いやしの力

マルコ6:7-13

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6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
6:9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
6:12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
6:13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

 きょうの箇所には、主イエスが弟子たちをイスラエルの町々に派遣し、福音を宣べ伝えさせたことが書かれています。弟子たちは、福音を語っただけでなく、悪霊を追い出し、病人をいやしました。悪霊追放といやしは、イエスの宣教、弟子たちの伝道に特徴的なことでした。しかし、なぜ悪霊を追い出し、病人をいやすことが必要なことだったのでしょうか。そして、このことは、現代の私たちに、どのような関わりがあるのでしょうか。

 一、福音のしるし

 弟子たちが、伝道のときに悪霊を追い出し、病気を直したのは、第一に、福音をあかしするためでした。イエスが弟子たちに託された福音は「神の国の福音」でした。福音とは、ひととことで言うなら、「イエスがメシア(キリスト)である」との宣言です。そして、メシアは神の国を実現するお方ですから、福音は、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という、神の国到来の宣言で始まっているのです。しかし、「神の国は近くなった」と聞いても、人々は容易にその言葉を信じませんでした。「それなら、その証拠を見せろ」と、しるしを要求しました。悪霊の追放と病気のいやしは、神の国が近づいていることの証拠、しるしとして、必要なものでした。聖書には神の国が来るとき、つまり、メシアが来る時には数々のしるしが起こることが預言されており、ユダヤの人々はそれを良く知っていたからです。

 バプテスマのヨハネの弟子たちが、イエスに「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも。私たちは別の方を待つべきでしょうか」と尋ねたとき、イエスは「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、耳しいが聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです」(マタイ11:4-5)と答えておられます。また、「彼は悪霊のかしらによって、悪霊を追い出している」と非難されたとき、イエスは「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです」(ルカ11:20)と言われました。悪霊の追放や病気のいやしは「神の国が近づいた」、「イエスが神の国をもたらすメシアである」という福音の証拠、しるしと与えられたものでした。

 二、解放のしるし

 それは第二に、キリストによって与えられる罪からの解放を示すものでした。イエスは「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です」(ヨハネ8:34)と言われました。私たちは誰も、自分は自由だと思っていますが、実は、さまざまなものに縛られているのです。エペソ2:1-3にこうあります。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。
人は皆、罪と、世と、悪霊と、欲望の四つのものに縛られているというのです。

 罪に縛られているというのは、身近なところでは、アルコール依存症などのいろんな依存症に見られます。アルコール依存症の人は、「自分は限度をこえては飲まない。いつでもやめられる」と言いながら、酔いつぶれて仕事を休んだり、家事を放棄したり、暴力をふるったり、交通事故を起こしたりするようになります。自分の意志でやめられると言いながら、飲酒をやめることができないのです。罪は、人から自由を奪うのです。

 人はまた、「この世の流れ」に流されています。世の中では、みんながしていることはたとえ「悪」でも「善」になり、みんながしないことは「善」でも「悪」になります。なんと多くの人がまわりを見て、みんながしていることに従っていることでしょう。とても悲しいことですが、学校でいじめられ、自殺に追いやられる子どもが後を絶ちません。ほとんどの子どもは積極的にはいじめに加わわらないでしょう。しかし、悪いことを悪いこととして退ける勇気が教えられていないために、いじめを見ても見ぬふりをし、そのため、いじめられている子どもは行き場を失ってしまうのです。時代の流れに流されているのは、子どもだけでなく、大人も同じです。いや、大人たちが、金儲けや欲望のために、子供たちを危険にさらすような流行を作り出しているのです。

 聖書はさらに、罪やこの世の背後に「悪霊」の力が働いていると教えます。今日、今までにはなかった非常に残酷な犯罪が数多く見られるようになりました。学者たちが知恵を尽くしてそれを分析し、医療や教育、また行政が手を尽くして再発を防ごうとしてもできないものがあります。人間の力を超えたものが犯罪の背後に、また、この社会にうごめいていることを多くの人が感じ取っています。

 聖書はまた、人は「欲望」に支配されていると教えています。ガラテヤ5:19-21に人間の醜い欲望のリストがあります。こう書いてあります。

肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。
社会的に地位のある人たちが、こうした欲望に負けて、今まで努力し築きあげてきたものを棒に振ってしまうことが良くあります。教養があり、人々から信頼され、友人が多くいて、家庭的にも恵まれている人がとんでもないことをしてしまうのです。また、人間の欲望のぶつかり合いが人と人との争いとなり、民族と民族の内乱、国と国との戦争になっているのは、私たちが今見ているとおりです。

 多くの人々が真面目に、人生や家庭の問題に取り組み、献身的に社会や世界の問題の解決に励んでいるのに、いっこうに問題が解決しないのは、私たちが抱えている様々な問題の背後に、こうした目に見えない力が働いていて、それが私たちを束縛しているからです。イエス・キリストは、そうした、人間の力では決して逃れることができない束縛を打ち破り、私たちにほんとうの自由を与えるために、この世に来てくださいました。イエス・キリストはまず、私たちの罪を赦し、次に、私たちを罪からきよめ、罪の力から守ってくださることによって、私たちに、こうした束縛からの自由を与えてくださいます。弟子たちは、そのような救い、つまり救い主による解放を人々に宣べ伝えたのです。

