最期のことば

ルカ23:44-49

23:44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
23:45 太陽は光を失っていた。また、神殿の幕は真二つに裂けた。
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
23:47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった。」と言った。
23:48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
23:49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。

 2月13日の「灰の水曜日」以来、イエスの十字架への道を思いながら過ごしてきたレントも、第六週、「受難週」となりました。今週の金曜日には、グッドフライデー礼拝があります。昨年、英語部で始められた礼拝ですが、今年から日英合同の礼拝として保つことになります。合同の礼拝にふさわしく、日語部からも多数集まって、共に十字架のイエスを礼拝したいと思います。

 今朝は、イエスが十字架の上で亡くなられた時、イエスの最期の時に、どんなことが起こったか、そして、イエスはその最期の時にどんな言葉を語られたかを学び、受難週を過ごす心の備えをしたいと思います。

 一、イエスの最期に起こったこと

 イエスが十字架につけられた日は、人類の歴史の中で最も暗い日でした。44節に「そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。」とあります。日中、一番明るいはずの時に、突然、不気味な暗闇がされこうべの丘をおおったのです。この暗黒は、自然が光を失ったと同時に、人間の罪の深さ、そして、その罪に対する神の刑罰を表わしています。ルカの福音書には書かれていませんが、この時、イエスは十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」(マタイ27:46)と叫んでいます。イエスは、それまで、神を「父」と呼んで、神との親しい交わりの中にあったのに、この時ばかりは「わが神、わが神」と叫ばれました。イエスは、この時、十字架の上で罪の刑罰を受けて、文字通り神から見捨てられたのです。神は十字架のイエスを、私たちの身代わりに罰されたのです。キリストはこの時、私たちの罪をその背にすべて負われたのです。神は、その罪に顔を背け、それを罰されたのです。聖書に「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」(コリント第二5:21)とあるように、イエスは、十字架の上で、罪となりのろいとなったのです。イエスは私たちの代わりに神の裁きをすべて引き受け、私たちに赦しと生命とを与えてくださったのです。

 その時、太陽が暗くなっただけでなく、エルサレムの神殿でも大変なことが起こっていました。45節にあるように、神殿の幕が真二つに裂けたのです。神殿にはふたつの部屋があって、一つは聖所、もうひとつは至聖所と呼ばれています。聖所には、燭台やパンの机、そして、香をささげる祭壇が置かれ、至聖所には契約の箱が置かれています。聖所には、毎日、祭司たちが入って、儀式を執り行うのですが、至聖所には大祭司が年に一度だけしか入ることを許されていません。そのため、至聖所の入り口には、幅十八メートル、高さ九メートル、そして厚さは十二センチもある垂れ幕がかけられていました。この幕が真二つに裂けたのです。マタイの福音書には「上から下に裂けた」とあります。人間が裂いたのなら、下から上に裂けますが、それは人の手によってでなく、神によって裂かれたのです。このことは、イエスによって神への道が開かれたことを示しています。私たちが神に近づくための妨げが、キリストの十字架によって取り除かれたのです。神殿の幕が裂かれた時、選ばれた大祭司だけが、年に一度しか、至聖所に入れない時代は終わり、イエスを信じる者は誰も、何の妨げもなく、きよい神のもとに近づくことができるようになったのえす。イエスはご自分のからだを「まことの神殿」と呼びましたが、神殿の幕が裂かれた時、イエスのからだも裂かれ、そのことによって、神と私たちとを隔てている罪が取り除かれたのです。また、神殿には、異邦人の庭とか、婦人の庭とかいうものがあって、「異邦人はここまで」「婦人はこれ以上入ってはいけない」という境界線がありました。しかし、そういったものも、イエスによって取り除かれました。イエスを信じるものは、民族も、性別も、地位も、身分も関係なく、ただ信仰によって神に近づくことができるようになったのです。ヘブル人への手紙はこのことを「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:20)と言っています。

 二、イエスの最期に語られたことば

 次に、46節を見ましょう。ここにはイエスが最期に語られたことばがあります。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」私は、このことばを読む時、ほっとした気持になりますが、皆さんはいかがですか。もし、イエスの十字架のことばが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という叫びで終わっていたとしたら、なんとなく落ち着かない気持になりませんか。私たちは、イエスの十字架が、私たちの身代りであり、イエスが私たちに代わって苦しみを受け、罪の罰を受け、文字通り、神から見捨てられたことを、聖書によって知っています。しかし、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」とのことばだけでは、イエスの身代りがほんとうに受け入れられたのか、その苦しみが報いられたのかどうか、確信を持てないまま終わってしまいます。しかし、イエスが、最期に言われたことば、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」ということばを聞く時、イエスの身代りが受け入れられ、その苦しみが報いられたことを知るのです。イエスは、十字架の上で、「わが神、わが神。」と叫ばれましたが、ここでは、ふたたび「父よ。」と言っておられますね。イエスは十字架の上で、私たちの救いのためにすべてのことをなし終えられて、もう一度、神との交わりの中に戻られたのです。私たちの救いを成し遂げてくださったイエスは、まことに神の御子だったのです。

