御国の位にお着きになるとき

ルカ23:39-43

23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 一、御国の王

 きょうからアドベントになります。アドベントはクリスマスの四週間前の日曜日からはじまるクリスマスを待ち望む期間のことを言います。「アドベント」というのは文字通りは「到来」という意味の言葉です。「到来」、何かがやってくるというのですが、いったい何がやってくるのでしょうか。もちろん、救い主です。天使がこの救い主について「この方こそ主キリストです」と言ったように、この救い主は王であるお方です。全世界の王であり、私やあなたの王です。アドベントは王であるイエスの到来を待ち望むとき、イエスを私の王、また全世界の王として迎えるときなのです。

 イエスがお生まれになったとき、天使たちは羊飼いにこう言いました。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:10-11)救い主がおいでになった。救い主が生まれた。これが「喜びの知らせ」、つまり「福音」です。「知らせに来た」と訳されている部分はもとの言葉では「福音を伝える」という言葉が使われています。当時、「福音を伝える」という言葉は跡継ぎとなる王子が生まれたとき、王がそれを国民にふれ知らせるときに使われました。一般の人の場合はこの言葉は使われません。やがて王となるべき人の誕生の知らせにだけ使われました。イエスのお生まれのときにこの言葉が使われたのは、イエスがやがて父なる神から神の国を受け継ぎ、御国の王として君臨されるお方だからなのです。

 王子が生まれたからといってすぐに新しい時代が始まるわけではありません。王子が成長し、王となって国を受け継ぐときまで待たなければなりませんが、王子が生まれたということは、新しい時代が確実に始まったことを意味します。同じように、イエスの誕生の知らせは、やがて、このお方が神の国をもたらし、それを私たちに与えてくださる、新しい時代がの到来を知らせることでもありました。神の国の王であるイエスがお生まれになったからには、この王とともに神の国はすでに到来したのです。ユダヤの人々は長い間神の国の到来を待ち望んでいましたが、救い主の誕生によって神の国のあけぼのを見たのです。バプテスマのヨハネの父となったザカリヤ、宮もうでのためにヨセフとマリヤに連れてこられたイエスを腕に抱いたシメオン、イエスのことを預言したアンナといった人々は、イエスが神の国を宣べ伝える時までは生きてはいませんでしたが、イエスの誕生の中に神の国の到来を見て、新しい時代の幕開けを目にしたのです。

 神の国は、イエスが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイ4:17)と言われたとき始まりました。御国の王であるお方が、神の国に入る条件が「悔い改め」だと仰ったのです。イエスは十字架と復活、そして昇天によって、神の国に入る道を開いてくださいましたが、その道を通るには神の前にへりくだった姿勢が必要なのです。ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が降り教会が始まりました。教会は聖霊の力によってイエスのなさった宣教を引き継ぎ、人々に神の国を宣べ伝えてきました。今、神の国は目に見えない形でイエスを信じる人々のうちに来ていますが、やがて、目に見える形でやってきます。イエスは今から二千年前、神の御子であるのに人として生まれ、この世に来てくださいましたが、もうしばらくすれば、イエスは本来の姿で、神の御子、王の王、主の主として、この世においでになります。そのとき私たちは神の国を目に見える形で体験するのです。

 イエスがすでにお生まれになった後に生きている私たちは、イエスの二度目の到来(アドベント)を待ち望んでいます。クリスマスの情景では、赤ちゃんのイエスさまが描かれるので、私たちはついついこのお方が王であり、主であることを忘れがちになります。イエスは赤ん坊としてお生まれになりましたが、本来は、私たちの主であり、王であるお方であることを忘れないようにしたいものです。東の国々の博士たちがイエスを王としてあがめ、その前にひれ伏したように、私たちもイエスを私たちの王として信じ、受け入れ、愛し、仕えていきたいと思います。イスラエルの人々が長く暗い時代にも、救い主と神の国の到来を待ち望んで耐え忍んだように、私たちも、たとえ今がどんな暗い時代、困難な時でも、王であるイエスが再び来られ、私たちに約束の御国を与えてくださると信じ、待ち望み、キリストの到来を迎える喜びにあずかりたいと思います。

 二、王への信仰

 聖書に登場する信仰者はすべて、イエスを「王であるキリスト」として受け入れました。人々は「ダビデの子イエスよ」と叫んでイエスにいやしを求めましたが、「ダビデの子」というのは、ユダヤの正統的な王を指すことばで、これによって救い主が王であることを告白したのです。イエスを王として告白したのは、ユダヤの人ばかりではありません。すべての信仰者がイエスを「主」と告白しました。聖書に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神は死者の中からよみがえられせくださったと信じるなら、あなたは救われるからです」(ローマ10:9)とあるように、イエスを信じるということは、イエスがすべてのものの主であり、死にさえ打ち勝たれた力ある王であると信じることなのです。当時、ローマ皇帝は自らを「主」と呼び、人々にもそう呼ばせていました。しかし、信仰者たちはイエスをローマ皇帝にまさる王、全世界の主であると信じ、告白しました。そのため、初代の信仰者たちは迫害に遭ったのです。

 現代も、もしイエスをたんに自分の人生の指導者や「こころの友」とするだけなら、この世との摩擦はないでしょう。しかし、本気でイエスを神と信じ、死人の中からよみがえったと信じ、イエスこそ私の主であり、全世界の王であると信じて、そのように生きようとするとき、人々はそのような信仰を馬鹿にし、そのような生き方を嘲笑うかもしれません。しかし、だからと言って、信仰者は主であるイエスをその栄光の御座から引き下げるようなことはできないのです。私たち自身がそうであったように、人々がイエスが主であることを信じ受け入れるまでには時間がかかることもありますから、私たちは忍耐深くあかしを立てていかなければなりません。しかし、イエスを主とする信仰以外に人を救うものはないのですから、まず、自分自身がそのような信仰に堅く立つことによって、王であるイエスをあかししていきたいと思います。

