赦しの恵み

ルカ23:39-43

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23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 「教会に戻ってくる10の理由」というパンフレットを最近手にしました。こどものころサンデースクールに通っていたが、学校の勉強が大変になってきて、教会から離れてしまった。ユースグループでは熱心だったが、大学生になり、親元を離れると同時に教会から離れてしまった。学生時代は教会の活動に参加していたが、就職し、土曜日や日曜日も働かなければならなくなり、教会から離れてしまった。出産、育児で礼拝を休み、それをきっかけに教会から離れてしまった、ということがあります。しかし、そんな人々も、さまざまなきっかけで再び教会に戻ってきます。ある人は、朝から晩まで休みなく働いているが、それはいったい何のためなんだろうという疑問を感じ、その答えを求めて教会に戻ってきます。また、ある人は、家庭を持ち、子供を与えられたとき、自分のこどもに確かなものを与えたいと願って、教会に戻ってきます。私が読んだ「教会に戻ってくる10の理由」というパンフレットには、「人生の意味を知りたい」、「こどもに道徳の基礎を与えたい」という理由が書かれていました。皆さんの中にも同じ理由で教会に来られた方も多いと思います。

 「教会に戻ってくる10の理由」には、「ゆるしを得たい」「人をゆるしたい」という理由も入っていました。失敗のない人は誰もいません。良心に何ら恥じることなく生きることができる人も誰もいません。誰もが失敗をし、罪を犯します。人生の経験を積めば積むほど、そのことがよく分かるようになります。学生時代は気の合った仲間とだけ過ごすことができても、社会に出るとそういうわけにはいきません。気むずかしい上司にも仕えなければなりませんし、言うことを聞いてくれない部下に手を焼くこともあります。利益をあげたいために、不誠実なことをやってしまうこともあるでしょう。結婚して家族関係が広がれば、義理の父や母、親族ともつきあっていかなければなりません。子供が学校に行くようになれば、それを通してのさまざまな人間関係が生まれてきます。それが祝福になることもあれば、それによって傷つけられることもあるでしょう。表面は大丈夫そうに見えても、人間関係の中で傷つき、心の中でもがいている人も少なくないと思います。自分が傷つけられたのと同じ傷を相手に負わせれば、それで解決するわけではなく、相手をゆるすしかないのですが、人をゆるすというのは簡単なことではありません。そんな葛藤の中から、教会にはゆるしがあるのではないかと感じて再び教会に戻ってくる人が多くいるというのです。

 事実、教会にはゆるしがあり、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」との祈りがあります。礼拝で「主の祈り」の六つの願いを順に学んできましたが、今朝は、その第四番目の願い「わたしたちの罪をおゆるしください。」をとりあげます。後半の「わたしたちも人をゆるします。」の部分は時間の関係で十分にお話しできませんが、教会にある「ゆるし」とは何なのかをご一緒に考えてみたいと思います。

 一、罪とゆるし

 教会には「ゆるし」があります。しかし、それはたんに、教会にいる人が寛容で親切であるということだけのものではありません。また、「ゆるす」というのは、好き勝手なことをして良いということでもありません。それは善悪の判断をしないで、何でも受け入れるということでもありません。自分で自分の気持ちをなだめることでも、「みんな同じ問題を抱えているんですよ。あなたひとりではありませんよ。」という人からの慰めでもありません。そのようなことでは解決が得られないからこそ、人は教会に来るのです。教会にある「ゆるし」、そして、「主の祈り」で願い、祈る「ゆるし」は、第一に、「罪のゆるし」です。私たちの根本的な問題の解決です。

 私たちは「主の祈り」で、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と祈りますが、この祈りは、「主の祈り」の最初の三つの願いを真剣に祈ることによって生み出される祈りです。なぜなら、「み名が聖とされますように」と祈り、神のきよさを示されれば示されるほど、私たちは自分が汚れた者であることを思い知らされるようになるからです。神の栄光のほんのわずかでもかいま見た人々はみな、地に倒れ、ひれ伏さずにはおれませんでした。罪というのは、たんに自分がした過ちや失敗というものではありません。自分自身が神の前には汚れた存在であり、罪そのものなのです。それが分かるとき、私たちは、神に「ゆるし」を願い求めずにはおれなくなるのです。

 「み国が来ますように。」という祈りは、神の主権や支配を願い求める祈りです。ところが、そう祈る私たちの心の中に、神に対する不従順や反抗の思いがあるのです。それは、最初の人間、アダムとエバ以来、人間の心にある思いです。サタンは「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」(創世記3:5)と言って人間を誘惑しました。これは、「なにも神に善悪を決めてもらわなくてもよい。善悪はあなたが決めればよい。あなたが好きなものを善にし、嫌なものを悪にすればよいではないか。あなたは十分に成熟している。あなたはもう神から自由になって良いのだ。あなたの世界ではあなたが神なのだ。」ということでした。神は、人間の造り主なのですから、人間に対して主権者です。しかし、サタンは、人間に神の主権を否定して、自由になるれ、とそそのかしたのです。しかし、人は本当に自由になったのでしょうか。神から離れることによってかえって罪の奴隷になってしまいました。「ゆるし」は、私たちを罪の奴隷から解放するものなのです。

