幸いな人

ルカ6:20-26

オーディオファイルを再生できません
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
6:22 人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。

 一、本当の幸い

 "GNP" というと "Gross National Product"(国民総生産)のことで、その国がどれだけのモノを生産したかを表わす数値です。この数値が高いほど、その国が経済的に豊かであるとされています。2008年まではアメリカ、日本、中国の順でしたが、2009年からアメリカ、中国、日本と順位が入れ替わりました。

 "GNP" に対して "GNH" というのもあります。"Gross National Happiness"(国民総幸福)のことです。ブータン国王夫妻が昨年11月に日本を訪れてから良く使われるようになりました。ブータンでは、国民の90パーセントの人たちが「幸福」を感じているとのことです。世界で一番「幸福度」が高い国なのだそうです。そんな国に行ってみたいと思いますが、「幸福」というのは、心の持ち方に関係していますから、どこかに行って住めば、たちまち幸せになれるというわけにはいかないと思います。「自分は不幸だ」と思い込んでいる人はどこに行っても不幸であり、「自分は幸福だ」と感じている人はどこに住んでも、そこを幸福なところにしてしまうかもしれません。

 日本語の「幸せ」には、「めぐりあわせが良いこと」、「裕福なこと」という意味があり、物質的に恵まれていることを指すのだそうですが、物質的に恵まれていることだけが幸福の条件でないことは、誰もが知っています。ですから、物質的に豊かな日本の人たちが、たとえ貧しくても、互いに助けあいながら、平和に暮らしているブータンの人々に憧れを抱くのだろうと思います。

 主イエスは、今朝の箇所で「貧しい者は幸いです。…いま飢えている者は幸いです。…いま泣いている者は幸いです。…人々があなたがたを憎むとき…あなたがたは幸いです」と言っておられます。生活の必要が満たされないこと、食べるものにも事欠くこと、悲しみのどん底に突き落とされること、人々から嫌われることが幸いなわけでないのは、誰が考えても分かることです。なのに、なぜイエスはこんなことを言われたのでしょうか。イエスは、こう言うことによって、私たちに「めぐり合わせの良いこと」でも「裕福なこと」でもない、それ以上の幸せがあることを教えようとしておられるのです。

 英語の "happy" は "happen" から来ています。「思わぬお金が入ってきたからハッピーだ。子どもが良い成績をとってきたからハッピーだ。旅行先で人に親切にしてもらってハッピーだった」などと言います。こうした「幸せ」は自分の身の回りに起こったことに基づいた「幸せ」で、それは「めぐりあわせが良いこと」に基づいています。もし、「幸せ」というものが、「めぐりあわせが良いこと」によってしかやってこないのだとしたら、「めぐりあわせの悪い人」は何時までたっても「幸せ」になれないということになってしまいます。身の回りに起こることは、毎日変化していきますから、幸せが身の回りのことだけに基づいていたら、一日の間に幸福と不幸を行ったりきたりして、毎日がとても不安定なものになってしまいます。

 主イエスは「幸いです」という言葉に、"happy" ではなく "blesssed"(祝福された)という言葉を使われました。イエスはこの言葉によって、ほんとうの幸せというのものは、裕福であるか、貧しいか、笑っていられるか、泣かなければならないか、人から愛されているか、憎まれているか、そんな環境や状況に基づいたものではない、それを超えたもの、神の祝福に基づいたものだと教えておられます。イエスは私たちに、「ハッピー」以上の、「祝福された」幸福があると宣言しておられます。

 二、神の国の幸い

 では、イエスの教えられた幸せはどこにあるのでしょうか。20節に「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから」とあるように、本当の幸せは「神の国」にあります。神の国では誰も乏しい者はなく、飢える人も、泣く者もありません。聖書には神の国に迎え入れられた人々の幸いがこのように描かれています。

彼らはもはや、飢えることもなく、渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も彼らを打つことはありません。なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いてくださるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるのです。(黙示録7:16-17)
私はここを読むといつも涙がこぼれます。「神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」ということばに感動するからです。イエスが「いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから」と言われたのは、貧しい人、苦しむ人、さげすまれている人へのたんなる気休めのことばではありません。主イエスは、ご自分を慕って従って来た弟子たちに、飢えることも、渇くことも、泣くこともない、すべてが満たされ、すべてをいやされる神の国を与えてくださったのです。

