「三位一体」の神

マルコ1:9-15

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1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」
1:12 そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。
1:13 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。
1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

 今日は「三位一体主日」です。「三位一体」というのは、おひとりの神が、父、御子、御霊なるお方として存在しておられ、父なる神、御子イエス・キリスト、聖霊がおひとりの神であるということです。父と御子と御霊なら、神は三人おられるのかというと、そうではなく、神はただおひとりなのです。「1+1+1=3」ではなく、「1+1+1=1」なのです。それは、論理的ではないと言われそうですが、神は、私たちの知性や論理だけで理解できるお方ではないのです。4月17日の礼拝で、「私たちは、神を完全には理解することはできない。神は、私たちが知り尽くすことができるほど小さなお方ではない。」ということを学びました。それを神の「不可把握性(incomprehensiveness)」と言いましたね。人間にもある程度は与えられている、愛やあわれみ、正義や真実などといった、神のご性質さえ、私たちが完全に理解できないとしたら、「三位一体」という、神の存在にかかわることを完全に理解できないのは当然のことです。「三位一体」を人間の知恵や知識で理解しようとすることは、聖アウグスティヌスが言っているように、こどもがバケツで海の水をくみ出そうとするようなものです。アウグスティヌスは、『三位一体論』という書物を書き、その中で、「私が三位一体について書いているのは、それを書き表わすことができるからではなく、三位一体について沈黙しないためである。」と言っています。

 「+」(足す)の記号を45度かたむけると「×」(かける)の記号になりますね。「1+1+1=1」は数学的には正しくありませんが、「1×1×1=1」なら、正しくなります。足し算の世界では解けないことが、かけ算の世界では解くことができるのです。このように、「三位一体」は、人間の理性だけで理解するものではなく、信仰によって理解し、信仰生活の中で体験すべきものなのです。

 一、御父と御子

 私たちは、「三位一体」を信仰によってとらえますが、「三位一体」の神をまだ信じることができないでいる人には、「三位一体」の神をどのように話したらいいでしょうか。「三位一体」という言葉は、たとえば、「政府と、大学と、企業とが、『三位一体』となって新技術を開発する。」などというふうに使われますが、そこで意味されていることは、聖書でいわれていることとは、ほど遠いことです。「三位一体」は、古代から正三角形のシンボルを用いて表現されてきました。正三角形のそれぞれの辺はみな等しく、角度も同じであるように、父と子と聖霊はあい等しいお方であるというのです。また、水は、常温では液体であるが、高温になると水蒸気となって気体になり、低温になると氷になって固体になりますが、そのように、神は、父、御子、御霊であっても、本質においては一つである、などという説明がなされてきました。しかし、どの説明も、完全なものではなく、「三位一体」をたとえることのできるもの、それに匹敵するものは地上にはありません。しかし、聖書は、いろいろなところで、「三位一体」の神を描いていますので、そういったところから、「三位一体」の神を示すのが一番良いように思います。今朝の箇所、主イエスがヨハネからバプテスマをお受けになったところには、「三位一体」の神が、まるで絵のように描かれています。ここは、「三位一体」を説明するのに、とても良い箇所です。イエスがヨハネからバプテスマを受けた時、天からの声が響き、イエスの上に鳩のように下ったものがありました。天の声は、父なる神の声で、鳩のように下られたのは御霊です。ここには、父、御子、御霊の「三位一体」の神が同時に描かれています。

 おひとりの神が三つであり、三つの神がおひとりであるという聖書の教えは、人間の理性で完全に理解できない教えです。それで、三位一体の教えは、昔から、否定されるか、合理化されてきました。神はおひとりであって、御子や、御霊は、ひとりの父なる神の別のあらわれにすぎないという考えもありました。ひとりの神が、ある時は父、ある時は御子、ある時は御霊と、ひとり三役をしているというのです。もしそうであれば、この場面では、神は、さぞかし、忙しかったでしょうね。父の役、子の役、御霊の役を同時にしなければならないのですから。天の御座に座して、地上に声をかけ、それと同時に、人の姿で地上に立ち、また、聖霊として、天から地上へと降ってこなければならなかったのです。神であれば、どこにでも、同時にいることができるとはいうものの、それでは、イエスのバプテスマの時に、父が御子に声をかけ、御霊が御子にくだったというのは、神のひとり芝居ということになってしまいます。しかし、この箇所には、たしかに、父なる神、御子なる神、御霊なるお方が、それぞれに別個のものとして働き、それでいて、父も、御子も、御霊も、あい等しいお方であることが表されています。

