イエスを「主」と呼ぶなら

ルカ7:46-49

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6:46 なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。
6:47 わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。
6:48 その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」

 この講壇にかけられている布は「プルピット・スカーフ」と言います。「プルピット・スカーフ」には赤、白、緑、紫の四色があり、教会のカレンダーに従って取り替えられます。今は三位一体後のシーズンですので、緑色のスカーフがかかっています。「緑」はいのちや成長を表わします。イエス・キリストの復活によって与えられた永遠の命が信じる者たちのうちに成長するようにということを私たちに教えてくれます。

 この緑のスカーフに「IHS」という文字があるのですが、「それは何のことですか」という質問をもらいました。ソーシャルホールに飾られている十字架の真ん中にも「IHS」の文字が刻まれています。その十字架は40年近くずっとそこにありましたから、その十字架を仰ぐたびに、それを目にしていたはずです。もし、それに気づいていなかった人がいたら、礼拝の後ソーシャルホールに行ったとき十字架を仰ぎ見てください。「IHS」とはイエスのお名前を指します。「イエス」はギリシャ語で「ΙΗΣΟΥΣ」と言い、最初の三文字がイオータ、エータ、シグマ、英語式に言えば「IHS」になるのです。「IHS」はイエスのお名前を示すものです。これはまた、ラテン語で「Iesus Hominum Salvator」(「イエスは人類の救い主」)という意味だという説もあります。

 教会はこのようにイエスのお名前を建物に刻み、心に刻み、イエスのお名前をほめたたえて礼拝をささげ、イエスのお名前を呼び求めて祈り、イエスのお名前の持つ力を学び、それを宣べ伝えてきました。礼拝堂に入って「IHS」の文字を目にするとき、このお方が礼拝の中心であることを覚えましょう。ソーシャルホールに行って「IHS」の文字を目にするとき、そこでの集いがイエスのお名前によってなされている集いであることを覚えましょう。そして、イエスのお名前によって力を受け、家庭に、職場に、地域に、社会にイエスのお名前によって遣わされていく、そんな日曜日でありたいと思います。

 一、主への信仰

 私たちは「イエスさま」、「イエスさま」とイエスのお名前を呼んで祈ります。たいていは、そこに「主」というタイトルをつけて、「主イエスさま」と呼びかけることが多いと思います。聖書にも「主イエス」、あるいは「主イエス・キリスト」ということばが何度も出てきます。私たちは、ふだん、「主イエス・キリスト」ということばをあまり深く考えないで口にするかもしれませんが、じつはこれは「イエスは主であり、キリストである」という信仰の告白なのです。

 「イエスは主である」というのには二つの意味があって、それは第一にイエスが「神」であることを言い表わしています。旧約では、神は「ヤーウェ」というお名前でご自分を表わされました。「ヤーウェ」というのは、文語訳の聖書では「エホバ」となっており、「有ってある者」という意味のお名前です。「有ってある者」というのは、神があらゆる存在の根源であるお方、この世界を創造し、あらゆる生き物を生かしてくださっているお方であることを言っています。この世界も、私たち人間も神の力に支えられて存在しているのであって、いわば「有って無きがごとき者」です。ただ神だけが「有ってあるお方」です。また、神は「生きておられるお方」です。神は生きたお方であり、人間を生かしていてくださるお方です。神は非人格的で、人間からはるか離れた抽象的な存在ではありません。聖書は、神を人間に語りかけ、人間に耳を傾けてくださるお方、生ける神、リアルな実在のお方であると教えています。

 神から旧約聖書を授かったユダヤの人々は「ヤーウェ」のお名前を、あまりにも聖なるものであるから、口にするのも恐れ多いと考えて、聖書を朗読するときに「ヤーウェ」と書いてあっても、それを「アドナイ」(わが主)と読み替えました。それで、ヘブル語の聖書がギリシャ語に翻訳されたとき、「ヤーウェ」とあるところはギリシャ語で「キュリオス」(主)となりました。今日の日本語の訳でも文語訳で「エホバ」となっていたところは「主」となっています。英語の聖書でも「Lord」と訳されていますが、「ヤーウェ」のお名前がある箇所は全部大文字で「LORD」と書かれています。新改訳聖書はヘブル語で「ヤーウェ」とあるところを太文字の「主」にするという工夫をしています。学問上「ヤーウェ」という言葉を使うことは許されますが、教会の礼拝では、ユダヤや初代教会の伝統にならって、「ヤーウェ」を「主」、あるいは他の言葉で言い表わすことになっています。聖歌でもかつて「エホバはまことの牧者」が「わが主はまことの牧者」に、「エホバに仕うる」が「御神に仕うる」にかわりました。