 「みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。」という祈りも同じように、私たちを「罪のゆるし」に導きます。聖書は法律や規則を破ることや間違ったことを「する」ことだけが罪ではなく、神が求めておられることを「しない」ことも罪であると教えています。ヤコブ4:17に「なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。」とある通りです。これは「怠りの罪」と呼ばれてきました。もし、誰かが道で倒れていたら、救急車を呼ぶなど、適切な処置をしてあげなればなりません。みんなが、「誰かがするだろう。」と言って見て見ぬふりをしたら、その人は車にひかれてしまうかもしれません。また、子どもが危ないことをしていたら、注意し、守ってあげなければなりません。「自分の子どもじゃないから。」と言ってほっうておいたら、大けがをするかもしれません。そうした場合、神は、それを見ながら、手をさしのべなかった人にその責任を問われるのです。

 「怠りの罪」はしばしば軽く扱われますが、神の前には「違反の罪」と同じ大きな罪です。ビリー・グラハムは『恐るべき七つの大罪』という本を書きましたが、「怠りの罪」はその「七つの大罪」に含まれています。信号を無視し、猛スピードで車を運転するのは、危険きわまりない罪ですが、同じように「居眠り運転」も、人の命を奪い、また自分の命をも失ってしまう危険な罪です。神が私たちに求めておられることを後回しにしたり、無頓着だったり、また、無視してしまう「怠りの罪」は「居眠り運転」にたとえることができるでしょう。

 マタイの福音書にある主の祈りでは「私たちの負いめをお赦しください。」とあって、罪が「負いめ」として表されていますが、「怠りの罪」は、当然支払うべきものを支払わないわけですから、借金のようなものです。この借金を積み重ねていくと、それは知らず知らずのうちに私たちのうちに大きな「負債」となってのしかかってきます。借金まみれの生活をしている人が、あげくの果てに死を選んだりするように、この霊的な負債も、私たちに死をもたらします。私たちが地上で生きるために日ごとの糧が必要なように、私たちが天で永遠に生きるためにはこの負債の「ゆるし」が必要です。「ゆるし」はこの霊的な借金、また、負債を免除しくれるものなのです。

 主の祈りを真剣に祈る者は、かならず「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」との祈りに導かれます。そして、神は「わたしたちの罪をおゆるしください。」と祈る者に、キリストによって罪のゆるしを与えてくださるのです。多くの人が、キリストのゆるしを受けることによって、今まであんなに難しかった「人の罪をゆるす」ということが素直にできるようになったという体験を持っています。中には、それでも「人の罪をゆるす」ことに困難を覚え、苦闘し続ける人もあるでしょう。しかし、その苦闘は無駄にはなりません。それによって、自分が受けたゆるしがどんなに尊いものかが分かり、ゆるしの恵みをもっと豊かに味わうことができるようになるからです。

 二、キリストのゆるし

 教会にある罪のゆるしは第二に、キリストにから来るゆるしです。聖書は「神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」(ヨハネ3:17)と教えています。イエスは私たちにゆるしを与えるために世に来られました。ゆるしはキリストから与えられるのです。

 イエスがある家で教えておられると、その家の屋根がぼっかりと開き、そこから、中風のために体の自由が効かない人がその寝床ごと吊り降ろされてきたことがありました。そのとき、イエスはこの中風の人に「あなたの罪は赦された。」と宣言しました。なんと素晴らしい宣言でしょうか。おそらくこの中風の人は、自分のたましいの行く末を考え、真剣に罪のゆるしを願っていたのでしょう。中風の人を連れてきた友人たちは、この人の病気を直してやりたいと思ってイエスのもとに連れてきたのですが、イエスは、この人に、病気のいやし以上のもの、たましいのいやしである罪のゆるしを与えてくださったのです。ところが「パリサイ人」と呼ばれる人々はこれを見て「神をけがすことを言うこの人は、いったい何者だ。神のほかに、だれが罪を赦すことができよう。」と言ってイエスを非難しました。これに対してイエスはご自分が罪をゆるす権威を持っておられることを示すため、この中風の人を即座に立ち上がらせました。友だちに運ばれてイエスのところに来たこの人は、こんどは、寝床を担ぎ、自分の足で家に帰ったのです。この出来事は、イエスが人々の罪をゆるすために来られたこと、そして、その権威をもっておられることを示すものでした(ルカ5:17-26)。

 また、イエスが別の家で食事をしているとき、ひとりの女性がイエスのところに来て、足を涙でぬらし、自分の髪の毛でそれをぬぐい、イエスの足に香油をつけました。この女性が「不道徳な女」として町中に知られていた女性だったので、イエスを食事に招いたその人は、この女性になすがままをさせているイエスを心の中で批判しました。それに対してイエスはひとつのたとえを語り、この女性に「あなたの罪は赦されています。」と宣言し、「安心して生きなさい。」と言ってこの女性を帰らせています(ルカ7:36-50)。罪のゆるしを願ってイエスのもとに行く者は、ゆるされて帰って来るのです。

