十字架の赦し

ルカ23:33-38

23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。

 今日は三月十日、あすで、九月十一日のテロ・アタックから半年が経ちます。昨年までは、ニューヨークの大惨事のことをみんなが心にかけていましたが、年があけてからは、かなり関心がうすれてきたように感じます。九月、十月にはあちらこちらに掲げられていた星条旗も、ハロウィーンの飾りやクリスマスの飾りつけにとってかわり、今ではプレジデント・デーなどの祝日にも国旗を掲げる人が少なくなりました。しかし、テロの影響はいまだに続いており、また全世界に広がっています。愛する人々を一瞬にして亡くした多くの人の悲しみはまだ癒えることなく、その場に居合わせて、目の前で、アメリカ第一の建物が、何千という人々の命とともに崩れ去っていったのを見た人々には、消えることのない心の傷が残っていることでしょう。私たちは、九月十一日を風化させてはなりませんし、あの時に全国民が心を合わせて、アメリカのリバイバルのため世界の平和のため祈った祈りを決して忘れてはならないと思います。「わたしの名を呼び求めているわたしの民がみずからへりくだり、祈りをささげ、わたしの顔を慕い求め、その悪い道から立ち返るなら、わたしが親しく天から聞いて、彼らの罪を赦し、彼らの地をいやそう。」(歴代誌第二7:14)との約束を覚えて、引き続いて神の赦しといやしを祈り求めましょう。

 さて、暦の関係で、今年はイースターが早く、今週はもうレントの第四週となりました。二三日は子どもたちのためのイースター・フェスティバル、二四日はパームサンデーで、受難週が始まります。そして二九日はグッドフライデーです。いままでベイエリアで合同で行っていたグッドプライデー礼拝は今年から、それぞれの教会で行われることになり、私たちは、今年はじめて、日英合同のグッドフライデー礼拝を午後七時三十分から持つことになりました。この日、三名の方々が、イエス・キリストが十字架の上で語られた七つのことばから、お話をしてくださいます。グッドフライデーの礼拝にも多数ご参加ください。イエスの十字架であがなわれた者たちが共に十字架をあおぐ、幸いなひと時を持ちたいと思います。三一日のイースターには、バプテスマ式と聖餐式があります。イースターにバプテスマを受ける方々が、来週と再来週の礼拝でそれぞれ二名づつお証しをしてくださいます。四名の方々のためお祈りください。

 一、御子イエスの祈り

 このレントの期間、日曜日の礼拝でも、十字架の七つのことばを学んでみたいと思い、今朝は七つのみことばの最初のものを選びました。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」私は、このことばをイースターがめぐってくるたびに何度も何度も読んできました。この個所についての多くの書物を読み、またメッセージを聞いてきました。しかし、今年、改めてこの個所を読み、思い巡らしていて気がついたのは、この祈りは、イエス以外は決して祈ることができない祈りだということでした。

 この祈りは、自分を十字架につけた人々のために、その罪の赦しを願う祈りです。もし私たちが無実の罪をきせられたら、いわれもないことで非難されたり、苦しめられたらどうするでしょうか。きっと無実を訴え、受けた非難に反論し、やりかえしてやりたくなるでしょう。しかし、イエスは、あざけりや侮辱をただ黙って受け、自分を苦しめる人々のために祈られました。

 イエスは、弟子たちと最後の晩餐を済ませてからゲツセマネの園で徹夜の祈りをされました。そこに大祭司たちが送った人々がやってきてイエスをつかまえました。彼らは一晩中イエスを裁判に引っ張りまわしました。裁判では数多くの偽りの証人がそれぞれ好き勝手なことを言いましたが、イエスはただ黙っておられました。ユダヤ人はイエスをローマ帝国への反逆者として総督ピラトに訴えました。そしてピラトがイエスに尋問するのですが、その時も、イエスは黙っておられました。ピラトはイエスは無罪であると言ったのに、人々はイエスを「十字架につけろ」と要求し、ついにその声が勝ちました。ローマの兵士たちがイエスを鞭打ち、こぶしで叩いても、イエスは口を開きませんでした。彼らはイエスに十字架を背負わせ、エルサレムの市中を引き回した上でカルバリの丘に連れていきました。

