成就の十字架

ルカ23:44-49

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23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 みなさん、きょうは特別な日です。まず、きょうはパームサンデーです。この日からイエス・キリストの十字架の苦しみを覚える一週間がはじまります。しかし、きょうが特別な日だというのは、パームサンデーだからだけではありません。パームサンデーは毎年めぐってきます。きょうが特別だというのは3月16日で、しかもパームサンデーであるということです。ある人が3月16日にはヨハネ3:16から説教しましょうと呼びかけました。ヨハネ3:16はイエス・キリストの十字架を指し示しており、パームサンデーもイエス・キリストの十字架を覚える日です。3月16日が日曜日になるのは次回は2014年で、その次は2025年です。しかし2014年も2025年も3月16日はパームサンデーではありません。きょうは私たちの生涯の中で、めったに巡ってこない特別な日なのです。きょう、3月16日のパームサンデーに、ヨハネ3:16を読み、唱え、覚え、思いみることはとても意味深いことだと思いますので、そうしたいと思います。ヨハネ3:16は多くの人がもうすでに覚えていることでしょうから、いっしょに唱えて、きょうのメッセージに聞きましょう。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

 一、神の愛

 ヨハネ3:16は「愛」を教えています。「愛」、それはだれでも好きな言葉です。だれもが「愛されたい」という願いを持っています。そして、自分を愛してくれるものを捜し求めています。しかし、この世に完全な愛はありません。母親の愛は犠牲的な愛で、世の中で最も純粋な愛だと言われますが、実際には、すべての母親が純粋な深い愛でこどもを愛しているとは言えない現実があります。自分の都合や感情だけでこどもを叱ったり、斥けたりすることが多いのです。父親の愛は大きく高いものだと言われますが、実際は目先のことや損得だけでこどもを導いてしまうことも多くあるのです。友だちに友情を求め、恋人に愛を求め、相手が誠実にそれに答えてくれたとしても、生涯にわたって続くものはごくわずかです。まして永遠に続くものでもありません。夫婦の愛は生涯を通して続くはずのものですが、悲しいことにアメリカでは二組に一組の夫婦はその愛が破綻しています。それで、人々は「愛されたい」という願望を満足させるために、さまざまなものに手を伸ばし、してはいけないことまでしてしまいます。しかし、そこにはほんとうの愛も満足もないのです。

 聖書はそんな私たちに「あなたは愛されている。」と教えています。これは、聖書にだけあるメッセージです。日本の宗教には「愛」という言葉はありません。その教えによれば、人間は「愛されている」のではなく、「のろわれ」「たたられ」ているのです。おはらいをしてそののろいやたたりを取り除くのが宗教の役割なのです。日本の神々は、「さわらぬ神にたたりなし。」ということばにあるように、けっして「愛する神」ではなく、気ままな「怒る神」です。それで、多くの人は、イザヤ43:4の「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」ということばに出会って、ほっとするのです。これはだれもが好きな、よく知られている聖書のことばのひとつです。しかし、これは、「わたしは愛されている」と感じて気分を良くしたり、自信を取り戻すためだけのことばではありません。もし「わたしは愛されている。」ということだけで終わるとしたら、それはこのみことばを正しく理解しておらず、聖書のメッセージの大切なものを見落としてしまっているのです。

 その大切なものとは、私たちを愛しておられる神ご自身です。神は、イザヤ43:3で「わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主」と、ご自分を示してから、「わたしはあなたを愛している。」と言っておられます。神は私たちに「この世界を造り、あなたを罪から救い出した、あなたの神、この<わたし>があなたを愛しているのだ。」と言っておられるのです。イザヤ43:4は、他のだれでもない、「神があなたを愛しておられる。」というメッセージです。「あなたは愛されている。」ということだけで終わって、「神があなたを愛しておられる。」ということに進むことがなければ、だれも、ほんものの愛を体験することはできません。「愛されている」ということで気分を良くしたり、すこしばかり自信をとりもどしたりすることはできても、やがてまた、愛のない世界に戻ってしまうのです。「愛」はたんなる概念や言葉ではありません。それは、神から独立したものではありません。愛してくださるお方がいて、はじめて愛があるのです。私たちは神を知ってはじめて愛を知るのです。

 ヨハネ3:16は「愛のメッセージ」ですが、それは「あなたは愛されている。」というメッセージで終わっていません。「神があなたを愛しておられる。」というメッセージを伝えています。ヨハネ3:16は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と、「神は」という主語ではじまっています。愛は神からはじまるのです。神が愛される愛だけがほんとうの愛です。神以外のところに愛はありません。神の本質は愛です。愛そのものである神に愛されてこそ、人はほんとうの愛を体験し、満足を味わうことができるのです。愛のみなもとである神を求め、神に向かうとき、私たちはほんとうの愛を知るのです。

