深みに漕ぎ出せ

ルカ5:1-11

5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。
5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」
5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 昨年、私に大きな宿題が与えられました。それは、2001年の標語となる聖書のことばを選ぶということでした。サンタクララ教会に赴任して間もない私に、教会全体に必要なことは何かを見極めて、新しい一年の指針を指し示すというのは大変な重荷でした。しかし、祈りながらこのことを思い巡らしている時「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」とのみことばが心に浮かんできたのです。サンタクララ教会は、いままでよく伝道し、教育に力を入れ、交わりを育ててきました。いままで励んできたことをこれからも続けていけばいいのですが、なお、新しい年に新しく考えなければならないことがあるとしたら、それは、伝道に、教育に、そして交わりに「深さ」を加えていくことではないだろうかと思います。

 一、伝道を深める

 今年の標語「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」とのことばは、イエスが弟子のシモン・ペテロに語ったことばです。イエスがペテロに声をかけたのは、ペテロが他の漁師たちといっしょに網を洗っていた時でした。ガリラヤの湖では夏はセイントピーターズ・フィッシュ、冬は鰯が取れます。セイントピーターズ・フィッシュというのはスズメダイの一種で、私は聖地旅行に行った時にこの魚をまるごとから上げにしたのを食べてきました。イスラエルに到着して最初に泊まったホテルはガリラヤ湖の岸辺にありました。ジェットラグのためまだ暗いうちに目が覚めましたので、ロビーに降りていって、ガリラヤ湖に日が昇っていく様子を眺めていました。遠くの方で漁船が汽笛を鳴らしながら岸に戻ってくるのが見えました。昔も今も、漁はまだ夜があけないうちにするのですね。ペテロも、この日は、明け方まで漁をしたのですが、一匹も魚がとれませんでした。ガリラヤ湖の湖底は黒い岩石でできていて、湖の上から見ても魚の群れは見えません。今はレーダーで魚の群れをキャッチして網を下ろすのですが、ペテロの時代には、漁師の「勘」がすべてでした。ほとんど百発百中で魚の群れを見つけてきたのに、今日ばかりは空振りで、ペテロはひどく疲れ、からだを丸めながら、うつろな心で空っぽの網を洗っていたのでしょう。

 そんな彼のところに主は来て、彼の舟に乗り込み「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と声をかけてくださいました。この言葉の背後には「せっかく舟に乗って沖に出てきたのだからもういちどやってごらん。私はあなたたちをから手で岸にもどしたくないんだ」とのイエスのやさしいお心があるように思えます。ところが、ペテロは「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした」と答えます。この時のペテロの気持ちを私なりに翻訳すればこんなふうになるでしょうか。「イエスは神のことは良く教えてくださるが、魚をとることについては素人だね。魚というものは浅瀬にいるもので、こんなに沖に出てきて、しかもこんな真昼間に網をおろしったええしょうがない。俺たちは漁師、魚のことにかけちゃプロだよ。今日は魚がとれない日なのさ。」ペテロは、イエスをいさめようとした人ですから、イエスにつぶやきかけたとしても不思議ではないでしょう。しかし、この時、ペテロはすぐに思いなおして「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう」と言います。口語訳や新共同訳では「お言葉ですから」となっていますね。自分のその時の感情でなく、神の言葉に聞く、これは大切なことですね。ペテロは感情家で、突っ走ってしまったり、かと思えばがっくり落ち込んでしまったりする人でした。しかし、彼の長所は、感情に走っても、考え直すことができる、失敗しても何度でもやりなおすことができることでした。「おことばどおり」「お言葉ですから」とイエスに従うところがいかにもペテロらしい、潔さです。私たちも見習いたいものですね。

 そしてペテロが網を下ろしてみると、大漁も、大漁、網が破れそうになり、舟が沈みそうになるほどの魚が取れました。そして、イエスはそのあとペテロに「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言われます。ペテロが人々に伝道するようになる、しかも、多くの人を救いに導くようになると言われたのです。「魚をとる」という表現は聖書では「伝道」を表わしています。イエスは伝道の仕事を弟子たちに、そして今日の私たちに託してくださいました。