 イエスの時代、ユダヤにはサドカイ派やパリサイ派と呼ばれる宗派がありました。サドカイ派は神殿を取り仕切っていた特権階級で、パリサイ派は律法を厳格に守ることを主張した知識階級でした。こうした人々は自分たちこそ神の国に迎え入れられる「神の民」だと自負していました。そして、同じユダヤ人であっても、神殿に貢物もできないような貧しい人々や律法を守れない人々を「地の民」と呼んで軽蔑していました。ローマ帝国の手先になってユダヤ人から税金を取り立てている取税人やいかがわしい仕事をしている女性たちなどを「罪びと」と呼び、そうした人たちは神の国には入れないと考えていました。ところがイエスは、サドカイ人やパリサイ人に「まことに、あなたがたに告げます。取税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国にはいっているのです」(マタイ21:31)と言われました。サドカイ人、パリサイ人が「地の民」、「罪人」と呼んだ取税人や遊女たちがすでに神の国に入っている、この人たちこそ「神の民」、「御国の子」だと言われたのです。それは、この人たちが自分の罪を悔い改め、神の国の王であるイエス・キリストを信じ、イエスに従ってきたからです。

 しかし、サドカイ人やパリサイ人はイエスの教えを聞いても悔い改めず、イエスを受け入れないことによって、自らを神の国から遠ざけいました。その結果、神の祝福と、その祝福に基づいた幸いを失っていました。今朝の箇所の後半で、イエスは

しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。(ルカ6:24-26)
と語られました。イエスが「哀れな者だ」と言われたのは、サドカイ人やパリサイ人たちを指していると思います。裕福であること、才能や立場に恵まれていること自体が悪いわけではありません。与えられた豊かなものを喜び楽しむことは神の祝福の一部でもあります。たとえ、持ち物や才能、地位などに恵まれた生活をしていても、神の前には自分の内面が貧しく、乏しいことを知って、神を求め、神に頼るなら、神はそういう人を受け入れてくださいます。イエスの弟子の中にも裕福な人、才能豊かな人が多くいました。問題なのは、地上のもので満足してしまい、神を忘れてしまうことにあるのです。様々なものに恵まれている人はとかく、そこに安住してしまいがちです。また、大きな失敗もぜずに生きてきた人は、自分が今のままで神に受け入れられると信じており、悔い改めること、赦され、いやされ、きよめられることの必要に気づかずに過ごしてしまいます。もし、そうだとしたら、それは哀れなことです。自分の足らなさが見え、罪や失敗が見えているほうが、よほど幸せかもしれません。

 私たちは、イエスから「幸いだ」と宣言されているでしょうか。それとも「哀れだ」と宣言されているでしょうか。「幸いだ」と宣言されているなら、その宣言を喜び、感謝しましょう。たとえ「哀れだ」という声を聞いたとしても、それはイエスの最終宣告ではありません。自分の惨めさに気付き、そこから神に立ち返るなら、私たちは、「あなたは幸いだ」というイエスのことばを聞くことができるようになるからです。

 三、今ある幸い

 イエスが説かれた幸いは、この世の幸いではなく、神の国の幸いでした。しかし、「神の国の幸い」と言われてもなかなか実感が湧かないのが、私たちです。イエスが神の国を宣べ伝えてから、もう二千年もたつのに、まだ神の国は来ていないではないか。貧しい人、飢えている人、悲しんでいる人、苦しめられている人に、何年も、何百年も、何千年も、神の国が来るのを待つように言うだけで良いのだろうか。死後に得られる幸いを思って現世の苦しみを我慢するようにというのがイエスの教えなのだろうか。…神の国の幸いについて考えてみても、実感が湧かないどころか、疑問が湧いて来るばかりかもしれません。