 二、十字架の愛

 では神はどれほどに私たちを愛されたのでしょうか。ヨハネ3:16は「実に、そのひとり子をお与えになったほどに」と言っています。神が、どのように私たちを愛されたかは、十字架に示されていると教えています。

 今、夜の祈り会では Anthony DeStefano さんの "Ten Prayers God Always Says Yes To"(『かならず聞かれる10の祈り』) という本から学んでいます。その第二章に「愛という言葉は今日とても誤解されている。」とありました。Anthony さんは「それはロマンチックなムービーや人の心をくすぐるポップ・ミュージックにあるようなものと考えられているが、それは実際の体験とも聖書とも一致しない。聖書は死、犠牲、正義の怒りの中に愛を描いている。愛は、気分の良いものや感傷的なもの以上のものである。…聖書の教える愛は自己犠牲の愛である。…イエスは自分を救おうとはされず、十字架でご自分のすべてをささげられた。」と書いています。そして「愛のシンボルは、ハートでも、結婚指輪でも、キューピッドの矢でもない。それは十字架だ。」と言っています(28-29頁)。

 なぜ、愛のシンボルは「十字架」なのでしょう。十字架は残酷な処刑の道具です。それはのろわれたもの、「のろい」のシンボルでした。人々は正しいイエスを憎んでイエスを十字架に追いやったのです。十字架は「愛」のシンボルどころか、「憎しみ」のシンボルです。なぜ十字架が愛のシンボルになりえるのでしょうか。どのようにして十字架が神の愛を表すのでしょうか。そのことが分かるためには、私たちが神から離れ、神に逆らう罪びとであり、その罪のために真理が見えなくなっており、生きる意味と目的を見失っており、神の栄光を傷つけ、人を傷つけ、自分を傷つけながら生きている現実を認める必要があります。罪は私たちの人生から喜びを奪い、世界から平和を奪うだけでなく、罪の最終結果が死であり、滅びであることを知らなければなりません。しかし、神はそのような私たちをあわれんで、私たちを罪から救い出すために、ご自分の御子を人としてこの世に送ってくださいました。イエスは、私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなって十字架で罪の刑罰を受け、ご自分のいのち投げ出して、罪の赦しを勝ち取ってくださいました。罪のないお方が身代わりとなって死ぬ以外に罪から救われる道はなかったのです。

 神は私たちを愛して、ご自分の最愛の御子を十字架で死なせ、御子イエスも私たちを愛して、ご自分をささげてくださいました。よく「愛は犠牲でわかる。」と言われます。ほんとうに愛するもののためなら、人は、どんなに大切なものでもそれを犠牲にするでしょう。かつて、王族や貴族が、その身分や特権、財産を捨てて、平民と結婚することがありました。身分や特権、財産よりも、愛に価値を認めたからでした。今も、人々への愛のためにいのちの危険を冒してまでも働いている人々が大勢います。ほんものの愛は、愛する者のために、もっとも大切なものさえもよろこんで捨てることができるものなのです。神は、ご自分の御子というかけがえのないものを私たちに与えてくださいました。主イエスはご自分を十字架につけようとする者たちを即座に滅ぼしておしまいになれたのに、その力と栄光のすべてを捨てて、辱められ、痛められ、苦しめられるままに、十字架にかけられ、その命さえを投げ出してくださったのです。ですから、十字架は愛のシンボルであり、ここに神の愛が表れているのです。

 以前のことですが、Mexican Medical Mission のオフィスに行ったとき、そこにイエスが両手を広げておられる絵がかかっているのを見ました。こんな詩がその絵に書いてありました。『「主よ、あなたはどれほど私を愛してくださったのですか」と私が尋ねると、両手を大きく広げて主はこうお答えになった。「子よ、こんなにいっぱいだよ。」そして主はその両手を広げたままで十字架におかかりになった。』美しい詩です。良く見ると、その絵のバックグラウンドには、その両手を十字架に釘付けられたイエス・キリストの姿が描かれていました。ヨハネ3:16も十字架でその両手をひろげておられるイエスを指し示し、「神はこれだけ大きな愛であなたを愛しておられる。」と語りかけています。

 三、信仰の愛

 第三に、ヨハネ3:16は、神の愛を信仰によって受け取るよう教えています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」イエス・キリストは神の愛の贈り物です。神の御子イエスを信じるなら、その人は永遠の命を持つのです。つまり、罪と死と滅びから救われ、神のこどもとなり、新しい人生をはじめることができるのです。

