リトリート!

マルコ6:30-34

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6:30 さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。
6:31 そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。
6:32 そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。
6:34 イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。

 私が「リトリート」という言葉を始めて聞いたのは、四十年前、宣教師からでした。ビジネスの世界では、会社の新年度や新しいプロジェクトが始まる前に、その計画、企画を立てるミーティングを「リトリート」と呼んでいますが、この言葉は、もともとは宗教的なもので、日常の生活を離れ、黙想したり、断食したり、霊的な訓練を受けることを意味していました。毎年行われている修養会も、英語で言えば「リトリート」ですが、その場合「リトリート」という言葉は、リラックスし、フェローシップを楽しむ時という意味で使われるようになり、私たちの間では、「リトリート」から、本来の「霊的訓練」という意味が少なくなってきました。

 一、休息

 このように「リトリート」という言葉は、さまざまな意味で使われるようになりましたが、最初の「リトリート」は誰が、何のために始めたのでしょうか。答えは今朝の聖書にあります。イエス・キリストが、弟子たちに休息を与えるために始められたのです。イエスは十二弟子たちをユダヤの町々村々に遣わしました。弟子たちは悔い改めを宣べ伝え、悪霊を追い出し、病人をいやしました。弟子たちも、伝道から帰ってきて、「この町でこんなことがありました。」「あの村ではこんなことがありました。」と、エキサイトして、伝道の成果をイエスに報告していました。人はエキサイトしているときはあまり疲れを感じませんが、実際は疲れているのです。イエスは弟子たちに休みの必要なことを見抜いて、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われたのです。これが、リトリートの起源です。

 リトリートの目的の第一は、「休むこと」にあります。私たちには休みが必要です。たとえ、それが神のための働きであっても、休み無しに働いていると、霊的、信仰的な力を失ってしまいます。最近読んだ本に、ドイツのある牧師が、暫くの間ですが、牧師を辞めて別の仕事をし、それから再び牧師に戻ったところ、以前よりも大きな働きができるようになったと書かれてありました。その牧師は、「私が牧師であった時には、休みが無く、牧師として必要な学びも祈りも十分に出来なかった。」と言っていました。イエスは神の御子でしたが、罪を除いては、私たちと何一つ変わらない人間となってこの世界に来てくださいました。イエスを神として礼拝する私たちは、時として、イエスが、この地上では、私たちと同じように、空腹を感じ、眠気を催し、疲れを感じられたことを忘れがちですが、イエスは私たちと同じ制限の中におられたのです。

幼な児イエスには 涙も笑みも
われらと同じに 弱さもわかる
悲しみ苦しみ 喜びともに
というクリスマスの賛美があります (新聖歌92)。この賛美のように、イエスは、人として喜び笑い、悲しみ嘆かれたお方であり、人間の限界を知っておられるお方です。イエスご自身が疲れを覚えられたからこそ、私たちの疲れを知っていてくださるのです。私たちに休息が必要な事を知り、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と、私たちを休息に招いてくださるのです。

 二、静けさ

 リトリートの目的は第二に、「静けさ」を与えることです。イエスが弟子たちにリトリートを勧めたのは、「人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったから」だったと聖書は言っています。イエスの教えを聞こうとする人、病気を直してもらおうとする人たちがひっきりなしに訪ねてきて、弟子たちはからだを休める暇がなかったばかりか、心を静めて神に祈ることができなくなっていたのでしょう。

 祈りにおいて「静けさ」というのはとても大切です。私たちは静けさの中で神の声を聞き、神に出会うからです。主が預言者エリヤに語りかけられたのは、山を裂き岩を砕く、大風や地震、また、木や草をなめつくす炎によってではありませんでした。主は「かすかな細い声」でエリヤに語りかけられたのです。神の声は心を静めること無しには聞くことができないものなのです。クリスチャンであっても、毎日を忙しく、騒がしく送っていると、神のみことばが心にとどまらず、みことばから来るたましいの変革、内面の満たし、深い平安、奉仕の力などを体験できなくなります。せっかくキリストの救いにあずかったのに、救われる以前と変わらない心の状態で終わってしまうのです。とても残念なことです。