 けれども、聖書を学んでいくと、イエスが語られた神の国が遠い将来のものだけでも、死後の世界のことだけでもないことが分かってきます。イエスが「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われたとき、ほんとうに神の国は来ていたのです。「神の国」の「国」ということばには「支配」という意味があります。もうすこし厳密にいえば「王の支配」です。「国」という漢字は、囲いの真ん中に「王」があります。「王」が治めている領域、それが「国」です。神の国も、同じように、御国の王であるイエス・キリストが治めておられる領域を指します。御国の王であるイエスがおられるところ、そこはすでに神の国です。イエスは、ご自分を信じ、ご自分に従ってきた人々をご覧になって、「わたしが神の国の王であり、あなたたちは御国の子たちだ。わたしがあなたたちと一緒にいるから、神の国はあなたたちの只中にある。あなたたちは、わたしに従ってきた。だから、神の国に入っている。あなたたちは祝福された人、幸いな人だ。神の国はあなたたちのものだから」と言われたのです。

 確かに神の国は終わりの日に、世界規模、いや宇宙規模のものとして現われます。しかし、そのときになってはじめて神の国がやっと姿を現わすというのではありません。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ11:20)また、「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:20-21)とイエスが言われたように、それはイエスの宣教とともにはじまったのです。そして、神の国がもたらす罪の赦しや永遠のいのちはイエスの十字架と復活によって成就しています。教会は聖霊を受けて、イエス・キリストの宣教を引き継ぎ、神の国を宣べ伝え続けているのです。イエス・キリストは教会とともに世の終わりまで共にいると約束してくださいました。イエス・キリストは教会を通して、神の国を広めておられ、それは二千年間広がり続けてきました。世界中の多くの人が、まことの神への悔い改めとイエス・キリストを信じる信仰に導かれ、数しれない人々が、神の国に入れられています。取税人や遊女といった人々が悔い改め、新しい人生を与えられ、正しい生活へと導かれていったのと同じことが、今も世界中で起こっています。ローマ14:17に「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」とありますが、罪の赦しを得て、神の国の義と、平和と、聖霊による喜びの中に生きるものとされています。

 最初、私は「どこかに行って住めば、たちまち幸せになれるという国はない」と言いました。それは神の国についても同じだと思います。もし、神の国をどこか、雲のかなたにある、幸せの国のようなもので、そこに行けば誰もが幸せになれるようなところだと考えているなら、それは違います。神の国とは、神の支配です。神を信じるとは、神のご支配を受け入れるということです。私たちは、お互いに、自分が人を支配することはあっても、誰からも、神からさえも支配されたくないと頑張っている、自我の塊です。しかし、そんな頑張りが何一つ良いものを生み出すことがないことを認めて、私たちは悔い改め、イエス・キリストを私の王、主として心に、生活に、人生に迎え入れました。そのとき、神の国の領域が私の心と生活と人生にまで広がったのです。神の国とはそのようにして、イエス・キリストとともに生きることです。今、この地上で、キリストを受け入れ、キリストと共に生きた人が世を去ってもまたキリストと共にいることができるのです。今、ここから、キリストとともに生きる一歩をはじめましょう。状況に支配されない幸い、いや、状況を変えていく幸いに生きはじめようではありませんか。

 昨日、ベイエリア合同男性の会がありました。峯村信嘉医師は、心臓病、脳梗塞、ガンついての話のあと、今まで勤めていた国立ハンセン病療養所のことに触れました。ハンセン病気のため失明し、指先の感覚もなくなった人が点字を舌で触って読んでいる写真が写し出されました。この人は生涯のほとんどを療養所で過ごした人です。しかし、社会から閉めだされた環境、苦しくつらい病気にも関わらす、日々を感謝をもって生きているというのです。ほんとうの健康とは、からだの健康以上のものだということを改めて教えられました。きのうまで幸福の絶頂にあった人が、きょうは、病気や事故、災害や犯罪に遭って不幸のどん底に突き落とされるということは良くあることです。そんなときも、私たちを支える、永遠に続く、神の国の幸いをしっかりと持っていたいものです。

 (祈り)

 父なる神さま、イエス・キリストによって私たちに、どんなときも無くなることのない幸いを与えてくださったことを感謝します。また、「あなたは幸いだ」と、その幸いに気付かせてくださったことを有難うございます。私たちは不幸には敏感ですが、幸いには鈍感です。いつも目を開いてあなたの祝福を見、耳を開いてあなたのおことばに聞き、あなたからの幸いを深く知るものとしてください。そして口を開いて、この幸いをあかしするものとしてください。主イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/5/2012