 神は、私たちが救われるために、イエス・キリストを信じ、受け入れることだけを求めています。神は何も難しいことを要求しておられません。聖書は、難行苦行をした人だけが救われる、慈善事業をした人だけが救われる、頭の良い人、特別なことができる人、性格の良い人だけが救われるとは、書いていません。「…信じる者が、ひとりとして…」、つまり、「信じる者はだれでも」救われるのです。なぜでしょう。なぜ信じるだけで良いのでしょう。それは、イエス・キリストが私の救いのために必要なすべてのことを十字架の上で成し遂げてくださったからです。

 今朝の福音書にあるイエスのおことば「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」は十字架の七つのことば第七番目のものです。イエスはこのことばのすぐ前に「完了した。」(ヨハネ19:30)と言っておられます。この「完了した。」ということばは、口語訳では「すべてが終わった。」と訳されています。しかし、「すべてが終わった。」というのは英語で "Game is over." などと言うように「もはやこれまで。」という意味ではありません。イエスは、ご自分の使命を達成できないで、死んでいかれたのではありません。もし、そうなら、その後すぐに「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」という平安に満ちたことばはイエスの口から出なかったでしょう。イエスは人類の罪のために苦しみ、その身代わりに死ぬという使命をみごとに達成されたのです。私たちは、何かをやり遂げたとき、それに満足して「やった!」と叫ぶことがありますが、主イエスも十字架の上で、神から与えれた使命を成し遂げられ、それに満足され、「終わった。」「完了した。」と言われたのです。このことばは、イエスがその御生涯をかけて、私たちのための救いのみわざを成し遂げられ、聖書のすべてを成就されたことの宣言なのです。

 私たちの救いに必要なことはすべて十字架の上で成し遂げられました。私たちに必要なことは、それを信仰によって受け取ることです。さきほど引用した "Ten Prayers" の本で Anthony さんは信仰を薬を飲むことにたとえています(79頁)。ひとつの薬を開発するためには、長年の研究が必要です。何度も何度も試作品を作り、実験に実験を重ねます。動物実験や臨床実験を経て、大丈夫と認められると、おおやけに使われるようになります。たった一錠の薬が作られるために、どれだけ数多くのドクター、専門家のたゆまない努力、患者たちの協力、そして長い年月が必要だったことでしょう。一錠の薬を作るのは簡単なことではありません。しかし、それを飲むのはいたって簡単です。薬を口にいれ、グラスの水と一緒に飲み込んでしまえばよいのです。それで、熱が下がり、痛みがとれ、病気が直っていくのです。罪という死の病から救われるのも同じです。イエス・キリストの十字架という特効薬がすでにあるのです。私たちがすることはただそれを飲むことだけ、イエス・キリストとその救いを受け取ることだけです。

 救いを受け取るのはこんなに簡単なのです。しかし、忘れないでください。私たちがこんなに簡単に救いを受け取ることができるために、神は罪びとを赦すという果てしもなく難しいこと、ほとんど不可能に近いことを、イエス・キリストの十字架によって成し遂げてくださったのです。ヨハネ3:16はそのような神の愛の努力、愛の犠牲を教えています。真実に私たちを愛しておられる神は、私たちにも真実な愛を求められます。この神の愛に愛のほか何をもってこたえることができるでしょうか。神を愛する者は、神が与えようとしておられる救いをけっして拒むことはありません。むしろ、救いを求めて神に近づきます。私たちの救いとなってくださったイエス・キリストに背を向けることはありません。イエスを愛し慕い、従います。イエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださった救いを受け入れることが、神への愛の第一歩です。神への愛は救いを受け取る信仰からはじまります。それは信仰からはじまり、日々の悔い改めの中で成長していきます。使徒パウロはガラテヤ2:20で言っています。「いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身を捨てられた神の御子を信じる信仰によっているのです。」「私を愛し私のためにご自身を捨てられた神の御子」、このお方を信じる信仰が私たちの神への愛を保ち、私たちを神のために生きる者にしてくれるのです。神への愛を信仰によって保ちましょう。私を愛してくださったお方をまごころを込めて愛し、このお方を求めて歩みましょう。

 (祈り)

 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」神さま、あなたは、私たちを愛して、御子イエスを私たちに与えてくださいました。この大きな愛の贈り物に私たちは何一つ報いることはできません。ただ、あなたへの愛を信仰によってささげます。あなたに愛され、あなたを愛する愛の関係の中に私たちを留めてください。この受難週の一日、一日に十字架にあるあなたの愛を深く想いみることができ、信仰を成長させることができますように。信仰が成長するとともに、あなたへの愛が増し加わりますように。愛のゆえに、ご自身をお捨てになられたイエス・キリストのお名前で祈ります。

3/16/2008