目が開かれる

ルカ24:25-35

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24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから。」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中にはいられた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。

 一、出来事とその知らせ

 日曜日の午後、イエスのふたりの弟子がエルサレムからエマオに向かっていました。ふたりは過越祭が終わって自分たちの村に帰る途中でしたが、そこに見知らぬ人が近づいてきて尋ねました。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」(17節)その見知らぬ人も、エルサレムから来た人のようなので、ふたりのうちのひとり、クレオパは言いました。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」(18節)「エルサレムで起こった事」というのは、イエスが十字架につけられたことを指しています。それは、つい三日前に起こったことで、エルサレム中で知らない人がないほどの大事件でした。クレオパは言いました。「〔それは〕ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。」(19-20節)それから、こうも言いました。「日曜日の朝早く、女の弟子たちがイエスの墓に行ってみると、イエスの遺体が無く、彼女たちは、天使が現われて『イエスはよみがえった』と告げたと言いました。」

 クレオパは、ここで、十字架と復活の出来事を「ニュース」として話しています。確かにそれは誰をも驚かせる「ニュース」でした。先週私は「十字架の物語」という言葉を使って、イエスの生涯とその教えは「物語」(story)の形で伝えられていると言いました。ヒロシマやナガサキの被爆者の方や、日系人収容所に入れられた方たちの話を、私は何度も聞いてきましたが、そうした人たちは「語り部」(story teller)となって実際の体験を話し、歴史を証言しています。同じように、イエスの弟子たちも「語り部」となって、イエスのしたこと、教えたことを証言しました。マタイ、マルコ、ルカは、そうした人々が世を去る前に「イエスの物語」を書物に残しました。それは「福音書」と呼ばれるようになりました。

 「福音」という言葉には「グッド・ニュース」という意味があり、「福音書」は「ストーリー」ではあっても同時に「ニュース」、「ニュース・ストーリー」なのです。福音書は、神話や小説のように想像力を働かせて作り出されたものではなく、実際に起こった出来事の記録です。「イエスの物語」、“His Story” の “His” と “Story” をつなげると “History” となるように、「イエスの物語」は「歴史」です。しかも、それは何百年、何千年も前の「古代史」ではなく、一世紀の人々にとっては、同世代の歴史、「現代史」でした。

 イエスの物語、とくに、イエスの十字架と復活が「ニュース」であるのは、私たちにとっても同じです。イエスの十字架と復活は、二千年前に起こった出来事ですが、この出来事は、現代の私たちひとりびとりに大きな意味を持っています。この出来事、このニュースの意味が分かるとき、それは、私たちにきょうを生きる力を与え、明日に向かっていく希望を与えてくれるのです。

 二、出来事の解説

 さて、クレオパが話し終えると、今まで黙って聞いていたその見知らぬ人は、モーセの律法やイザヤ書、エレミヤ書などの預言を引用し、聖書全体から、キリストがどのようなお方か、なぜ苦しみを受けなければならないのか、そして、その苦しみの後、どのように栄光を受けるのかを次々と説明していきました。クレオパにとって、この人が引用した聖書の言葉は、みな、子どものころから会堂で聞いていて、よく知っていたものだったでしょう。しかし、そうした箇所が、今までとは違って新しい意味をもって心に響いてきたのです。クレオパともうひとりの弟子は、エルサレムにいて、イエスの十字架をその目で見、イエスの復活の第一報をその耳でじかに聞いていたのに、その出来事の意味を理解していませんでした。ふたりは、聖書によってその出来事が解き明かされ、はじめて、その意味を知ることができ、その出来事が自分のものとなったのです。

 このこともまた、今日の私たちに当てはまります。私たちの身の回りにはさまざまな出来事が起こります。今年はコロナ・ウィルスが世界中に広がり、私たちの生活は一変しました。ニュースといえば、「コロナ」に関連したことが真っ先に報道されます。私たちは、感染者数が増えたり減ったりする数字を見ては一喜一憂し、ワクチンに効果が認められたという報道を聞いて希望を持ったりします。しかし、このパンデミックの中で自分がどのように生きていけばよいのかは、ニュース・キャスターもコメンテーターも答えてはくれません。その答は、ひとりひとりが聖書から得る他はありません。

 しかし、聖書から答を得るといっても、目をつむって聖書のどこかのページを開き、目をつむったまま、そのページのどこかを指さし、指さした言葉が答になるというのではありません。それは、聖書のメッセージをフォーチュン・クッキーのメッセージと同じように扱うことになってしまいます。聖書のそれぞれは、それぞれに主題に基づいて書かれています。どこに何が書かれているのかを知って聖書を読むのは大切なことです。また、書かれてある言葉を文脈にそって理解すること、一つの箇所の一つの言葉だけで判断するのではなく、関連した箇所と比較して読むことも大切なことです。そうでないと、ひとりよがりの解釈をして、とんでもない間違いをしてしまいます。そうした間違いを防ぐためには、聖書の正しい解き明かしが必要なのです。

 ネヘミヤ8:8に「彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した」とあります。続くネヘミヤ8:12には「こうして、民はみな…大いに喜んだ。これは、彼らが教えられたことを理解したからである」とあって、神の言葉の解き明かしとその理解が、人々に大きな喜びをもたらしたことが書かれています。

