信仰による救い

マルコ5:26-34

5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。
5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。
5:30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。
5:31 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」
5:32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。
5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

 神は、私たちに信仰を求めておられます。聖書は「信仰がなくては神に喜ばれることはできない。」(ヘブル11:6)と言っています。「義人は信仰によって生きる」(ローマ1:7)のです。しかし、神の民はいつも神への信仰を保ってきたわけではありません。教会の指導者の中にも信仰よりも財産や権力などを求める人々がいました。信仰にはもちろん知識も、努力も、行いも含まれていますが、知識や努力や行いが信仰に代わるものになってしまった時代もありました。人々は、傲慢になり、神の前に罪を悔い改めて神の救いを求めるよりも、人間の能力によって問題を解決し、善良さによって救われようとしてきたのです。宗教改革がおこった16世紀はきわめて宗教的な時代でしたが、それでも信仰が誤解され、儀式や戒律を守りさえすれば、それが信仰になると思われていました。

 宗教改革はそうした時代に対して、Sola fide(ただ信仰によって)というスローガンを掲げて信仰の復興を目指した運動でした。結果的には、そこからプロテスタント教会が誕生しましたが、それで宗教改革が終わったのではありません。プロテスタント教会とは「改革されてしまった」教会ではなく、「たえず改革され続けていく」教会ですから、第二、第三の宗教改革があって良いと思います。「改革されていく教会」とは、常に神への信仰を新しくしていく教会です。今朝の箇所には、神が求めておられる信仰について数多くのことが教えていますが、今日は、その中から三つのことに焦点をあわせて学んでみたいと思います。

 一、みことばに聞く信仰

 第一は、神のことばを聞き、それに応答する信仰です。宗教改革者たちは、聖書をそれぞれの国のことばに翻訳しただけでなく、なによりも、聖書から語り、人々に聖書を教えてきました。かつては聖書は民衆には理解できないものとされ、聖書のことばは教会で朗読されてはいましたが、人々はそのときあかしを聞くことがなかったのです。事細かい教会の規則や伝統が聖書のかわりになっていました。宗教改革を起こしたマルチン・ルターでさえ、司祭であったのに、聖書を学んだことがなかったのです。ルターには深い霊的な求めがありました。彼は修道士として修練に励みましたが、修練の中にその求めを満たしてくれるものはありませんでした。しかし、彼は聖書を学び、神のことばの中にそれを見出したのです。宗教改革者たちは、信仰とは神のことばに聞くことであるということを再発見し、その原則に従いました。

 マルコ5:27に「イエスのことを耳にした」とあるように、十二年間病気で苦しんでいた女性は「聞く」ことによって信仰を得ました。このときは、イエスが地上においでになった時でしたから、人々は直接イエスの声を聞き、イエスに出会いましたが、イエスが天に帰られた今、私たちは聖書によってイエスの声を聞くのです。そして、神のことばに聞くことによって信仰を得るのです。聖書に「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)とあるように、信仰は神のことばから来ます。もし、私たちが救われたい、信仰を成長させたいと願うなら、もっと神のことばに耳を傾けなければなりません。教会がしなければならないことは数多くあるでしょうが、第一のことは、そこで神のことばが語られること、神のことばが聞かれることです。教会でしか、神のことばが語られることがなく、神のことばを聞くことができないからです。たしかに書店には聖書が並んでいます。聖書にかんする書物も数多くあります。欧米の文学、絵画、音楽などの多くが聖書から題材をとっています。天地創造やノアの洪水、モーセと十戒、キリストの生涯とその受難などは、ハリウッドのヒット・ムービーとなっており、多くの人が聖書についてのなんらかの知識を持っています。しかし、それは「聖書について」知っているだけで、「聖書を」知っていることとは違います。どんなに聖書について詳しく知っていたとしても、それが人を救うのではありません。聖書が神のことばとして語られ、聞かれることがなければ人を救う信仰は生まれないのです。

