悔い改めの恵み

マルコ1:1-5

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1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。
1:5 そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。

 今年は、「目的の四十日」のプログラムがあって、礼拝では「人生の目的」についてシリーズでお話ししてきました。その後、今年の主題聖句「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア6:3)に関連して、神がどのようなお方かということについて、シリーズでお話ししはじめたところです。しかし、礼拝には、まだクリスチャンでない方、信仰を求めておいでになっている方々が多くいますので、時々は、シリーズから離れて、信仰の基本的なことをお話しするようにしたいと思っています。今朝は「悔い改め」についてお話しするのですが、「悔い改め」という主題は、おそらく、一番人気のないメッセージの主題かもしれません。聖書には、「喜び」や「平安」、「勝利」や「確信」、「希望」や「慰め」などといった主題が沢山あります。もっと他の主題について話してくださいというリクエストが出できそうですが、私は、そうしたことを話す前に、やはり、「悔い改め」ということを話しておきたいと思います。なぜなら、悔い改めは、信仰を持っている者、また、信仰を求める人がまず、最初に学んでおかなければならないことだからです。主にある喜び、罪を赦され、神に受け入られている者が味わう深い平安、何事がおこっても押し潰されることがなく前進することのできる勝利、自分の人生が神のみこころの中にあるという確信、ゆるがない希望、人の慰めでは得られない神からの慰めを受ける幸いなど、すべての恵み、祝福は、悔い改めから出てくるからです。

 一、悔い改めと聖書の教え

 ですから、聖書は、悔い改めをとても大切なこととして教え、それを他の教えの最初に置いています。今朝の聖書、マルコの福音書第一章には、キリストの先駆者であるヨハネという人物が出てきます。洗礼者ヨハネは、「罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ」を説いていました。人々に悔い改めを教えていました。このヨハネから洗礼を受けた主イエスも、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)と言って、人々に悔い改めを教えました。マルコの福音書は、「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」ということばで始まっていますが、福音のはじめ、つまり、キリストの最初の教えは、「悔い改め」の教えだったのです。何事も、ものごとのはじまりというものは大切ですが、悔い改めは、キリストの教えの出発点であり、基礎でした。

 主イエスは、その後も、悔い改めを教え続けました。「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」(ルカ5:32)「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたも悔い改めて子どもたちのようにならない限り、決して天の御国には、はいれません。」(マタイ18:3)ということばは良く知られています。主イエスはルカ15章全体を使って、悔い改めについて三つのたとえ話を語り、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)と言っておられます。主イエスがこれほど、繰り返し悔い改めを教えておられるのに、それを避けて通るとしたら、それは、薄目を開けて聖書を読むようなもので、主イエスの教えの大切なものを見逃してしまうことになります。

 主は、復活の後、弟子たちに聖書を説き明かして、言われました。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:46-48)キリストを信じる者たちは、「罪の赦しを得させる悔い改め」を証しする者だというのです。クリスチャンが悔い改めを知らなくて、どうして悔い改めを証しすることができるでしょうか。そして、悔い改めを証しできなくて、どうして、聖書が約束している最高の恵みである罪の赦しを人々に得させることができるでしょうか。私たち、お互いは、自分にそうした、悔い改めの体験があるかどうかを問うてみる必要があります。

 主イエスの直接の弟子たちは、悔い改めを体験をしています。ですから、ペテロは、主イエスを十字架につけた人々に向かって、「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」(使徒2:38)と説教することが出来たのです。弟子たちは、「罪の赦しを得させる悔い改め」を、主のことばどおりに、あらゆる国の人々に宣べ伝えていったのです。

 使徒パウロも、悔い改めを教えました。彼は、アテネの町で、「神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」(使徒17:30)と説教し、自分の伝道をふりかえって、「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張した」(使徒20:21)と言っています。聖書には、このようにはっきりと「悔い改め」が教えられています。聖書から悔い改めの教えを取り去ってしまうなら、私たちは聖書を台無しにしてしまうことになります。