 イエスに対する天からの声は「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」というものでした。この最初の部分「あなたは、わたしの愛する子」というのは、詩篇2:7から取られています。詩篇2:7には「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」と言われています。ここはキリストの預言として古くから認められている箇所です。神以外のすべてのものは神によって「造られた」ものです。天使も人間も造られたものです。しかし、御子は「生まれた」お方です。ある人は「生まれた」のも「造られた」のも、たいして変わらないと言うかもしれません。しかし、「造られた」というのは、ある時点から存在を始めたということであり、「生まれた」というのは、永遠の先から存在しておられたことを意味します。御子はいつか、ある時点で造られた方ではありません。永遠の先から生まれていたお方です。御子は父と同じく永遠の存在者なのです。神は、御子以外のどんな者にも「生んだ」とはおっしゃいません。「生んだ」という言葉は、御子が神であり、イエスがその御子であることを表しています。

 「生んだ」ということばはまた、父の御子に対する愛の関係を表わしています。神は唯一のお方ですが、決してひとりぽっちのお方ではありません。神は御子をお持ちになり、御子を愛しておられます。ヨハネ3:16に「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」とありますが、神は私たちを愛してくださる前に、ひとり子を愛しておられました。神は、その最愛の御子を死なせるまでに私たちを愛してくださったというのが、ヨハネ3:16のメッセージです。神が、「三位一体」のお方であり、父が御子をどんなにか愛しておられたかを知らなければ、ヨハネ3:16のメッセージはほんとうの意味では理解できないことでしょう。「あなたは、わたしの愛する子」という、天からの、父なる神の声は、イエスが神の御子キリストであることと、父なる神と御子イエスとの永遠の愛の関係を言い表すものでした。

 二、御子と御霊

 神の御声の後半、「わたしはあなたを喜ぶ。」というのは、イザヤ42:1の「見よ。わたしの支えるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。」というところからとられています。ここでは御子に与えれた使命が示されています。御子は御父と等しい栄光をお持ちであるのに、私たちを救うという、神からの使命を背負って、地上に立たれたのです。その御子の上に御霊が下りましたが、これは「わたしは彼の上にわたしの霊を授ける。」という預言の成就です。御子は、御霊によって、御父の使命を果たされるのです。天からの声とともに、天から下った聖霊が、イエスが御子キリストであることを力強くあかししています。

 イエスはバプテスマを受けた後、四十日間、荒野でサタンの誘惑を受けました。その時、サタンはイエスに近づいて「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい。」「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。」(マタイ4:6)と言っています。サタンは、イエスが神の子であることを知っていました。だからこそ、サタンはイエスの神の子としてのみわざを妨げようとしたのです。また、今は、人間に対して、イエスが神の子であることを信じさせまいとしているのです。人間には天の邪鬼的なところがありますから、「イエスは、神ではない。」と言うと反発されるので、「イエスは、最も神に近い存在である。神のようなお方である。神的な存在である。」などという言い方をします。しかし、どんなに「神に近い、神のようである、神的である。」と言っても、結局は、イエスが神であることを否定しているのです。アメリカには「我らの父はサタン」と言ってはばからない「サタニック・チャーチ」の人々もいますが、多くの場合、サタンは「キリスト教」を名乗るグループに入りこんで、イエスが神であることを否定する教えを広げています。ヨハネの手紙第一2:23に「だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも持っているのです。」とあります。イエスが神であることを否定することは、父なる神をも否定することになるのです。私たちは、聖書をしっかり学び、サタンの策略に乗せられ、神から離れることのないようにしたいものです。

 この荒野の誘惑について、マルコ1:12に「そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやれらた。」とあります。「三位一体」の神が、父、御子、御霊という順序で呼ばれるように、父は、第一のお方です。御子は、父から生まれ、父に服従されました。また、御霊は、父と御子から遣わされたお方で、父と御子に服従されます。御子は父の栄光を表わし、御霊は御子の栄光を表わします。聖霊は常に、第三のお方として働かれますので、私たちはついつい、聖霊が神であることを忘れがちです。聖霊は、火や油、水や鳩などのシンボルで表わされますので、聖霊がご人格を持ったお方であることを見落としてしまうこともあります。しかし、ここでは、聖霊は、御子の上に主権を持っておられ、イエスを「荒野に追いやって」います。「追いやる」とは、ずいぶん強い表現ですが、ルカ4:1には、口語訳や新共同訳では「御霊に引き回されて」とあります。これは動物に綱をつけて引き回す時に使う言葉です。これは、御霊が御子の上に主権を持っておられたことを表現しています。

 イエスの公の生涯に力を与えたのは聖霊でした。ペテロは使徒10:37-38で「あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。」と語っています。このことばの通り、聖霊は、イエスの地上の生涯においては、イエスの上に主権を持っておられました。