 「カルバリ」というと、響きの良いことばに聞こえますが、これはユダヤの言葉では「ゴルゴダ」と呼びます。「ゴルゴタ」というといかにも、不気味な響きがしますが、これは「どくろ」とか「されこうべ」という意味の言葉なのです。その丘が人間の頭蓋骨の形をしていたからそう呼ばれるようになったとも、そこは死刑を執行する場所で、そこには死刑にあった人の頭蓋骨が転がっていたからとも言われています。いずれにしても、イエスが連れていかれた場所は死の場所だったのです。

 そこに着くとローマ兵たちは、イエスの両手、両足を十字架に釘付けにしました。その釘を打ち込む音は、甲高く、エルサレムの町に響いたことでしょう。そしてローマ兵は数人がかりで十字架を立て、すでに掘ってあった穴の中に十字架の縦の柱をどすんと落とし込みました。その振動で、イエスのくぎづけられた両手、両足の傷はさらにひろがり、血がほとばしり出たことでしょう。しかし、イエスはその時も、叫び声を上げませんでした。イエスの十字架を固定すると、ローマ兵は、続いて他の二人の犯罪人をも十字架につけました。聖書はイエスの十字架が立てられたのが午前九時ごろだったと伝えていますが、それから一時間も経たないうちに、兵士たちは、慣れた手つきで、イエスの十字架の右と左にも十字架を立てたことでしょう。こうして、「どぐろの丘」に三本の十字架が並んだのでした。

 ここに至るまで、イエスはほとんど口を開きませんでした。偽りの証言に対しても、あざけりやののしりの言葉にも、また鞭で打たれ、こぶしで叩かれても、黙ってそれを耐え忍ばれました。イザヤが「彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く子羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。」(イザヤ53:7)と預言し、ペテロが「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。」(ペテロ第一2:22-23)と言っているとおりです。しかし、十字架の上でイエスは、はじめて口を開きました。しかもそれは、自分のためではなく、自分を十字架で殺そうとしている人々のためにです。彼らのためにとりなしの祈りをささげるためだったのです。

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」人間の中で誰が、いったい、このような祈りをすることができるでしょうか。どんなに立派な人間であっても、人間にはこのような祈りをささげることはできません。このような祈りが出来るのは、私たちを愛し、私たちの救いを心から願い、そのためにご自分の命をもささげられた神の御子、キリスト以外にありません。したがって、この祈りを祈られたイエスこそ神の御子キリストなのです。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」この祈りはイエスが祈られた祈りです。あまりにも、あたりまえのことですが、私は、このことから、改めて、この祈りを祈られたイエスを神の子、キリストとしてあがめることができました。

 二、私たちのための祈り

 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」このことばから第二に教えられたことは、イエスが、私たちのために祈っておられるということです。

 イエスが「彼らをお赦しください。」と祈られたその「彼ら」の中には誰がいたでしょうか。まず、ローマ兵がいたでしょう。イエスを鞭打ち、紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶせ「ユダヤ人の王様、ばんざい」とののしったローマ兵、イエスに十字架を背負わせ、その両手両足に釘を打ち込み、イエスの着物をくじ引きで取り合い、「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」とあざけったローマ兵のため、イエスは「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られました。

 しかし、ローマ兵がこのようなことをしたのは、ローマの総督ピラトがイエスを十字架に引き渡したからです。ピラトはイエスが十字架につけられるようなことは何もしていないことを知っていました。彼なりに、イエスを釈放しようと努力もしました。しかし、彼は自分の立場を守るために、ユダヤ人の要求を呑んでしまったのです。ピラトがもう少し頑張ったらイエスは十字架につけられなくて済んだかもしれません。このピラトだけはゆるせない、私たちだったらそう思うかもしれませんが、イエスは、ピラトのためにも祈られました。

 また、イエスが「彼らをお赦しください。」と祈られたその「彼ら」の中には、陰謀によってイエスを十字架に引き渡したユダヤの指導者たち、また、「イエスを十字架につけろ」と叫んだ人々も入っていました。この人たちは、イエスの敵と言ってもよい人々でした。しかし、イエスはご自分の敵のためにも祈られたのです。今、祈り会で使っている『レントの黙想』の二月二三日の祈りに「主、私たちの神よ、あなたは、十字架に掛けられ、あなたの敵となるであろう人々のために祈られました。あなたは、敵を持たずに亡くなられました。私も同じことができるよう助けてください。」とありました。イエスはその大きな愛によって、自分を傷つけ、苦しめ、殺そうとする人々をご自分の側に取り込んでしまわれたのです。「あなたは敵を持たずに亡くなられました。」とは本当にその通りです。

