イエスの宣教

ルカ4:38-44

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4:38 イエスは立ち上がって会堂を出て、シモンの家にはいられた。すると、シモンのしゅうとめが、ひどい熱で苦しんでいた。人々は彼女のためにイエスにお願いした。
4:39 イエスがその枕もとに来て、熱をしかりつけられると、熱がひき、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた。
4:40 日が暮れると、いろいろな病気で弱っている者をかかえた人たちがみな、その病人をみもとに連れて来た。イエスは、ひとりひとりに手を置いて、いやされた。
4:41 また、悪霊どもも、「あなたこそ神の子です。」と大声で叫びながら、多くの人から出て行った。イエスは、悪霊どもをしかって、ものを言うのをお許しにならなかった。彼らはイエスがキリストであることを知っていたからである。
4:42 朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた。群衆は、イエスを捜し回って、みもとに来ると、イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうとした。
4:43 しかしイエスは、彼らにこう言われた。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」
4:44 そしてユダヤの諸会堂で、福音を告げ知らせておられた。

 故郷のナザレの町で斥けられたイエスはガリラヤ湖に面したカペナウムの町に来ました。ガリラヤ湖の回りには大きな町が数多くあり、そこは山里のナザレから見れば、うんと賑やかなところでした。まず、南のほうにはテベリヤがあり、そこにはガリラヤとペレアの領主ヘロデ・アンテパスの宮殿がありました。そこから北に行くとマグダラの町があります。マグダラのマリヤの出身地です。それから、ゲネサレの平原があります。ここは、イエスが五つのパンと二匹の魚で五千人の人々に食事を与えた場所です。そして、そこから少し行ったところが、カペナウムです。

 イエスはこの町で、ローマの百人隊長のしもべやペテロのしゅうとめの病気を癒やしています(マタイ8:5-17)。カペナウムは交通の要所でしたので、収税所がありました。イエスはそこで働いていたマタイをご自分の弟子に加えています(マタイ9:9)。また、イエスは、この町で会堂司ヤイロの娘を生き返らせ、盲人の目を開いています(マタイ9:23-31)。マタイは9:1で「イエスは舟に乗って湖を渡り、自分の町に帰られた」と言って、カペナウムをイエスにとっての「自分の町」と呼んでいます。カペナウムは、イエスのガリラヤでの宣教の本拠地とも言えるところでした。きょうの箇所では、イエスが、この町での宣教で行った三つのことが書かれています。

 一、病人の癒やし

 最初は「病人の癒やし」です。ある安息日に、イエスはカペナウムの会堂を出て、会堂の目の前にあるシモン・ペテロの家に入りました。その時、ペテロのしゅうとめが、高熱で苦しんでいたので、人々がイエスに癒やしを願ったのです。イエスはたちどころに彼女を癒やしました。するとすぐに、しゅうとめは、イエスと弟子たちをもてなし始めました(38-39節)。自分の病気を治してくれた人に感謝するのは、当たり前といえば当たり前ですが、この時、しゅうとめには、人間的な感謝以上のものがあったに違いありません。おそらく、イエスを特別なお方として自分の家に迎え、イエスに仕えることを喜びとしたのでしょう。

 私は、さきほど、「病気の癒やし」とは言わず、「病人の癒やし」と言いました。これは大切なことです。医学はさまざまな「病気」を治すことができるようになりました。しかし、病気が治っても、希望のない暗い人生を送る人がいますし、逆に、不治の病の中でも感謝や喜びをもって生きている人もいます。私が日本にいたころ、教会に何人かの看護師や看護学校の学生たちが来ていました。そのひとりがこう話してくれました。「ある若い女性の手術が成功して完治したのに、その人は病院の屋上から飛び降りて死んでしまったのです。その時ほど、病気を治すことができても、その人を癒やすことができない、医学の限界を感じたことはありません。」今日では、「全人的癒やし」(holistic therapy)ということが叫ばれるようになりましたが、それができるのは、イエスだけです。イエスだけが「病気」を治すだけでなく、「病人」を癒やすことが出来ます。医学は人をより長く生かすことはできても、人をより良く生かすことはできないのです。

 ギリシャ語で「救い主」(Σωτήρ)という言葉には「癒やし主」という意味があります。イエスはまさに、人を癒やし、世界を癒やすお方です。夕方になり、安息日が明けると、人々はイエスの評判を聞きつけて、病人をイエスのところに連れてきましたが、イエスは「ひとりひとりに手を置いて、いやし」(40節)ました。イエスの癒やしは、イエスのあわれみから出たものであり、また、イエスこそ、まことの「ソーテール」(救い主)であることを証しするものでした。

 二、悪霊の追放

 次は悪霊の追放です。41節に「また、悪霊どもも、『あなたこそ神の子です』と大声で叫びながら、多くの人から出て行った」とあります。この世界には、目に見える現象をどんなに分析しても説明のつかないものがあります。私たちの目には隠されている霊の世界があり、霊的な力があるのです。そういったものは、普段は隠れているのですが、神の著しい力があらわされるときには、目に見える形で表われてきます。神の御子であるイエスが宣教の働きを始めたときには、悪霊もまた活発に働いたのです。