 ヨーロッパには、昔、熱を遮断して生ものを保存しておく保存庫がありました。日本の土蔵に入ると、夏でもひんやりとしていますが、そのようなものです。そこには窓がありませんから、保存庫にものを入れた後、重い扉を閉めると、中は真っ暗になってしまいます。ある家で父親が保存庫で働いたあと、その中に腕時計を忘れてきたことに気が付きました。保存庫の扉を開ければ、光が入って、腕時計を見つけるのは簡単かもしれませんが、いったん閉めた扉を長い時間開けっ放しにしておくと、中に入れたものが悪くなります。扉を閉めてろうそくやランプを使って探すこともできますが、燃えやすいものがあるので、それもできません。それで父親は、真っ暗な中、手探りで腕時計を探しましたが、どうしても見つかりませんでした。そのことを聞いた、その家のちいさな男の子が言いました。「ぼくが見つけてあげる。」そう言って保存庫の中に入った男の子は、しばらくすると、腕時計を見つけてそこから出てきました。父親が驚いて、「どうやって見つけたんだい。」と聞くと、男の子は言いました。「保存庫の中で、じっと耳をすましていたんだ。そうしたら、カチカチという音が聞こえたので、そっちのほうに行ったら、お父さんの腕時計があったんだ。」この話のように、静かに、神のことばに耳をすますことによって、私たちは神を見いだし、また、私たちが見失ってしまった大切なものを取り戻すことができるのです。

 現代のクリスチャンが霊的な力を無くしているとしたら、それは、あまりにも忙しく騒がしいこの社会に呑み込まれ、神の前に静まる訓練を怠っているからだと、多くの霊的な指導者が指摘しています。私たちの霊的な生活には、働くことと休むこと、語ることと沈黙すること、聞くことと耳を閉ざすことというリズムが必要です。音楽でも、音が鳴りっぱなしで休止符のない音楽というのはうるさいだけで少しも美しいと感じませんし、心に安らぎを与えません。私は若いころ書道を習いましたが、私の先生は、墨で書いた文字の部分でなく、紙に残った空白の部分を見なさい。どれだけバランス良く空白を残すかを考えなさいと教えていました。私はそれを聞いて霊的な生活も同じだと思いました。静けさという白い紙の上に神のことばが書かれてこそ、神のことばが生きてくるのだと思いました。雑音で真っ黒になった心に神のことばが書かれても、何が書かれたのか分からないのです。

 しかし、どうしたら心を静めることができるのでしょうか。テレビやラジオを消し、音楽も聴かず、誰とも話さないで、電話にも出ないということでしょうか。確かに努力して静かな環境を作ることは大切です。しかし、回りが静かになればなるほど、自分の心の中にある雑音が大きく聞こえてきます。神の前に静まろうとすると、かえって、自分の祈りが神に集中していなかったことが分かってきます。人間の力では、それを乗り越えて、神のことばを聞くことができるようにはなれません。私たちの心をも支配してくださる神のお働きによらなければなりません。しかし、神が私たちの心の中で働いてくださるために、私たちにもできることがあります。それを学び、その訓練をするのが「リトリート」なのです。私は、いつかそうした意味での「リトリート」をしたいと願っていましたが、来月それができることを楽しみにしています。

 三、ひとりになる

 リトリートは、第一に休息のため、第二に神の前に静まるためのもの、第三には、神の前にひとりで立つためのものです。この三つは、英語で言うと、"Sabbath", "Silence", "Solitude" というように三つの "S" で表わすことができます。イエスは、弟子たちに「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われました。人々に取り囲まれていた弟子たちに、しばらくの間、人々から離れるようにと言われたのです。神は「人が、ひとりでいるのは良くない。」と仰って、アダムのためにエバを造り、人を他の人との関わりの中で生きるものとしてくださいました。「にんげん」と言う言葉は「人の間」と書き、私たちは人の間で生きています。ロビンソ・クルーソーが無人島に置き去りになったとき、何よりも欲しいと願ったのは、話し相手になってくれる「人」でした。私たちはみな誰か他の人を必要としています。人はまったくひとりぼっちで生きて行くことはできません。神が与えてくださった他の人々は神からの賜物であり、人間関係は神からの祝福です。