 二、悔い改めと後悔

 では、そんなに大切な悔い改めとは、いったい何なのでしょうか。新約聖書には、悔い改めを表わす言葉がふたつあります。最初の言葉は、「メタノイア」です。「心を変える」という意味があります。悔い改めは、もちろん、心の中だけのものではなく、実際の行動に現れてくるものですが、それは、まず心の中からはじまるものでなければなりません。詩篇51篇は、悔い改めの詩篇として知られていますが、その17節に「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」とあります。悔い改めは、心が砕かれること、心の変化からはじまるのです。人の行動は、その人がどのように考え、どのように感じ、どのように決断するかによって、決まります。春になると、球根から芽が出、成長し、やがて花を咲かせるように、言葉という芽も、態度という葉も、行いという花も、私たちの心という球根から出てきます。赤い花の球根は赤い花を咲かせ、青い花の球根は青い花を咲かせます。もし、白い花を咲かせたいと思ったら、白い花の球根を植えなければならないように、私たちも、言葉や態度、行いを変えたいと思うなら、その根元から、つまり、物の考え方、物の感じ方から変えなければならないのです。心が変わらない限り、その人の態度も、言葉も、生活も、根本的には変わらないでしょう。うわべだけを変えても、それは一時的なもので終わってしまいます。たとえば、うわべだけ謙遜そうにしていても、心が砕かれていなければ、たえず高慢さが頭をもたげてきて、その人の人生は、それによってコントロールされてしまいます。高慢だけでなく、虚栄や劣等感、憎しみやねたみ、さまざまな欲望や悪習慣などといった、人の心を捕らえているものが、その人の人生をコントロールしてしまうのです。たった一度しかない、短い人生を、そんなものにふりまわされて終わっていいのでしょうか。悔い改めによって、心の底から変えられていく体験をし、そういうものに訣別したいと思いませんか。

 そのためには、神のことばの真理に向かい合い、それを受け入れることが必要です。心が、神のことばの光に、照らされる時、私たちは、今まで気がつかなかったさまざまな罪を示されます。その時、自分の罪を認め、神に赦しを願うのです。自分の弱さを認め、神の力に頼るのです。そこから、心の変化、本当の悔い改めがはじまるのです。

 「悔い改め」(メタノイア)に似た言葉に「後悔」(メタメレイヤ)がありますが、このふたつは全く違うものです。後悔というのは、「あんなことをしなければ良かった」と、過去の失敗を悲しむことです。「後悔」は「後ろを悔やむ」と書きますが、後悔は後ろ向きです。過去にしか目を向けていません。しかし、悔い改めは、もっと前向きです。それは、過去と訣別して、将来に向かって歩み出すことです。

 コリント人への手紙に「悔い改め」と「後悔」とが、比較されている箇所があります。コリント第二7:8-10です。読んでみましょう。「あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。あなたがたは神のみこころに添って悲しんだので、私たちのために何の害も受けなかったのです。神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」ここで、「あの手紙」とあるのは、コリントの教会にあった不道徳に対して、パウロが、罪を犯している者に厳しい処分をするように命じた手紙のことをさしています。コリントのクリスチャンたちは、パウロの指示によってその処分を断行したのですが、その時、教会に真実な悔い改めが生まれました。もし、神を知らない人々なら、「あんな指示をもらって、面目がまるつぶれだ。」とか、「きちんとした生活をしている我々まで悪者にされてしまって、とんだ迷惑だ。」「こんな手紙をよこしたパウロなどに従う必要はない。」などと考えたかもしれません。しかし、コリントのクリスチャンたちは、問題だらけでも、神を知り、神の恵みを知っていて、自分たちの罪を悲しみ、神に対する熱心を呼び覚まされ、また、コリント教会の生みの親ともいうべきパウロを慕う思いがもう一度よみがえってきました。コリントの人々は、その心を変えたのです。悔い改める必要のないほど立派なクリスチャン、教会はどこにもありません。教会に問題があることが問題なのではなく、悔い改めることなく、問題がないかのように振舞うことが問題なのです。私たちも、自分たちの罪を正直に認めましょう。そして、そこから、真実な悔い改めに導かれて行きましょう。