 伝道は生涯をかけてしていくものですが、長い年月の間には、大勢の人が次々と神を求め、キリストを信じ救われていくこともあれば、一年間だれもパプテスマを受ける人が無いというようなときもあるでしょう。せっかく長い間準備をし、講師を招き、祈りに祈って伝道集会をしたのに、誰も信じる人が起こされなかった、そんな時は、牧師も信徒もがっかりし、空っぽの網を洗うような空しい気持ちになるものです。一所懸命伝道していればいるほど、その働きが実を結ばないと落胆するものです。「主よ、私は精一杯やりました。でも何にもなりませんでした。ここはいくら伝道しても駄目なところなんです。また同じことをするのですか。何度繰り返しても駄目です。」主のため、伝道のため労している人々が、そんな気持ちにつぶされてしまうことも少なからずあります。

 しかし、キリストはそんな私たちのところに来て、「もういちどやってごらん」と声をかけてくださるのです。「あきらめてはいけない、伝道し続けるなら、かならず多くの人々が救われる時がやってくる」と、私たちを励ましてくださるのです。また、キリストは私たちが今まで考えたこともなかったような方法での伝道、私たちが今までコンタクトできなかった人々への伝道、いままで伝道にかかわらなかった新しい人々による伝道に導かれるかもしれません。いつの時代のどこの国にも、人々には深い心の求めがあります。そのような求めにこたえていくような伝道が必要になるかもしれません。伝道の面でまず私たちは深みに漕ぎ出していきたいと思います。

 二、教育を深める

 第二に、私たちは教育の面で深みに漕ぎ出していきましょう。ペテロはたくさんの魚が漁れたのを見て、思わずイエスの足もとにひれ伏し、船底に頭をこすりつけて言いました。「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」ペテロがキリストの奇跡を見たのはこれがはじめてではありません。ペテロは、しゅうめが高熱を出して苦しんでいた時それをイエスにいやしてもらっています。今まで何度かイエスの教えを聞き、そのみわざを目にしてきました。しかし、それはペテロ以外の他の人に起こった出来事でした。ところが今度の奇跡は彼自身の上に起こったものでした。信じて疑わなかった漁師としての腕をはるかに超えるイエスの手のわざを体験したのです。ペテロは、イエスがこの広いガリラヤ湖とその中の魚たちをも支配されるお方であることを知り、このお方の前に恐れをもってひれ伏し、自分の罪を認め、悔い改めたのです。

 ペテロは創造主であるお方を知ったのです。聖なるお方を認めたのです。教会の教育の目的は、私たちが単に聖書の「物知り」にすることではありません。聖なるお方を知り、礼拝し、このお方に仕えるための訓練を与えることです。多くの場合、私たちは罪を責められたり、つつかれたりして罪を認めるわけではありません。それによって弁護的になりかえって自分の罪を認めない人もあります。しかし、罪を持った私たちに神が、偉大なお方、聖なるお方として示してくださる時、私たちは自分の罪を認めざるを得なくなるのです。このお方の大きな愛、赦しの恵みの前ではじめて、私たちは、みせかけの衣を脱いで、あるがままの自分になることができるのです。今年も、教会ではさまざまな聖書クラスが開かれます。そのどれもが、聖なるお方を聖なるお方としてあがめることを、身をもって学ぶところであるようにと願っています。