 このように「主」という言葉が「神」を表わしますから、「イエスは主である」というのは、イエスが天地を創造され、すべてのものを支配し、人間を生かしてくださる実在の神であるということを意味するのです。イエスは神である主です。神のひとり子であり、ひとり子である神です。この御子が人となり、「イエス」と呼ばれ、私たちのために救い主、キリストとなられました。

 イエスにつけられるもうひとつのタイトル、「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味の言葉で、預言者、祭司、王を指します。この人たちは油を注がれ、聖別され、そのつとめに任命されたからです。イエスもまたその洗礼のときに聖霊を受け「キリスト」としてのつとめを与えられました。イエスは預言者として福音を宣べ伝え、今も教会を通してみことばを語り続けてくださっています。イエスはまた、祭司として十字架の上でご自分を完全な犠牲としてささげ、今は父なる神にとりなしをささげておられます。さらに、イエスは教会のかしらとして、信じる者たちの王となって教会を守り導き、やがての時にはすべての人の王となって世界を治められます。イエスは、キリストです。預言者、祭司、王であるお方です。ですから私たちが「主イエス・キリスト」というとき、それは、イエスは主、神であり、また救い主キリストであるという信仰を言い表わすことばとなるのです。

 ローマ10:9-10に

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
とあります。ここには、イエスを主と告白する信仰が人を救うのだということがはっきり書かれています。イエスの弟子たちはみなこの告白をして救われ、この救いを宣べ伝えたのですが、この告白に至るまでそれぞれに苦闘を経験しています。トマスはイエスが復活され、弟子たちに現われてくださったとき、そこにいませんでした。トマスは他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言っているのに、ただひとり「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言い張りました。聖書は「神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる」と言っています。復活を信じなければ救われないのに、トマスはそれを信じることができなかったのです。しかし、そんなトマスにもイエスは現われ、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と語りかけてくださったのです(ヨハネ21:24-27)。

 イエスは私たちがイエスを信じる決断をし、きっぱりした信仰を持つことを求めておられます。けれども、だからといって、信じたいけれどなかなか信じられずにいる人や、たくさんの疑問があってそれを解決できないでいる人を斥けることはありません。イエスは私たちの信仰に至る苦闘をよくご存知です。神の真理を一度に全部受け入れることができなくても、それに対して疑問を持つことがあっても、その疑問を大切にしてくださいます。イエスは「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と私たちを励ましておられます。私たちがイエスに答を求めるとき、イエスは私たちのクエスチョン・マークをエクスクラメーション・マークに変えてくださるのです。

 トマスに「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたイエスはあなたにも同じように語りかけておられないでしょうか。心に信じ、口で告白して救われる。それを助けてくださるのは、主イエスご自身です。主の助けを願い求めましょう。トマスは主イエスに助けられ、「私の主。私の神」という信仰の告白しました。私たちはトマスが見たようにイエスを肉眼で見ることはできません。しかし、イエスのおことばが聖書に残され、今、この礼拝で語られています。見て信じるのではなく、聞いて信じる幸いが与えられています。ここに集うおひとりびとりがその幸いを受けることができるように、イエスは主である、「私の主。私の神」であると信じ、告白する日が一日も早くやってくるよう、祈ってやみません。

 二、主への服従

 イエスが主であるというのは第二にイエスが主人であり教師であるということです。イエスは主であり私たちはしもべです。イエスが教師であり私たちは弟子です。イエスが神であるなら、主人であるのは当然のことです。神は第一のお方であり、すべてのものの主権者なのですから。キリストが私たちに命令を与え、指示を与え、教えを与え、私たちはそれに従い、それに習わうのです。イエスを信じることと従うこととは切り離すことはできません。信じているけど従わない、従わないけれど信じているということはありえないからです。イエスは弟子たちに信じることばかりでなく、従うことを求められました。信仰と服従は同義語なのです。