 コリント第二7:10に「神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。」とあります。この箇所は、悔い改める者は、後悔しない。しかし、悔い改めないなら、後悔が残ると言っています。私たちのうちに真実な悔い改めがあれば、後悔のない人生を送ることができ、悔い改めがないなら、たとえ、どんなにものごとが順調に行ったとしても、その生涯の最後にはかならず後悔が残るでしょう。あなたはどちらの人生を選びますか。自分の惨めさだけを見つめて後悔する人生でしょうか。それとも、悔い改めて、希望に向かっていく人生でしょうか。「後悔」(メタメレイヤ)によってでなく、「悔い改め」(メタノイア)によって人生を歩みたいものです。

 三、悔い改めと祝福

 「悔い改め」を表わす言葉が新約聖書には二つあると言いました。一つは、メタノイア、心を変えることですが、もう一つは「エピストロフェー」です。これには「立ち返る」という意味があります。ペテロは、「だから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ちかえりなさい。」(使徒3:19)と言い、パウロは「ダマスコにいる人々をはじめエルサレムにいる人々に、またユダヤの全地方に、さらに異邦人にまで、悔い改めて神に立ち返り、悔い改めにふさわしい行ないをするようにと宣べ伝えて来たのです。」(使徒26:20)と言っています。どちらも、「悔い改めて、神に立ち返る」とあって、メタノイアとエピストロフェーの両方が組み合わさって使われています。「悔い改め」は人の心の中に起こりますが、それは、心の中だけで終わるものではありません。悔い改めは、自分を正直に見つめることから始まりますが、決して、自分の中に閉じこもることではありません。悔い改めは、心が神に向かうことであり、古い自己の殻を脱ぎ捨て、神のもとに返ることです。

 悔い改めが、心の変化と神に立ち返ることから成り立っていることは、ルカの福音書15章にある放蕩息子のたとえ話に、みごとに描かれています。親の財産を食いつぶして、ブタ飼いになり、ブタの食べる餌さえ食べたいと思うほど、どん底に落ちた放蕩息子は、その時、どうしたでしょうか。ルカ15:17に「本心に立ち返った」とあります。自分の心を変えたのです。放蕩息子は、親の財産を使いたいだけ使って、好きなことをしていた時には、自分の姿がまったく見えていませんでした。しかし、どん底にまで落ちた時、彼は、やっと自分の姿に目覚めたのです。彼は、自分の惨めさを認め、「本心に立ち返り」ました。心の変化が彼のうちに起こったのです。そればかりでなく、彼は、父の家を思い出し、返るべきところに返ろうと決心し、ブタ小屋を後にしました。聖書は「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」と言っています。放蕩息子が、たとえ、心を変えたとしても、もしブタ小屋に留まっていたら、彼の状況は何一つ変わりませんでした。そこから立ち上がって、父親のもとに返ることによって、彼は救われたのです。このように、聖書は、悔い改めとは、心の変化に続いて、神に向うこと、神に立ち返ることであると教えています。

 さきほど、私は「後悔は後ろ向きで、悔い改めは前向きだ。」と言いましたが、「後悔は自分に向かい、悔い改めは神に向かう。」と言い換えることもできます。詩篇51:10に「神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。」との祈りがあります。自分の罪や弱さを認めるだけでは、そこから立ち上がることはできません。その罪を赦し、弱さを支えてくださる神に向かっていく時、神は、私たちに、赦しを与え、力を与えてくださるのです。それは、悔い改めた者だけが味わい、体験することの出来る恵みです。放蕩息子は、雇い人のひとりにしてもらおうと、父の家に帰りました。ところが、父親は、彼を息子として迎えました。彼に着物を着せ、指輪をはめ、履物を履かせました。当時のしもべたちは、裸、はだしで働きましたから、着物や履物は、彼が息子として受け入れられたことを表わしています。また、当時の指輪は印鑑の役目もしていましたから、指輪が与えられたことは、一家の財産を左右する権限が与えられたことを意味しています。放蕩息子は、悔い改めによって、その過去が赦されただけでなく、すべての特権をもった息子として受け入れられたのです。同じように、父なる神は、悔い改めるものに、罪の赦しばかりでなく、神の子としての特権を与えてくださいます。神を「父よ」呼ぶことができるまじわりを回復してくださるのです。そして、そのまじわりの中で、私たちは、神の子らしく変えられていくのです。