 使徒の働きにエチオピアの役人がエチオピアに帰る馬車の中でイザヤ書を読んでいたことが書かれていあmす。ちょうど53章あたりを読んでいたとき、ピリポがその馬車に近づきました。ピリポが「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と声をかけると、彼は「導く人がなければどうしてわかりましょう。」と答えて、ピリポを馬車に招き入れ、ピリポに教えを請いました。使徒8:35に「ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。」とあります。そして、エチオピアの役人はイエス・キリストを信じバプテスマを受けて、自分の国に帰っていきました。「イエスのことを…宣べ伝えた」とあるように、聖書からイエス・キリストのことが語られたので、この人は信仰に導かれたのです。聖書が毎日の生活にどんなに役に立つか、それを読めば心にどんなに深い平安が得られるか、また、キリスト教がどんなに素晴らしいか、教会がどんなに良いところかがいくら話られたとしても、イエス・キリストのことが語られなければ、人々は救いを求めてキリストのもとに来ることはないのです。

 クリスチャンは人々に愛を示そうとします。愛のないことばに人は耳を傾けてくれないからです。しかしもしキリストを語ることがなければ、人々はあなたの示した愛がキリストから来たものだということを理解することができません。キリストの愛を知ることができないのです。愛の行為は、人々に感動、感化を与えることはあっても、キリストを語ることがなければ、人はキリストの愛を知ることができないのです。救いを求めて苦しんでいる人に、どんなに良くしてあげても、その人に救い主を伝えなかったなら、じつはその人に対して愛のないことをしていることにならないでしょうか。

 「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによる」とあるように、クリスチャンは、まず、神のことばにもっと耳を傾け、さらにキリストを知る者となりましょう。そうするなら、神のことばを、イエス・キリストを語ることができるようになり、そして人々は神のことばによってイエス・キリストを信じる信仰に導かれていくのです。神のことばに聞く信仰、神のことばを語る信仰を神は求めておられます。

 二、救いを求める信仰

 第二に、神が、私たちに求めておられる信仰は、神の恵み、あわれみを信じて求める信仰です。宗教改革以前、人々は神の恵みや愛を見失っていました。イエス・キリストは罪人を裁く者として恐れられてはいても、罪人の救い主として愛され、慕われてはいませんでした。ルターがヴィッテンベルグで聖書を学んで発見したのは、じつに恵みの神、救い主イエス・キリストだったのです。

 長年病気に苦しんでいたこの女性は、病気を直したいために、多くの医者にかかり、それで財産を使い果たしてしまいました。彼女は肉体の痛みだけでなく、経済的な苦しみをも背負わされました。それだけではありません。当時、出血性の病気は、汚れたものとみなされ、神殿や町の会堂で神を礼拝することが許されず、一人前のユダヤ人として扱われなかったのです。神から罰された者とさえみなされました。血は命ですから出血性の病気は霊的な死をあらわしていました。彼女の置かれていた状況は「絶望」そのものでした。しかし、彼女は自分の置かれた状況を「運命」としてあきらめませんでした。彼女は宗教的、社会的には神から遠ざけられていました。聖なるものに触れることを許されていませんでした。しかし、彼女はもっとも聖なるお方に近づき、そのお方に触れたのです。彼女はイエスの中に恵みの神を見出しました。神の恵みを信じ、かならずいやされると信じてイエスに近づいたのです。