 ところが、信仰と服従とが分離することがあります。どんな人も神無しでは生きてはいけませんから、神とのつながりは欲しいのです。神への信仰は保っておきたいけど、だからといって神に従うのは嫌で、信仰と服従とを切り離すのです。イエスの教えを建前としては聞いても、それを守ろうとはせずに、自分の考えで行動するといった矛盾が起こるのです。イエスが今朝の箇所で「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。」(ルカ6:46)と言われたのは、こういうことを指しているのです。

 イエスは、さらに、岩の上に土台を据えて家を建てた人と、土台なしで地面に家を建てた人とのたとえ話をなさいました。土台を据えた人とは「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たち」(ルカ6:47)とあるように神のことばを聞き、それを行う人たち、つまり、主であるイエスに従う人のことです。土台を据えなかった人とは49節にあるように「聞いても実行しない人」、つまり、イエスを主として従わない人々のことです。

 洪水が押し寄せてくるまでは、岩の上に土台を置いて家を建てた人も、土台なして地面に家を建てた人も変わることはありませんでした。どちらも自分の家にいて楽しく暮らしていたのです。もしかしたら、土台なしで家を建てた人のほうが、土台を据えるためのお金を家のインテリアに使うことができたので、物質的にはもっと豊かな生活を楽しんでいたかもしれません。しかし、洪水になったとき、差が生まれました。土台を据えた家は残り、家の中にいた人も安全に守られました。しかし、土台を据えなかった家はまたたくまに倒れてしまったのです。聖書で「洪水」というと、「ノアの洪水」を思い起こさせます。ノアの洪水は世の終わりの象徴です。人生にはさまざまな嵐があります。せっかくイエスを知り、信じていても、イエスに従う人生でなければ、その嵐に耐えられるという保証はどこにもありません。よしんば一生の間、大きな災いに遭うことなく平穏に暮らせたとしても、人生の終わりにイエスの前に立つとき、また、イエスが来られるとき、私たちはほんとうに大丈夫でしょうか。イエスご自身が「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。」(マタイ7:21)と言っておられます。

 ジョン・ストット博士といえば世界的な福音主義教会の指導者として大きな働きをしてきた人ですが、86歳のときに公職を退き、昨年88歳のとき、最後の本を出版しました。それは「The Radical Disciple」という小さな本で、その序言でストット博士は、「この本は私の最後の本になる」と明言しています。ストット博士はヨハネ13:13-14に

あなたがたはわたしを先生とも主とも呼んでいます。あなたがたがそう言うのはよい。わたしはそのような者だからです。それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
とあるイエスのことばを引いて、クリスチャンがイエスを教師と呼び、主と呼ぶのなら、クリスチャンにはイエスが教え示したことに従う責任があると言っています。これは、みずからを「クリスチャン」と呼びながら、キリストの弟子となろうとしない人々や弟子として受けるべき訓練を避けている人々へのチャレンジです。ストット博士が遺言のようにして書き残したこのチャレンジに私たちも精一杯答える者になりたいと思います。どんなときにも「イエスは主なり」という信仰に生きる私たちが、どんなときにも文字通り自分をしもべにし、イエスを主として生きたい、そんな思いを主イエスにささげましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちは主イエスに従うことなしに、イエスを「主よ」と呼ぶことができないことを知っています。また、主イエスの御名を呼び、主イエスの助けを得ることなしには主イエスに従うことができないことも良く知っています。いいえ、私たちが知っているというよりは、あなたと主イエスが最もそれを良く知っておられます。イエスを主と呼ぶ私たちにイエスに従う力を与えてください。それによってさらに、イエスの御名を心を込めて呼ぶ者としてください。誰も自分をしもべとし、弟子としないかぎり、イエスを主と呼ぶことはできません。あなたの前に自分をしもべとし、主イエスに従う弟子としてください。私の神、私の主、イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/3/2010