 さて、今朝の箇所に出てくる強盗もイエスを主として王として信じ、御国を待ち望んだ人でした。その日、あの「されこうべの丘」には三本の十字架が立てられました。真ん中がイエスの十字架で、右と左に強盗が十字架にかけられました。ひとりの強盗は「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」などと言ってイエスをののしっていました。ところが、もうひとりの強盗はイエスのお姿を冷静に見つめ、イエスが十字架の上で語られたことばに耳を傾け、思い巡らしていました。そして、この強盗は、イエスを嘲り続けたもうひとりの強盗を「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか」と言ってたしなめました。そればかりか、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」と言って自分の罪を悔い改めました。罪のないお方に出会うとき、人は自分の罪が分かります。そして、罪のお方が苦しまれる姿を見て、悔い改めに導かれるのです。私はそのようにして自分の罪が分かり、悔い改めに導かれました。皆さんもそうだと思います。私たちはみな、イエスの十字架のもとに来て、私たちの罪のために苦しまれるイエスのお姿を見てはじめて、ほんとうの悔い改めに導かれるのだと思います。

 この強盗は、イエスにこう願いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」「思い出してください」というのは、とても謙虚な願いです。もう一方の強盗が「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言っていたのと大きな違いです。イエスに向かって「おまえがキリストなら俺を救ってみろ。そうしたら信じてやろう」などというのは、イエスをキリストとして、王として、主として認めていない証拠です。しかし、この強盗は、イエスを主なるキリスト、御国の王として信じました。自分の目の前で、自分と同じように十字架にかけられ、苦しんで死んでいく人が神の国で王位に着くお方だと彼は信じたのです。イエスが死んで終わるお方ではない。この苦しみの果てに栄光に入る、この死の後に復活すると信じたのです。これはなんと驚くべき信仰でしょうか。この強盗もユダヤ人でしたから、こどものころから会堂で聖書を学び、神殿で神を礼拝してきたことでしょう。十字架の出来事は、ユダヤの人々の心には隠された真理ではありましたが、旧約聖書の預言のことばが指し示していた中心的な出来事でした。この強盗は自分が十字架の出来事を目撃し、体験することによって、キリストが苦しみののち栄光に入るという聖書の預言を悟り知ったのです。私たちも、十字架のもとに来るときに、それまで分からなかった信仰の真理を悟ることができるのです。

 信仰というものは不思議なものです。それは努力して、勉強して、積み重ねていって到達できるというものではありません。長年、聖書を勉強し、真面目に生活していても信仰に至らない人もありますし、この強盗のように、死ぬ間際に、死にゆく救い主を見て、そのお方を主と告白する信仰に至る人もあります。信仰は「賜物」だと言われますが、だからといって、それは「棚からぼたもち」のようにぼんやりしていても与えられるものでもありません。人間の側でも真実に悔い改め、真剣に、熱心に真理を求めることが必要です。「信仰」と「真実」はギリシャ語では同じ言葉です。それで私は、信仰とは神の真実と人間の真実が出会うことであると説明しています。神は真実な愛で私たちを愛してくださいました。ご自分の御子を十字架で死なせるほどにです。この神の真実に、私たちも精一杯の真実でお応えしていくこと、それが信仰なのです。

 強盗が「思い出してください」と言ったのは、彼の真実な信仰を表しています。それは、先に申しましたように、この人のへりくだった心から出たものですが、同時に、それは熱心な願いでもありました。「心に留めてください」、「覚えていてください」という言葉は、聖書では神に対する切実な願いを表すのに使われているからです。たとえば詩篇106:4には「主よ。あなたが御民を愛されるとき、私を心に留め、あなたの御救いのとき、私を顧みてください」ということばがあり、同じ詩篇112:6にも「正しい者はとこしえに覚えられる」とあります。この強盗は、イエスが「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」と宣べ伝えられたそのとおりにし、自分の罪を悔い改め、王であるイエスを信じ、御国に受け入れられることを願い求めたのです。

 イエスはこの人に力強く宣言されました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」王であるイエスが御国の位に着くとき、イエスに覚えられている人はなんと幸いでしょう。主が私たちを覚えていてくださるのに、私たちが主を忘れるようなことがあっていいでしょうか。Come, Lord Jesus, come, Lord Jesus, come, and do not delay. というアドベントの賛美があます。アドベントになると、私は王なるイエスとその御国を待ち望んでこれを口ずさむのですが、私はその賛美といっしょに Jesus, remember me when you come into your kingdom. Jesus, remember me when you come into your kingdom. という賛美をいっしょに歌います。御国が来るとき、私もそこにありたい、そんな願いでこの歌を歌います。ご一緒に、王なるイエスとその御国を待ち望んでこのアドベントを過ごしましょう。

 (祈り)

 父なる神様、あなたが聖書で「ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と教えてくださったように、私たちも、主イエスをいつも覚えていたいと願っています。イエスは王としてこの世に来られ、十字架に死に、三日目に復活し、天に昇られ、そこから再びこの世においでになります。この後、私たちは、主イエスが「わたしを覚えるためにこれを行いなさい」と定めてくださった聖餐を守ります。聖餐にあずかるたびに、あなたを覚え、あなたに覚えられることを願い、また、あなたに覚えられていることを確認することができますよう導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

11/28/2010