 ある人が「信仰」の反対は「不信仰」でなく「絶望」であると言いました。私が苦しんでいるのは、神に見放されたからだと思うなら、まったく絶望しかありません。しかし、神は苦しむ者の救い主、悩む者の助けであると信じるなら、それは希望を与えます。苦しみは絶望を与えもすれば、信仰を与えもします。苦しみから絶望を選ぶか信仰を選ぶかはその人次第ですが、神は、私たちに信仰を選ぶよう呼びかけてくださっています。苦しみから救われたいために神に近づくのは、「苦しいときの神だのみ」のようで、良くないことだと考えている人もいますが、そうではありません。神は、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。」(詩篇50:15)と言っておられます。神ご自身が「苦しいときは神だのみをせよ。」と言っておられるのです。この世に苦しみのない人は誰もいません。たとえ、その人が「自分はすべてに恵まれていて、苦しみなど無い。」と言ったとしても、世界中の苦しみの中にいる人のことを見聞きしたら、きっと自分の心に苦しみを覚えるでしょう。もし、人の苦しみを痛みとして感じないとしたら、その人は、自分の冷淡さを苦しむべきではないでしょうか。たとえあなたの苦しみが自分の冷淡さを苦しむものであったとしても、そこから神に救いを求めるなら、神はあなたの心をキリストのこころで満たしてくださるのです。神の恵みを信じて求めましょう。求める者に主は答えてくださるのです。

 三、イエスに向かいあう信仰

 第三に、神の求めておられる信仰とは、イエスに向かいあう信仰、神との人格の関係の中に生きる信仰です。このような信仰は宗教改革以前になかったわけではありません。しかし、一部の聖人、聖徒たちだけのものだと考えられており、一般の民衆は形式的なものでこと足れりとされてきますた。宗教改革は、すべてのクリスチャンが「聖徒」であり、神との交わりの中に生きるべきことを教えたのです。

 病気の女性はイエスの着物にさわったとき、即座に痛みがとれ、病気が治ったことをからだで感じました(29節)。そればかりでなく、イエスも、「自分のうちから力が外に出て行ったこと」を感じました(30節)。それでイエスは「だれがわたしの着物にさわったのですか。」(30節)と言って人々を見回しました。イエスは、全知全能のお方ですから、誰が自分の着物に触ったかを知っておられましたが、彼女のほうから名乗り出るのを待っておられたのです。なぜ、イエスはそうされたのでしょうか。「イエスの着物にでもさわれば…」というのが迷信的な信仰になりかねないからそれを正すためだったのでしょうか。そうではありません。イエスは彼女の女性を立派な信仰として誉めておられます。それとも、彼女がイエスの正面に来て、正式に「私の病気を治してください。」と頼まず、背後からイエスの力を盗み取るようなことをしたのを立腹したからでしょうか。そうではないと思います。イエスは、寛大であわれみ深いお方です。彼女にとって、痛みをこらえてイエスに追いつくのが精一杯でした。イエスの前にたちはだかって、会堂管理人ヤイロの娘のいやしのために急いでいるイエスの足を止めることはできないと、彼女は思ったので、後ろからイエスに触れたのでしょう。それなら、イエスがヤイロの娘をいやすのを見届けてから、自分のいやしを願えばよいではないかと言う人もいるかもしれませんが、イエスがふたたび、彼女のところに戻ってくるとは限りませんし、ヤイロの家に行けばかならずイエスに会えるという保証もなかったでしょう。彼女はそのとき彼女にできた精一杯のことをしたのです。

 イエスは、この精一杯の信仰を誉めてくださいました。しかし、同時に、彼女の信仰がもっと確かなものとなり、祝福されたものとなるために、イエスのうしろから近づいた彼女が「イエスの前に出る」ようになさいました(33節)。十二年も病気を患っていた彼女にとって、病気のいやしはなによりも素晴らしい神からのギフトでした。いやされたことを感じたその瞬間、踊りあがって、自分の家に帰ろうとしたかもしれません。しかし、彼女がそのまま家に帰ったなら、いやしは得ても、いやし主を持たないままになってしまうことを、主は良くご存知でした。いやしは素晴らしい賜物ですので、いやしを求めることだけに心が行ってしまって、いやし主に向かわないということもあることを私たちは知っています。イエスはこの女性にいやしを信じる信仰だけではなく、いやし主とまじわる信仰へと導こうとされたのです。彼女は、群衆にまぎれて、群衆の中のひとりとして背後からイエスに近づきましたが、今は、イエスの前に出ています。もはや群衆を意識することなく、主イエスに目を向け、一対一でイエスの前に出ています。「イエスの前に出て…イエスに…打ち明けた」とあるとおりです。私たちはこうして他の人々といっしょに礼拝をささげています。それは素晴らしい恵みで、それがどんなに助けになるかはお互いがよく経験していることです。しかし、大勢の中のひとりとなることによって、主が、あなたの信仰に与えておられるチャレンジに避けるようなことをしていないでしょうか。集まりが大きくなればなるほど、そのような危険が伴います。たとえ他の人々と共に礼拝するときでも、「主とわたし」という関係の中で、主の前に出て、主イエスと顔をあわせることを、私たちは求めなければなりません。神は私たちが神との人格と人格の関係に入ることを常に求め、そのために、私たちの信仰にチャレンジをお与えになります。