 サンタクララ教会には、次々と新しい方々が加えられています。私たちはそうした方々に配慮して、聖書の学びをできるだけわかりやすくする努力をしてきました。それはほんとうに大切なことですが、わかりやすいということと、シャロウ(表面的)であることとは別です。ヘブル人への手紙にこんな言葉があります。「あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」(ヘブル5:12-6:1)耳の痛い言葉ですね。「ミルクや離乳食から豊かなみことばの糧へ、こどもからおとなへ、初歩から深いものへと進んいきなさい」と聖書は教えています。特に信仰の歩みの長い方には、もっと深い学びへと進んでいただきたいと願っています。聖書は誰にも分かる平易な書物ですが、かといって簡単にマスターできるようなものではありません。学んでも学んでも汲み尽くすことのできない深さを持っているのです。みことばの深さによって私たちは心の深い飢え渇きを十分に満たされ、みことばを他の人に与えることができるようになるのです。みことばの深みへと導かれていくこの年でありたく思います。

 三、交わりを深める

 「深みに漕ぎ出して」ということで、第三に、目ざしたいのはお互いの交わりを深めることです。イエスは、ペテロやヤコブ、ヨハネに「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言われると、彼らは漁れたばかりの魚も、網も、舟も、それこそ「何もかも捨てて」イエスに従ったのです。イエスは、この後も弟子を加え、どこに行くにも彼らを従え、彼らを訓練されました。この弟子たちの集まりは、教会の原型です。イエスを中心に互いに仕えあい、イエスの使命を果たしていく集団、それが教会です。イエスのお心には、世を去られた後、いえすの使命をひきついでいく教会の姿がすでにあったのです。古くから「教会を母としない者は、父なる神を侮辱する」という言葉があり、「母なる教会」という表現もあります。教会の交わりの中に加わることなしに、イエスに従うことはできません。教会の無い地域でひとりで信仰を守っていらっしゃる方もいないわけではありませんが、その人も、郵便や電話など、何らかの手段で他のクリスチャンとのコンタクトがあり、それを通して、教会につながっているのであって、ひとりぽっちのクリスチャンというのはあり得ないのです。キリストのからだである教会のために働くことによって、かしらであるキリストに仕えることができます。目に見えないキリストを重んじるなら、目に見える教会の交わりをも大切にするはずです。

 教会の交わりは単なる「おつきあい」ではありません。あの人に気をつかい、この人に合わせて行動するとうだけでは、キリストに従う前に人間関係で疲れきってしまいます。教会の交わりは、目的を持った交わりです。イエス・キリストの教えを学び、それに歩み、それを伝えること、この大きな目的を見失わないように、小さなことで煩わされないよう励ましあってまいりましょう。

 また、教会の交わりは祈りの交わりです。もちろん、教会でも食事の交わりや、楽しいおしゃべりの時もあります。そうした面も教会には必要です。しかし、他のグループでは決してしないこと、できないことが、教会の集まりにはあります。それは、互いに祈り合うということです。お互いの必要のために、教会のために、社会のために祈り合うところ、そこに主は共にいてくださり、私たちの交わりを豊かなものにしてくださいます。どこの教会でもそうですが、祈り会の参加者が決まった人になりつつあります。祈り会に新しいメンバーが必要です。新しいメンバーにも祈り会が必要です。クリスチャンホームであれば、家庭で祈りあうこともできるでしょうが、そうでなければ教会の兄弟姉妹と祈り合うことはなお必要ではないでしょうか。

 教会の交わりを深めるには、時間が必要です。教会には多くの活動があり、奉仕があり、みんなが忙しく働いています。しかし、どこかにまだ調整の余地があるかもしれません。交わりを深めるための時間をどうしたらとることができるか、みんなで知恵を出し合っていきたく思います。

 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」私たちはこれからボートに乗って2001年という大海原に漕ぎ出そうとしているところです。信仰と祈りをもって、恐れることなく深みに漕ぎ出しましょう。主イエスご自身が、このボートに乗り込んでいてくださるのですから。

 (祈り)

 父なる神様、私たちの、この一年の歩みのためにみことばをいただきありがとうございました。伝道においても、キリストの弟子としての教育や訓練においても、キリストにある交わりにおいても、さらに深みに漕ぎ出す私たちとしてください。そして、この年も、大きな収穫を与えていただけますように。私たちと共にいてくださる主イエスの御名で祈ります。

1/7/2001