 しかし、ほんらい賜物であり、祝福であるはずの人間関係が、罪のために、問題と苦しみの原因となり、のろいとさえなっていることも事実です。三木清は「孤独は山になく街にある。」と言いましたが、大勢の人々に取り囲まれているのに、心を通いあわせることができる人がなく、孤独を感じている人が多くいます。また、人間関係の中にべったりと入り浸って、神とのまじわりを求めない人もまた多くいます。人間関係の中毒を「コディペンデンシィ」と言いますが、コディペンデンシィを持った人は、よく人の世話を焼くのですが、それは、相手のためではなく、自分を満足させるためであり、悪くすると他の人をコントロールし、自分の下に置こうとします。その結果、社会のルールを無視して勝手なことをしたり、一方的に人を非難したり、相手の気持ちを考えないでものを言い、人を傷つけるようになります。コディペンデンシィでは人間関係がすべてなので、人間関係を大切にしているように見えるのですが、実は、正しい人間関係を破壊するものなのです。私たちは遅かれ早かれひとりで神の前に立たなければならないのですが、そういう人は、神の前に立つことを避けて、人間関係に逃げ込むのです。ですから、いつまでたっても、神との関係を確立し、それを深めることができないのです。そして、神との関係が確立していない人は、たとえ人づき合いのテクニックは身につけることはできても、ほんとうの意味での、人と人との温かいまじわりを持つことができないのです。

 私は先月の末、昨年に続いて、祈りを主題にした研修会に参加しました。講義やディスカションと共に、一日に二回、ひとりで聖書を読み、祈る時があって、Silence と Solitude を実践しました。個人の祈りの時のあと、集まって共に賛美し、あかしを分かち合いましたが、ひとりびとりが Silence と Solitude を体験したあとの賛美はとても美しく、分かち合いの時は満たされたものとなりました。私にとってほとんどの人は、はじめて会う人たちや年に一度、この研修会でしか会うことのない人たちですが、温かいクリスチャンのまじわりを味わうことができました。ひとりで神の前に出ることがきちんとできているところに、本物のまじわりが生まれることをあらためて確信しました。この研修会でテキストブックとして使った "Into the Silent Land" という本のエピローグに「あなたはだれか。」という主題の短いストーリーが載っているのですが、そのことについて、ひとりの姉妹からあかしがあり、それは一同の心を打ちました。神の前にひとりで出ることなしには、自分が何者であるかを知ることができないこと、自分が何者であるかがわからない人は、ほんとうの意味で他の人との正しい人間関係を持つことができないことがよく分かりました。

 こんな話があります。昏睡状態だったひとりの女性の呼吸が止まりました。彼女はすぐさま裁きの座の前に立たされるのを感じました。「おまえはだれだ」という声が聞こえました。彼女は答えました。「市長の妻です。」すると、その声は言いました。「だれの妻かときいているのではない。『おまえはだれだ』と聞いているのだ。」「私は四人の子の母です。」「だれかの母かときいているのではない。おまえはだれだ。」「私は教師です。」「おまえの職業をきいているのではない。おまえはだれだ。」そこで彼女は「私はクリスチャンです。」と答えました。するとその声は言いました。「おまえの宗旨をきいているのではない。おまえはだれだ。」彼女は「私は毎週教会に行って、サンデースクールで教え、女性の会では役員もしてきました。」とも言いましたが、その声はなおも、「何をしたかをきいているのではない。おまえはだれだ。」と言いました。そんなやりとりが延々と続きました。彼女は、この質問に答えられなかったために、地上に送り返されました。病気が直ったとき、彼女は、自分がだれなのかを見究めようと決心しました。それから後、彼女の生活は一変したとのことです。これが実際あったことかどうかは分かりませんが、神が私たちに「おまえはだれか。」と聞いておられることは事実です。あなたはそれにどう答えるでしょうか。その答えは、私たちがひとりになって神の前に出るときに、はじめて得られるものなのです。

 休息と静けさ、そして、ひとりになること、これは、イエスが教え、教会が二千年の間大切にしてきた霊的な訓練です。私たちも主が教えてくださった、このリトリートを実践し、より神を知り、自分を知り、そして、主に仕える者になりたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは私たちに休息と、静けさ、そしてひとりになるという訓練を与えてくださいました。自分のためにあくせくと動き回り、自分のことを語り、そして人々の中で自分の寂しさをまぎらわそうとしている人々はこうした訓練を避けて通っています。しかし、私たちのたましいはあなたの与えてくださる休息を、静けさを、そしてあなたとの一対一の親しいまじわりに飢え渇いています。私たちに自分のたましいの渇きに気付かせ、その渇きをとどめるいのちの水を求めさせてください。私たちの日常の中に、あなたのくださるリトリートを持つことができるように、なお、私たちを教え、訓練し、導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

9/7/2008