 マルコ9章に、ある父親がイエスのところに来て、「息子から悪霊を追い出してください。」と頼んだことが書かれています。父親は「もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」と言いました。そのとき、イエスはその父親を叱り、「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」と言われました。イエスがそう言ったのは、この父親を斥けるためではありません。この父親の願いを聞いてあげたいからこそ、この父親の信仰にチャレンジを与えたのです。父親はイエスのチャレンジに答えて、「信じます。不信仰な私をお助けください。」と言いました(マルコ9:22-24)。「不信仰な私をお助けください。」とは、すばらしい信仰です。それは、自分の信仰を誇ってずうずうしく主の前に出るのでも、「私は不信仰で救われる資格がない。」と言って主の前から去っていくのでもなく、「不信仰な者でも救ってくださる」神の恵みを信じて、神のあわれみを求める信仰です。

 イエスがこの女性のために歩みを止めている間に、ヤイロは娘が息を引き取ったという知らせを受けます。ヤイロは、落胆したでしょう。もうイエスに来ていただいてもしょうがないと思ったでしょう。しかし、イエスはヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」(マルコ5:36)と言われました。イエスは、ヤイロこの女性のいやしを見せて、彼の信仰にチャレンジされたのです。イエスは、小さな信仰しかない私たち、また、すぐに信仰を失いかけてしまう私たちに、たえずチャレンジしていてくださるのです。

 イエスは彼女に「あなたの信仰があなたを直した。」と言われましたが、ほんとうは、イエスが彼女を直したのです。なのに、イエスは、彼女の信仰を誉め、その信仰を喜んでくださいました。そして彼女に「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」と言われました。イエスは「安心して帰りなさい。Go in peace.」と言われ、彼女に肉体のいやしだけでなく、たましいのいやし、「平安」を与えました。ほんとうの平安は、神との正しい関係に導かれ、完全に神に受け入れられているということ、つまり「神との平和」から来ます。神の与えてくださる平安とは神との平和、神との親しい関係です。彼女には病気のいやしだけでなく、この神との人格と人格の関係が必要でした。いやしの真の目的は、私たちをいやしそのものにではなく、いやし主に導くことにあります。いやしを信じるだけではなく、いやし主に信頼することが何よりも大切です。いやし主から来る深いたましいの平安をいただいてこそ、いやしは私たちを生かすものとなるのです。

 今朝、神のことばに聞く信仰、神の恵みに信頼する信仰、そして、主との生きたまじわりに生きる信仰について学びました。このような信仰によって主の前に出ましょう。そして、主から "Go in peace." ということばを聞き、神からの平安で満たされて一週間の歩みを始めましょう。

 (祈り)

 私たちの信仰とも呼べないような信仰をも受け取ってくださる主よ、あなたは、それがどんなに小さくても、私たちの精一杯の信仰を受け止め、それに答えてくださいます。そればかりでなく、その小さな信仰を、あなたが喜んでくださる信仰へと、みことばによって養い育ててくださいます。あなたが与えてくださる信仰のチャレンジから身をひくことのないよう、私たちの信仰がみことばによってさらに養われるよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/28/2007