 世をさばくためなら、イエスには何の犠牲も必要はありませんでした。イエスは十分にきよく、正しいお方であり、あらゆる悪をさばく資格があるお方だからです。しかし、世を救うためには、イエスはご自分を犠牲にしなければなりませんでした。世を救うためにご自分がさばかれなければならなかったのです。私たちにゆるしを与えるために来られたイエスは、人からも神からも見捨てられ、十字架の上で、私たちが受けなければならない罪の刑罰を受けてくださったのです。

 しかし、イエスはその十字架の上からも、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)と、人類の罪のためにとりなしをしてくださいました。

 イエスの十字架の右と左にはそれぞれ、犯罪人が同じように十字架にかけられていました。ひとりの犯罪人は、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言って、イエスをののしり続けていました。十字架刑は歴史上最も残酷な処刑で、あまりの苦しみのために発狂する者さえあったそうです。イエスをののしり続けた犯罪人も、まともな精神状態でなかったかもしれません。しかし、もう一方の犯罪人は違いました。そして、イエスをののしり続ける犯罪人に、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。」と言ってたしなめています。苦しみの中でも、この犯罪人は冷静にイエスを見、自分を見つめています。彼は、自分の罪を認め、イエスが特別なお方であることを信じました。「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」ということばがそれを示しています。彼は悔い改め、自分が受けなければならない刑罰を受け入れました。しかし、それだけで終わらず、イエスにあわれみを求めています。罪のゆるしを求めています。彼は言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」彼は、イエスは救い主であり、イエスは御国の王であるとの信仰を持ちました。しかし、さんざん悪事を重ねてきた彼は、「御国に入れてください。」とは言えず、「私を思い出してください。」としか言えませんでした。しかし、イエスは彼に約束されました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」天国には罪がありませんから、彼が天国に入るためには、罪がゆるされていなければなりません。イエスは彼に天国を約束することによって「罪のゆるし」を与えられたのです。

 この犯罪人は、今まで罪に罪を重ねてきました。死ぬ間際になってやっと悔い改めたのです。それでも、イエスは彼に「罪のゆるし」を与えました。たとえ悔い改めて信仰を持っても、この人は、神のためになんの良い行いもできません。しかし、それでも、イエスは彼の罪をゆるし、彼に天国を約束されたのです。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」罪ゆるされた彼はイエスに伴われてとも天国に向うのです。「ゆるし」は善行に対する報いではありません。それはまったくの恵みです。「ゆるし」が、私たちが自分の努力で手にするものなら、私たちの努力は不完全ですから、そのような「ゆるし」も不完全なものになります。私たちはいつまでたっても「ゆるし」の確信を得ることができません。そして、「ゆるし」の確信のないところには、「ゆるし」の力は働かないのです。しかし、「ゆるし」が神の恵みであるなら、それは完全なものです。「ゆるしの恵み」に信頼し、それに生きる人は、その恵みによって他の人々をもゆるすことができる者へと変えられていくのです。

 三浦綾子の小説「氷点」は彼女の作家としてのデビュー作品ですが、今も、テレビ番組になるほど、息長く読まれています。この小説の主人公・陽子は3歳の娘ルリ子を亡くした辻口啓造・夏枝のもとにもらわれてきました。陽子は両親に愛されてしあわせな日々を過ごしていたのですが、夏枝は陽子が実の娘ルリ子を殺した殺人犯の子どもであることを知るようになり、陽子をいじめるようになります。陽子も、のちに自分が殺人犯の子供であることを知り、自殺を図ります。陽子はその遺書にこう書きました。

現実に、私は人を殺したことはありません。しかし法にふれる罪こそ犯しませんでしたが、考えてみますと、父が殺人を犯したということは、私にもその可能性があることなのでした。自分さえ正しければ、私はたとえ貧しかろうと、人に悪口を言われようと、意地悪くいじめられようと、胸を張って生きていける強い人間でした。この罪ある自分であるという事実を耐えて生きていく時にこそ、本当の生き方が分かるのだという気もします。私は今まで、こんなに人に赦してほしいと思ったことはありませんでした。お父さん、お母さんに、世界の全ての人々に。私の血の中を流れる罪を、はっきりと『赦す』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。

 「私の血の中を流れる罪を、はっきりと『赦す』と言ってくれる権威あるものがほしいのです。」陽子のこのことばは、そのまま、私たちの心の叫びではないでしょうか。教会には罪のゆるしがあります。罪を赦す権威のあるお方、キリストがおられます。このお方のもとに集い、ともに「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」と祈っていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、イエス・キリストの十字架によって、完全な罪のゆるしをお与えくださったことを心から感謝します。私たちが罪のゆるしを確かなものとして体験するために、あなたが与えてくださった、罪のゆるしの福音、罪のゆるしのバプテスマ、罪のゆるしのためにささげられたキリストの体と血にあずかる聖餐、そして、「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」という祈りを感謝します。この祈りを祈るたびに、私たちをゆるしの恵みに生きる者とし、その実を結ぶ者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/14/2010