 しかし、イエスは、そうした霊的なものに対しても力を持っています。イエスは人々の肉体を蝕む病気を癒やす力を持っているだけでなく、人々のたましいを束縛している霊を追放し、たましいを解放する力をも持っておられるのです。人間は霊的な存在です。その問題が実際的なものであれ、精神的なものであれ、目に見える部分や人間のレベルでの問題が解決したからといっても、それはほんとうの解決にはなりません。霊的な問題が解決され、その束縛から解放されなければ、私たちのたましいに本当の自由はやってこないのです。過激な演説によって群衆を動かしたり、人々を感動させる話術を持った人は、かつて大勢いましたし、今もいるでしょう。しかし、イエスのように、霊的な世界に対してさえ権威をもって語ることのできる人は誰もありません。目に見えない世界にまでに及ぶイエスの権威ある言葉だけが、私たちを霊の束縛から解放し、私たちに救いをもたらすのです。イエスだけが、ご自分のもとに来る者に、「あなたの罪は赦されています。…あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」(“Your sins are forgiven. Your faith has saved you; go in peace.”)と語ることができます(ルカ7:48-50)。私たちは、このお方によって、罪の赦しから来る、本物の平安を得ることができるのです。

 ところで、ルカ4:34にこう書かれています。「ああ、ナザレ人のイエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」これは、イエスがカペナウムの会堂で福音を語ったときに悪霊が言った言葉です。「神の国」の「福音」は、それを待ち望んできた者には「救いの言葉」ですが、悪魔やその手下である悪霊にとっては、恐ろしい「審判の宣告」でした。彼らにはすでに審判がくだされ、「滅び」が定められており、それは決して覆されることはありません。しかし、人間は、罪を犯し、悪を行なったとしても、そこから悔い改めて神に立ち返るなら、救いへと入れられるのです。すべての人は、悔い改めへと招かれており、神に立ち返る恵みが与えられているのです。それが悪霊と人間との違いです。私たちは、この神の人への愛を、どんな時でも決して忘れないようにしたいと思います。

 三、福音の宣教

 そして、イエスは、神の国の福音を伝え、教えました。カペナウムでは「安息日ごとに、人々を教え」ました(ルカ4:31)。そして人々は、「その教えに驚」きました(ルカ4:32)。ユダヤの教師たちは「ラビ」と呼ばれしたが、イエスの教えは、どのラビの教えとも違っていたからです。それまでのラビたちは律法を解説するだけでしたが、イエスは律法が預言している「神の国」が到来したと告げたのです。「神の国」は「神の支配」と言いかえることができます。神の力ある支配は同時に恵み深いものであって、それが、今、ここに来ているというのが、イエスの教えであり、それは「神の国の福音」と呼ばれています(43節)。

 イエスは病人を癒やし、悪霊を追い出し、福音を宣べ伝えましたが、その中で一番大切なことは、福音を宣べ伝えることでした。病人を癒やすことも悪霊を追い出すことも大事なことですが、福音を宣べ伝えることにくらべれば、それらは、やはり、第二、第三のことです。それらは福音を証しすることにおいて、はじめて意味を持つのです。

 イエスは十二弟子を派遣する時、彼らに「すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威」を授けました(ルカ9:1)。悪霊を追い出し、病気を治すことは、その時のユダヤの人々には必要なことでした。しかし、十字架と復活の後、天に昇る前には、イエスは、福音を伝えることだけを命じています。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。」(マタイ28:19-20)「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16:15)「その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」(ルカ24:47-48)「使徒の働き」にも悪霊の追放や病人の癒やしのことは数多く出てきます。しかし、「使徒の働き」は、そうしたことよりも、福音の広まりを大切なこととして描いています。使徒6:7に「こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰にはいった」とあり、使徒12:24には「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った」とあります。使徒13:49にも「こうして、主のみことばは、この地方全体に広まった」と繰り返されています。

 イエスは「神の国」を宣べ伝えました。「神の国」は決して、人々の理想の中だけにある「ユートピア」ではありません。「ユートピア」は「ウートピア」とも言われます。「ユートピア」なら「良いところ」ですが、「ウートピア」なら「どこにもない場所」という意味になります。「ユートピア」はしょせんは「ウートピア」、ほんとうはどこにもないのだということは、誰もが知っています。しかし、神の国はそうではありません。イエスが世に来られて以来、それは福音の広がりとともに、全世界に広がっています。多くの人々が福音を聞き、信じることによって、神の国を自分の人生に受け入れ、神の国の国民とされてきました。神の国がもたらす「義と平和と聖霊による喜び」(ローマ14:17)を味わいながら生活するようになりました。人々の人生が変えられ、家庭が変えられ、地域が変えられ、国々が変えられ、世界が変えられてきたのです。「福音」は神の国について教えるものだけではなく、神の国の一部です。それは、神の恵みの支配を私たちにもたらす力です。

 ペテロの家での癒やしのみわざは、おそらく夜中までも続いたでしょう。しかし、イエスご自身はその疲れを癒やすこともなく朝早くから祈りの時を持ちました。人々はイエスを探し出して「イエスが自分たちから離れて行かないよう引き止めておこうと」しました(42節)。イエスが身近にいれば、こんなに便利なことはないからです。しかし、イエスは人々にこう言いました。「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。わたしは、そのために遣わされたのですから。」(43節)イエスにとって一番大切なことは、福音を広めることでした。イエスは父なる神から与えられたその使命をはっきりと自覚していました。そして、イエスは、その第一のことを第一にして、働いたのです。私たち、イエスを信じる者たちは、同じ使命をイエスから授かっています。「私は福音を証し、他の人と分かち合うために、救われた。」私たちもこの自覚をいただいて、それぞれができる方法で、宣教の働きに参加したいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちは、あなたがイエスに与えられた「福音を広める」という使命を、イエスから引き継いでいます。人々がどんなに福音を必要としているか、人を救うどんなに大きな力が福音にあるかを私たちに教えてください。そして、この福音を伝え、証しする力を、さらに求める者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

5/10/2020