 このように聖書は、はっきりと、父、御子、御霊の神を示し、父、御子、御霊が互いに等しいお方であり、ひとつのお方であることを表わしています。

 三、父、御子、御霊と私たち

 「三位一体などという概念は、知性を持った人間が受け入れられるものではない。だから、私は三位一体の神を信じない。」という人がいますが、考えて見れば、これはとても高慢な言葉です。これは、「自分が理解できないものは神ではない。」ということになり、その人は、自分の知性を世界で最高のものであると考えているのです。突き詰めていけば、その人は、自分を「神」にしてしまっているのです。それに、人間が理解しつくすことのできるものが「神」だとしたら、それは、人間以下のものでしかありません。人間が人間以下のものをあがめ、その足下にひれふすということほど、理性にかなわないことはありません。しかし、偉大な神を信じてきた者たちは、みな神の前にへりくだり、そのことによって、「三位一体」の神を受け入れてきました。私たちが父なる神に近づくことができたのは、自分の力によってではなく、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われた御子キリストによってでした。また、私たちがイエス・キリストへの信仰を告白できたのも、「聖霊によるのでなければ、だれも、『イエスは主です。』と言うことできません。」(コリント第一12:3)とあるように、聖霊によってでした。人は、地上でどんなに業績を積み重ねたからといって、それで神に近づくことができるわけではありません。地上で人間が誇るようなものは、偉大な神から見れば、ちりのようなものであって、神は、やがて消え去るべきものにしがみつき、それを誇る人間の高慢を嫌われるのです。また、聖霊なしに、誰も、キリストに従うことはできません。キリスト教を宗教として守ることは、聖霊なしにも出来るでしょう。しかし、外面を整えても、内面が変えられなければ、すべてを見通し、すべてを裁かれる神の前に立つ時、そのようなものは何の役にも立たないのです。聖書は、人間の生まれつきのままの性質を「霊」に対して「肉」と呼んでいます。「クリスチャンらしく」ふるまうことは、聖霊なしに、「肉」によって出来るでしょう。しかし、その人の内面が変えられ、ほんとうの意味で「キリストのように」変えられていくのは、聖霊によらなければ、「霊」によらなければできないのです。キリストなしでも神に近づき、聖霊なしでもキリストに従うことができると言うことのできる人はだれひとりいません。「キリストなしには私は救われなかった。」「聖霊なしは、私は信仰を持つことができなかった。」ということを認め、神の前にへりくだることが、「三位一体」の神を知るということなのです。

 今朝は、イエスのバプテスマの場面から「三位一体」の神について考えましたが、実は、イエスが受けたバプテスマと、私たちの受けたバプテスマには、深い関連があります。父なる神が、イエスに、「あなたは、わたしの愛する子」と声をかけられたように、私たちも、イエス・キリストを信じる時、神の子どもとされ、バプテスマによって、「おまえはわたしの子となった。」という宣言をしていただいたのです。また、バプテスマが、イエスに与えられた使命を明らかにするものであったように、私たちも、バプテスマによって、神に仕え、神のために生きるという使命を与えられたのです。そして、イエスの上に聖霊がくだられたように、神は、キリストを信じた者のうちに聖霊を住まわせてくださいました。聖霊によって、私たちは、神に向かって、「アバ、父よ。」と呼び、また、神から与えられた使命に生きることができるのです。キリストは「父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授けよ。」(マタイ28:19)と言われましたが、この「名」という言葉は、父と、子と、聖霊の名といわれているのに、複数ではなく、単数です。父、御子、御霊がおひとりの神であるからです。クリスチャンは、「父と子と聖霊の名によって」バプテスマを受けた時、父、御子、御霊の神を告白し、「三位一体」の神を体験したのです。

 バプテスマから始まる信仰生活、礼拝の生活は、「三位一体」の神をさらに深く知り、あがめる生活です。私たちは、礼拝で、「使徒信条」を唱える時、「我は、父なる神を信ず。主イエス・キリストを信ず。聖霊を信ず。」と、「三位一体」の神への信仰を言い表します。礼拝の最後には、「父、御子、御霊の大御神に、ときわに絶えせず、み栄えあれ。」と、「三位一体」の神を賛美し、「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」(コリント第二13:13)と、「三位一体」の神からの祝福を受けます。このように、父の愛、キリストの恵み、そして、聖霊が生み出してくださる神とのまじわりと、神を信じる者とのまじわりを、さらに深く体験していくのです。「三位一体」は信仰によって理解し、信仰生活の中で体験するものです。この信仰と体験をさらに深めていく私たちでありたく思います。

 (祈り)

 主なる神さま、あなたの存在は、私たちの限られた知識や理解によっては知り尽くすことのできないものです。しかし、あなたは私たちに信仰を与え、あなたを信じることにより、あなたに従うことにより、なによりもあなたを礼拝することによって、あなたを体験的に知ることができるようにしてくださいました。これから私たちは、三位一体後第一主日、第二主日と週を重ねていきます。三位一体後の一回一回の礼拝を、よりあなたを知り、あなたの栄光をあがめる礼拝としてください。御子キリストのお名前で祈ります。

5/22/2005