 また、イエスのこの言葉は、私たちが死を迎える時、どうすれば良いかを教えてくれます。イエスは死を迎える時、父に祈りました。私たちも、父なる神に祈るのです。神を父として祈るこのです。おそらく、私たちは、臨終の時、「父よ。」と祈る時、神を放蕩息子の父親のようなお方として、思いみることでしょう。父なる神をお喜ばせするよりは、悲しませることの方が多かった、そんな悔いを、臨終の時、感じるかもしれません。しかし、私たちの行いによってではなく、イエスが十字架の上でなしとげてくださった救いのゆえに、天の父である神は、放蕩息子の父親のように、すべてを赦して、私を大きな手をひろげて迎えていてくださるのです。この神に、今も、その時も、「父よ。」と呼ぶことができる、祈ることができるというのは、なんという幸いでしょう。イエスは、私たちが、神を父と呼ぶことができるために、十字架の死を味わってくださったのです。

 イエスのゆえに私たちも、平安な死を迎えることができますが、「平安な死」とは、長寿を全うし、家族に囲まれて、天国に旅立つということばかりではありません。クリスチャンであろうが、なかろうが、不慮の死は襲ってきます。思いがけず苦しい病気に見まわれることもあるでしょう。人生には常に、私たちがどんなに考えても理解できないことが起こります。「なぜ人は死ぬのか。」「なぜ、彼は、あの若さで死んだのか。」「なぜ、正しい人に苦しい死が訪れ、悪い人がいつまでも安らかなのか。」「人が死んだら、実際のところ、どうなるのか。」「死」という問題は、どんなに考えても、完全に理解できるものではありません。だからこそ、私たちは、私たちに愛の御手をひろげていてくださる、父の御手にゆだねなければならないのです。そして、神にゆだねる時、疑問や恐れを乗り越える事ができ、どんな状況の中でも、神からの平安を味わうことができるようになるのです。

 イエスは、すべてのものの主であり、世界に起こることのすべて、死と、死後の世界にいたるまで、そのすべてを知っておられたはずです。しかし、そのイエスさえも、「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈りました。イエスは、十字架にかかられる前に、完全に父なる神に服従し、すべてをお任せになりましたが、ご自分の死を迎える時も、すべてを神にゆだねられたのです。イエスでさえそうなら、まして、私たちはなおさらです。神の御手は愛の御手です。今の一日、一日を神にゆだねながら歩むことによって、やがて死を迎える時も、イエスと同じように「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈ることができるようになるのです。

 イエスの弟子たちは、この祈りをささげて、その生涯を閉じました。使徒の働きの六章と七章に登場するステパノは、クリスチャンの最初の殉教者になった人です。人々がステパノめがけて石を投げつける時、ステパノは「主イエスよ。私の霊をお受けください。」と祈りました。イエスが「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈ったのと同じ祈りです。エルサレム教会の七人の指導者のひとりとして選ばれたステパノ、前途有望なこの人が、ユダヤ人の理不尽なリンチに遭って命を落していくのです。「なぜ?どうして?」いろんな疑問が、ステパノならずとも、私たちの心にも浮かびます。しかし、ステパノは、疑問の中に沈むことなく、主を見上げ、自分を命を主の御手に任せました。そして、イエスが十字架の上で祈ったように「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と祈って、天に召されて行ったのです。ステパノばかりでなく、初代教会の殉教者ポリカリュボス、宗教改革の先駆者、ボヘミアのジョン・フス、プラーハのヒエロニムスたちも迫害によって不運な死を味わったのですが、いずれも「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と祈り、まわりの人々に神からの平安をあかしして天に召されていきました。

 私たちには迫害はなくても、長い間心にかかえてきた疑問や、背中が曲がってしまうような重荷、人生の苦痛や戦い、いまだにいやされていない心の傷などがあるでしょう。この受難週に、そうした重荷を十字架のもとにおろしましょう。神とイエスの御手にゆだねることを学びましょう。苦しみのきわみである十字架の上においても、イエスは平安を示してくださいました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」私たちもそう祈る時、イエスのくださる平安を味わうことができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま。イエスさまのゆえに、あなたを父と呼ぶことができますことを、心から感謝いたします。あなたは、イエスさまの死によって、私たちをあなたから隔てているすべてのものをうちこわし、イエスさまの十字架を通して、私たちに、こんなにも近く近づいてくださり、いつでも、私たちに手をさしのばしていてくださいます。その御手に、私たちの人生のひとつひとつをゆだねていくことができますように。愛する主イエスの御名で祈ります。

3/24/2002