 神は、今も、私たちを悔い改めによって造り変えてくださいます。「アメイジング・グレイス」は、「アメリカ第二の国歌」と言われるほど愛されている賛美歌ですが、それは、"Amazing grace! How seeet the sound. That saved a wretch like me!" と歌っています。「驚くべき恵み。なんと慕わしい響き。この恵みによって私のようなろくでなしが救われた。」という意味です。"wretch" という言葉には「哀れで、惨めで、恥知らずの嫌われ者、ろくでなし」という意味がありますが、古くは「追い出だされた者」という意味で使われていたそうです。実際、この歌の作者、ジョン・ニュートンは、若い頃、とんでもない不良で、父親の怒りをかって、家を追い出され、アフリカに捨てられたことがありました。彼は、そこで原住民の人たちよりもひどい生活をしていましたが、やがて、父親の怒りが解け、本国に帰ることになりました。ところが、彼の乗った船が大嵐に巻き込まれ、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされた時、彼は、自分の罪を悔い改め、神を信じたのでした。その後ジョンは、しばらくは、奴隷船の船長をしていましたが、それともきっぱりと縁を切り、牧師となって神に仕えました。不良青年も、奴隷船船長をも、神は、悔い改めによって造り変えてくださったということを歌っているのが、この賛美歌なのです。この賛美は、神の恵みを歌うとともに、悔い改めについても歌っています。

 日本で元ヤクザだった人々が、奥さんの祈りによって、あるいは、両親の祈りによって救われ、献身して牧師になっていきました。その中のひとり、金沢泰裕先生が、三月にサンノゼに来て、メッセージを語ってくださいました。神は、悪の限りを尽くしてきた青年をも悔い改めによって、神の愛と赦しを語る伝道者にしてくださったのです。金沢先生も、主イエスを信じてから、生活が変わるまでは時間がかかったと言っていました。すべての人が、悔い改めて、すぐに生活が一変するとはかぎりません。しかし、心の深みが変えられ、その心が神に向かっているなら、その人の人生はかならず変わって行きます。金沢先生の小指は、指をつめたままで短く、それは変わりませんが、その表情や態度、言葉は、謙遜でまっすぐな主のしもべの姿そのものでした。心を変えられないままの人生は、外側の力に押されたり、引っ張られたりして、浮き沈みの激しい、不安定なものですが、心を変えられた人の人生は、その内側に、人生を導く力がありますから、その力によって、たとえゆっくりではあっても、かならず変えられ、成長していくのです。悔い改めによって、神の赦しと力とを、存分にいただこうではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちは、悔い改めという言葉を聞く時、それを後ろ向きなものと考え、単に過去を悲しむだけのものと考えていました。しかし、今朝、悔い改めがもっと前向きのものであり、あなたに向かうものであることを知りました。それは、私たちに光を与え、将来を与えるものです。あなたが私たちに悔い改めを求めておられるのはあなたの愛から出ています。あなたは、みことばにあるように「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられ」(ペテロ第二3:9)ます。ですから、私たちは進んで、悔い改め、あなたに立ち返ることができます。悔い改めによって、悔いのない人生、恵みと力にあふれた人生を歩む私たちとしてください。私たちに悔い改めを教えてくださった主イエスのお名前で祈ります。

5/1/2005