 イエスが「彼らをお赦しください。」と祈られたその「彼ら」の中には、イエスの十字架を見て逃げ出してしまったふがいのない弟子たちや、イエスに同情し、イエスのために悲しんだとしても、イエスがかならず死を打ち破って復活されるということを信じることができなかった人々も含まれていたことでしょう。また、イエスの十字架にあるこの大きな愛を知っていても、冷たい心でしかイエスに向かっていない現代の私たち、復活の力を知りながら、それに頼らずにいるこの時代の人々も、イエスの祈りには含まれていたことでしょう。イエスは、今も、父なる神に、私たちのためにとりなしていてくださっており、今、ここにいる私たちのためにも、神に赦しを祈っていてくださるのです。私たちのために父なる神に赦しを求める祈りは、二千年前の「されこうべの丘」にこだまして消え去ってしまったのでなく、今も、イエスによって祈り続けられています。「父よ。彼らをお赦しください。」これは私たちのための祈りです。

 三、赦しのための祈り

 「父よ。彼らをお赦しください。」この祈りから学んだ第三のことは、イエスは私たちの罪の赦しのために祈られ、その祈りが聞き届けられるためにご自分の命をささげられたということです。考えてみれば、イエスのご生涯は、私たちを罪から救い出す、この一点に向けられていました。イエスがお生まれになる前に、天使はイエスについて預言して、「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださるお方です。」と言っています。今まさに罪の赦しのために御子の命がささげられようとしている時に、ささげられたこの祈りは、イエスが罪の赦しの使命を果たそうとしておられる祈りでもあったのです。

 昔、アフリカのある村で、大きな失敗をした奴隷に腹を立てた酋長は、その奴隷を死刑にしようとしました。その村に来ていた白人の宣教師がこのことを知ると、彼の持っていた様々な品物を持って、酋長のところに行き、「これらの品物を受け取ってださい。これでどうぞ、彼を赦してやってください。」ととりなしました。しかし、酋長は「そんなものはいらない。俺は欲しいものは何でも持っている。欲しいものがあったら、力づくで奪ってくることもできるんだ。俺が欲しいのはこいつの血だ。」と言って、宣教師が持ってきたなだめの品物を受け取ろうとはしませんでした。宣教師はなすすべがなく、そこに立ちすくんでしまいました。

 奴隷は木にくくられ、酋長のしもべがねらいをさだめました。酋長が「矢を放て」と言うと、矢は奴隷めがけて飛んでいきました。その時、誰かが奴隷の前に飛び出して立ちふさがったのです。見ると、あの宣教師でした。矢は宣教師のふとももに突き刺さりました。彼は、痛みをこらえて酋長のところまで這って行き、血だらけの矢を抜いて、酋長に差し出して言いました。「酋長、あなたが欲しいと言っていた血です。受け取ってください。これであの奴隷を赦してやってください。」これには、さすがに強情な酋長も心を動かされました。酋長は「いいだろう。おまえは自分の血でやつを助けたのだから、あの奴隷はおまえのものだ。好きなようにするがよい。」と、奴隷を解放しました。

 解放された奴隷は、倒れている宣教師のところに駆け寄って言いました。「こんな私のために、身代わりになってくださって、ありがとうございます。これからは一生涯、あなたに仕える者となります。」その後、この奴隷は宣教師の働きを助けて、残る生涯を忠実なしもべとして仕えました。

 私たちは、イエスの血によって、罪の赦しをいただきました。罪の責めから解放されました。イエスをあざける人々は「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言いましたが、イエスは、神の子、キリストだからこそ、ご自分を救わなかったのです。イエスは全身全霊で、ご自分の命をかけて、罪の赦しを勝ち取ってくださったからこそ、イエスのこの祈りは聞き届けられ、私たちは、今、罪の赦しを受け取っているのです。「父よ。彼らをお赦しください。」この祈りはすでに成就しています。この祈りが今朝、あなたにも成就するよう心から祈ります。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスの祈りが、私たちのための祈り、私たちが罪の赦しを受けて、あなたの愛と恵みを十二分にいただくことができるための祈りであったことを感謝いたします。日々、あなたに赦され、豊かな赦しを受けて、ついには、私たちも他と人々とキリストの赦しを分かち合うことができるものとしてください。私たちのために「父よ。彼らをお赦しください。」と祈られた祈りが、ついには、私たちが他の人のために祈る祈りとなりますように。救い主キリストのお名前で祈ります。

3/10/2002