のバテレン追放令によって「キリシタン大名」たちは領地を没収されるなどし、信仰を棄てることを強制されました。それに応じなかった大名、武将たちは処刑されたり、追放されたりしました。徳川家康が大御所として政治の実権を持っていた1613年には「禁教令」が出され、最後のキリシタン大名として残っていた高山右近はマニラに追放されました。

 1622年、「元和の大殉教」では、それまでに捕まえられ、投獄されていた宣教師や信徒55名の処刑が行われました。「26聖人の殉教」のときには、それを人々へのみせしめにしょうとしたのですが、かえってキリシタンを奮い立たせる結果になったので、このときには、キリシタンを潔く死なせないように、できるだけ長く苦しむようにと、火あぶりの刑が行われました。俵責め、穴吊るし、熱湯などによる拷問がキリシタン弾圧のために新しく取り入れられました。麻縄で体をしばり、それに水をかけ、麻縄が徐々に縮んでいって内蔵を圧迫して死に至らせたりもしました。江戸時代の迫害は、ローマ時代の迫害に匹敵するような恐ろしいものでした。4万人ものキリシタンが殉教していったと言われています。

 しかし、このような迫害があっても、キリシタンは「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者」を恐れず、むしろ、「からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかた」、まことの神への畏れをもって、最後まで信仰を貫き通しました。もし彼らの信仰が外国の宗教への好奇心やご利益といったものでしかなかったら、このような迫害はなかったでしょうし、殉教者も出ることはなかったでしょう。彼らの信仰は本物の信仰でした。本物だったからこそ、当時の権力者たちはそれを恐れ、根絶やしにしようとしたのです。彼らはキリストに出会い、キリストに生かされ、キリストにあって生きたのです。

 「ザビエルの祈り」とされている、このような祈りがあります。

主よ、私があなたを愛するのは
あなたが天国を約束されたからではありません
あなたにそむかないのは
地獄が恐ろしいからではありません
主よ 私を引きつけるのは
あなたご自身です
私の心を揺り動かすのは
十字架につけられ
侮辱をお受けになったあなたのお姿です
あなたの傷ついたお体です
そうです 主よ
あなたの愛が私を揺り動かすのです
ですから たとえ天国がなくても
主よ 私はあなたを愛します
たとえ地獄がなくても
私はあなたを畏れます
あなたが何もくださらなくても
私はあなたを愛します
望みが何もかなわなくても
私の愛は変わることはありません
キリシタンの殉教者たちの信仰は、この祈りに表されたものと同じだったと思います。日本人もまた真実にイエス・キリストに出会うなら、ご利益信仰ではない本物の信仰を持つことができるのです。

 二、現代の証人たち

 今から400年も前の日本の殉教者のお話しをしましたが、これは現代のわたしたちと無関係ではありません。使徒1:8に「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」とあるように、キリストを信じる者は、ひとり残らずキリストの「証人」です。この「証人」という言葉は、もとの言葉では、「殉教者」と同じ「マルチュロス」という言葉です。同じ言葉が「証人」と訳され、「殉教者」と訳されます。殉教者とは、その死にざまによって主イエスを証しした人たちのことです。殉教することがなくても、主の証人もまた、殉教者と同じようにキリストを証しする者です。その生きざまによって主を証しするのです。

 「殉教者」が尊ばれるのは、その人たちが潔く死んでいったからだけではありません。その前に主イエスを信じて、正しい生活をし、自分の努めを忠実に果たし、他の人々を大切にして、その命を主イエスのために使い切ったからです。いくら潔く死んだからといって、それまでの生き方が主イエスを証しするものでなかったら、その死によって主イエスを証しすることはできないでしょう。信仰のために死ぬことも、信仰を持って生きることも同じことです。キリストを信じるわたしたちは皆、「マルチュロス」、「証人」であり「殉教者」なのです。

 米沢(山形)にはおよそ3千人のキリシタンがいました。藩主の上杉景勝はキリシタンを保護し続けましたが、その子、定勝の時代になって、幕府の圧迫が強くなり、重臣、甘糟右衛門をはじめとするキリシタンを処刑せざるをえなくなりました。1629年1月12日、53名が三箇所で殉教していきました。米沢の処刑場までは四キロほど、一時間ぐらいの距離ですが、殉教する人たちがそこに着くのに、その日は4、5時間もかかりました。米沢の領民たちがみな、別れを告げるために出てきたからです。彼らは、それほど人々に慕われていたのです。刑場で処刑を執行する奉行がこう言いました。「皆の者、ここにおる人たちは、信仰のためにこのようなことになった。皆、この人たちに向かって土下座してくれ。」そしてこう続けました。「この人たちが何をして来たかは、われらが一番良く知っておる。らい患者を世話し、子どもや年寄りのために尽くし、米沢の領内で無くてならぬ人たちである。しかし、今、時代の流れはこの人たちがキリストを信じることを許さない。だが、われらにとってみたら、この人たちはまるで仏様みたいな人たちなのだ。だから、皆、土下座してくれ。」

 日本にもこんなに素晴らしい主の証人たちがいたのです。日本人がキリストを信じることができないわけがありませんし、キリストの証人になれないはずがありません。

 今はアメリカでも日本でも迫害はありません。信仰を持ち、それを守るのにさして困難のない恵まれた時代に生きています。けれども、あまりにも恵まれ過ぎて、わたしたちは、この世のものや物質的なもので満たされてしまい、神への渇きを失っているのかもしれません。そのため、人の心やたましいが枯れ、本当の生き方ができなくなっているように思います。神からの霊的な恵みが粗末にされているこのような時代だからこそ、わたしたちは確かな信仰を握りしめて、この世が与えることができない祝福の中を歩みたいと思います。主の証人として天の光を輝かせるものになりたく思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは日本にも数多くのキリスト者、キリストの証人を与えてくださいました。わたしたちも、この時代に、この地で、その模範にならい、主の証人となることができますように。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

8/2/2015