 使徒8:31に「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」という言葉があります。聖書を読んでいたエチオピアの役人が、伝道者ピリポから「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と尋ねられたとき、その役人がピリポに答えた言葉です。ピリポは、エチオピアの役人に、彼が読んでいた箇所を解き明かし、イエス・キリストを伝えました。エチオピアの役人は、それによってイエス・キリストを信じ、バプテスマを受けました。

 こうしたことは、聖書の解き明かしがどんなに大切であるかを教えています。教会の礼拝でのメッセージ、スモール・グループでの学び、また、日々の個人のデボーションを通して、聖書が解き明かされることによって、正しい答を聖書から得ることができるようになるのです。

 三、出来事の理解

 エマオの村は、エルサレムから8マイル、歩いて2〜3時間くらいのところにありました。それで、三人は話しているうちに、もうエマオに着いてしまいました。見知らぬ人はまだ先に進もうとしていましたが、もう日も傾きかけていましたし、もっと話を聞きたかったので、ふたりは、この人を引き止め、家に招き入れ、食事を共にしました。この人はテーブルをはさんでふたりの正面に座りました。ふたりが食事の祝福をこの人に頼むと、この人はパンを裂いて祝福し、ふたりに渡しました。その時です。ふたりはその人を見て驚きました。それはなんと、イエスだったのです。ふたりは顔を見合わせました。そして、もう一度テーブルの前に座っているイエスを見ようとしましたが、もう、そこにはイエスの姿はありませんでした。いままで、ふたりといっしょに歩いて、道々、聖書を解き明かしてくれた人は、イエスご自身だったのです。復活されたイエスが、ふたりに現れ、ご自分の苦難と栄光とを、聖書から解き明かしてくださっていたのです。

 その人がイエスだと分からなかったのは、「ふたりの目がさえぎられて」(16節)いたからでしたが、何がふたりの目をさえぎっていたのでしょうか。それはイエスが「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」(25節)と言ったように、自分の先入観でイエスを見、聖書に聞こうとしなかったからです。ふたりは多くのユダヤの人々と同じように、キリストが来れば、ユダヤはローマ帝国から解放され、独立国家になれると信じていました。キリストの救いを、ユダヤ民族や政治的なことだけに限定していたのです。そうであれば、イエスはローマ総督によって十字架につけられたのですから、ローマの権力に負けてしまったことになります。ユダヤ独立の希望はイエスの十字架の死によって絶たれてしまったことになります。イエスが、最初に、ふたりに声をかけた時、ふたりが「暗い顔つき」(17節)になったのは、そのためでした。ふたりは、イエスの死によって、今までの期待のすべてがくじかれ、失望の中にあったのです。

 しかし、聖書は、キリストの救いをユダヤをローマから解放して独立国家にすることだとは言っていません。実際、ユダヤはローマから独立することなく、エルサレムは神殿もろとも滅ぼされてしまいました。キリストが世に来られたのは、罪と死の奴隷となっているすべての人を、そこから救い出すためでした。そして、そのために、イエスは、すべての人の、あらゆる罪を背負って身代わりとなって死に、すべての人に救いを与えるために復活されたのです。ふたりがエルサレムで見たイエスの十字架は、失望のしるしではなく、救いのしるしでした。女の弟子たちが伝えた復活の知らせは、彼女たちが見た幻想ではなく、救いの成就を告げる、確かな事実でした。ふたりは、そのことを悟ったのです。

 ふたりの心は、聖書が解き明かされている間、燃えていました(32節)。そして、ふたりが聖書を理解した時、その「目が開かれ」(31節)、イエスが分かったのです。36節以降には、イエスが他の弟子たちにも現われて、彼らを教えたことが書かれています。その45節に「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた」とあります。ふたりの「目が開かれ」たことと、他の弟子たちの「心が開かれ」たことは、同じ体験です。福音を聞き、それが解き明かされた時、弟子たちは「目が開かれ」、「心が開かれ」、福音の真理を悟り、イエスを確信しました。

 私たちもまた、御言葉の解き明かしによって目が開かれます。イエスがよみがえって、今、生きておられることの確信へと導かれていくのです。英国の伝道者ジョン・ウェスレーはその日記にこう書いています。「その日の夕方、私はあまり気が進まないままにアルダスゲート通りの集会に行った。そこである人が、ルターの『ローマ人への手紙』の序文を読んでいた。8時45分ごろ、キリストへの信仰を通して、神が心に働いて起きる変化について語られてた時、私は心が不思議と温まるのを感じた。私は、救いのために、キリストに、キリストだけに信頼した。キリストは罪を、私の罪さえ、取り去られ、罪と死の法則から私を救ってくださったという確信を与えられた。」1738年5月2日の日記です。皆さんが、クレオパやウェスレーのように、心が燃えた日、心が温った時は、いつだったでしょうか。私たちはすでに福音を聞いています。その解き明かしも聞いています。イエスに心を開き、福音を受け入れましょう。そのとき、私たちも信仰の目で、生きておられるイエスを見、救いの確信と生きる力とを与えられるのです。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは、イエス・キリストのみわざと私たちの救いを、聖書にはっきりと記してくださいました。そればかりでなく、御言葉の解き明かしによって、私たちがイエス・キリストと出会い、救いの真理を悟ることができるようにしてくださいました。どうぞ、私たちと、このメッセージを聞くすべての人の信仰の目を開き、救い主イエスが、日々に私たちとともにおられ、私たちの人生をともに歩いてくださることを確信させてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

11/15/2020