 三、回復のしるし

 「悪霊の追放」や「病気のいやし」は、第三に、救い主が人をあるべきところに回復してくださることを物語っています。イエスは人々を悪霊や病気、死から解放されたあと、必ずといって良いほど、その人をもといた家族に、社会に返しておられます。ゲラサの地で「レギオン」と名乗る悪霊たちに憑かれていた人に、イエスは「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」(マルコ5:19)と言われました。らい病人をきよめられたときは、「行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい」(マタイ8:4)と命じられました。イエスの着物に触れて病気がいやされた女性に、「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(マルコ5:34)と声をかけておられます。今も、そうでしょうが、古代の人々は病気によって仕事を失い、家族と別れなければならず、社会から隔離されていました。イエスは、そんな人々を病気を直すことによって、もう一度もとの仕事や生活に、また、家族や社会に戻されたのです。

 イエスの力は、病気をいやすだけでなく、病気で亡くなった人にまで及びました。イエスはカペナウムの町で、12歳の少女を生き返らせ、その両親の手に返されました。ナインという町では棺に入れられ葬られようとしている若者を生き返らせました。その若者は、あるやもめのひとり息子で、彼女は夫に先立たれ、今また、息子を亡くし、悲しみにくれていました。主はその母親に「泣かなくてもよい」と言われ、続いて、死んだ若者に、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言って彼を棺の中から立ち上がらせました。この出来事を記録した聖書は、「すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された」(ルカ7:15)と書いています。「イエスは彼を母親に返された」とは、なんと美しい言葉でしょう。イエスのいやしはたんに病気を直すということで終わらず、そこから来る様々な問題や、心の痛みをもいやし、家庭をいやし、社会をいやすものなのです。

 ギリシャ語で「救い主」という言葉には「いやし主」という意味があります。イエスは、人々をいやすことによって、ご自分が「いやし主」、「救い主」、「キリスト」であることを人々にお知らせになりました。そして、人々が回復していく姿によって、すべてのものをいやす神の国の力、キリストによる救いをお示しになったのです。

 イエスはこのいやしを、ご自分が人々の病を引き受けることによって成し遂げてくださいました。カペナウムで百人隊長のしもべをいやし、ペテロのしゅうとめの病気を直されたイエスは、その日、人々のあらゆる病気を直されました。聖書は、このことについて「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。『彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。』」(マタイ8:17)と書いています。イエス・キリストが人々をいやされたのは、神としてのお力によってだけでなく、人間として、人々の病気や死をご自分の身に引き受けることによってでもあったのです。

 ペテロ第一2:22-25に

キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
とあります。イエスは、人を悪魔の攻撃から守り、病気を直し、そして死人さえも生き返らせましたが、御自分は、悪魔の攻撃の的となり、全身に傷を負い、あの十字架の上で命を失いました。病いの者を社会に復帰させ、死んだ者をその家族に取り戻させたお方が、この世から抹殺され、孤独の中に死んでいかれたのです。それは、人々の病を御自分に引き受けられることによって人々をいやし、ご自分の死によって人々を生かすためでした。イエスはまさに、「傷ついたいやし主」です。それは、私たちがその傷によっていやされ、神のもとに立ち返ることができるためでした。

 現代の私たちも、弟子たちがあかしし、伝えたのと、同じ福音を聞いています。いやそれ以上のもの、イエス・キリストの十字架と復活による救いを聞いています。福音は今も、人を解放し、回復させる力、いやしの力です。マルコ6:12に、弟子たちが「悔い改めを説き広めた」とありますが、福音は、私たちを悔い改めに導きます。この「悔い改め」は、自分の罪を悲しむことだけで終わるものではありません。それも含みますが、そこには「立ち返る」という意味があります。イエス・キリストは私たちのために、神に帰る回復の道を開いてくださいました。この福音を聞く私たちは、悔い改めによって、その回復の道を歩むのです。不信仰から信仰へ、罪からきよめへと進んでいくのです。

 弟子たちは、福音をあかしし、指し示すために、悪霊を追放する権威と病気をいやす力を与えられました。この霊的な力は、決して人間の努力で得られるものではありませんし、そのままの形では誰にでも与えられるものではありません。しかし、人々を霊的な束縛から解放し、神のもとに立ち返らせる福音の力は、福音を聞いて信じた人すべてに与えられています。マルコ6:7に「また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった」とあるように、その力は、主イエスに呼ばれた者が、主イエスのご命令に従って出ていくときに与えられるものです。神は礼拝のたびごとに、キリストの弟子たちを呼び寄せ、自分がいやされ、また人をいやす力を授けてくださいます。そして、そこにいやしの力をもたらすために、ふたたび家族のもとに、職場に、地域に派遣してくださるのです。礼拝のたびごとに、主のいやしの力を豊かに体験し、そのいやしの力を、家庭に、職場に、社会に持ち運ぶ者となりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、主イエス・キリストによって、私たちを罪と世から、悪霊と汚れた欲望から解放し、神の国とその義へ、聖霊とその喜びへと導いてくださいました。そこに至る道は、イエス・キリストのお苦しみによって開かれた尊いものです。どうぞ、私たちに、この道を歩き続ける力をお与えください。私たちの身近な人々に、この道をあかししする力をお与えください。私たちの救い主イエス・キリストによって祈ります。

7/15/2012