茨の冠

ルカ23:1-12

オーディオファイルを再生できません
23:1 そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
23:2 そしてイエスについて訴え始めた。彼らは言った。「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」
23:3 するとピラトはイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」と尋ねた。イエスは答えて、「そのとおりです。」と言われた。
23:4 ピラトは祭司長たちや群衆に、「この人には何の罪も見つからない。」と言った。
23:5 しかし彼らはあくまで言い張って、「この人は、ガリラヤからここまで、ユダヤ全土で教えながら、この民を扇動しているのです。」と言った。
23:6 それを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ねて、
23:7 ヘロデの支配下にあるとわかると、イエスをヘロデのところに送った。ヘロデもそのころエルサレムにいたからである。
23:8 ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行なう何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。
23:9 それで、いろいろと質問したが、イエスは彼に何もお答えにならなかった。
23:10 祭司長たちと律法学者たちは立って、イエスを激しく訴えていた。
23:11 ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。
23:12 この日、ヘロデとピラトは仲よくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

 ラズベリーはジャムなどにするととてもおいしいのですが、ちいさなパックでも結構いい値段です。ラズベリーはバラ科の植物で、大きなトゲがあって収穫しにくいからだそうです。トゲのない品種もあるそうですが、レッドベリー、ブルーベリー、ブラックベリーなど、ベリー類はトゲがあるのが普通です。ベリー類のようにトゲをもった背の低い植物を「茨」と言いますが、イスラエルで一般的な茨は、ヘブル語で「シラー」、日本語で「トゲワレモコウ」という植物です。これはトゲが鋭いので、羊飼いたちが羊の囲いの石垣の上に乗せて、羊を襲おうとする動物を防ぐのに使いました。また、燃えやすいので、かまどのたきつけにも使いました。燃やすと、パチパチパチと賑やかな音を立てます。それで、伝道者の書7:6で「愚かな者の笑いは、なべの下のいばらがはじける音に似ている。これもまた、むなしい」と言われています。シラーは跡形もなく燃え尽きますので、この伝道者のことばは、この世でおもしろおかしく笑っていても、それはほんの一瞬のことでしかない。だから、人生をしっかり考えるようにという教訓なのでしょう。

 イエスにかぶせられた茨の冠は、このシラーで作られたと考えられています。ただシラーは枝が短く、冠の形にするのは難しいので、その名も「キリスト・イバラ」と呼ばれている茨で、その冠が作られたという説もあります。いずれにせよ、兵士たちがイエスに茨の冠をかぶせたとき、そのトゲは額を裂き、そこからも血が流れ出たに違いありません。イエスは、肩、背中、腰、足をムチ打たれ、傷つけられたばかりでなく、その頭もまた、茨の冠で傷つけられました。

 しかし、イエスにかぶせられた茨の冠には、ただイエスの肉体を傷つけたという以上の意味があります。茨の冠は、小さく、軽いもので、イエスが受けたローマのムチのように、人を致命傷に至らせるようなものではありません。しかし、そこには、大きく、重く、大切な意味があります。それは人間の罪のしるしであり、また神の恵みのしるしでもあります。そのことをご一緒に考えてみたいと思います。

 一、不法

 第一に、茨の冠は不法のしるしです。

 ユダヤの最高議会で有罪とされたイエスは、ローマの総督ピラトのもとに送られ、ピラトはイエスを十字架に引き渡しました。十字架につける犯罪人をムチ打つのはローマの習わしでしたが、このときローマ兵は、イエスに対してしてはいけないことをしました。イエスをからかい、侮辱し、辱めたのです。マルコ15:16-20に、そのときのことが、次のように書かれています。

兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。

 ローマ兵は、任務に忠実で、規律が正しいことで知られていました。イタリヤの小さな都市国家でしかなかったローマが大帝国になったのは、その軍隊が勇敢なだけでなく、統制がとれていて、兵士たちが戦利品を略奪したりすることがなく、徹底して同盟国を守り、助けたからであると言われています。聖書には、人格的に優れた、ローマの百人隊長が何人も登場します。しかし、ここでのローマ兵は規律を破って、イエスをいたぶっています。

 いまでこそ、犯罪を犯して被告になった人や、有罪の判決を受けて刑に服している人に対しても、その人権が尊重される時代になりましたが、今から二千年前のローマでは、犯罪人に人権などありませんでした。犯罪人は乱暴に取り扱われました。しかし、すべての犯罪人がイエスのように愚弄されたわけではありません。イエスの代わりに釈放されたバラバなどは、暴動と人殺しのために投獄されていたのですが、そんな目にはあいませんでした。イエスといっしょに十字架につけられたふたりの犯罪人たちは、最初はイエスをののしることができたほどで、あまり痛めつけられることもなかったようです。彼らは、ローマ兵からいたぶられたわけではありませんでした。それなのに、イエスだけが、不当な扱いを受けています。ローマ兵がイエスに対してしたことは、ローマの軍規にもとる不法なことだったのです。

 そもそも、イエスが受けたユダヤの議会での裁判そのものが不法、不当なものでした。ローマの総督がイエスを十字架に引き渡したのも、ユダヤ人の暴動を恐れ、自分の身を守るためだったのです。罪のないお方が罪を着せられたのですから、それだけでも大きな不法ですが、そのうえ、どの犯罪人も受けることのなかった不当な扱いを、イエスは受けられたのです。

 それは、イザヤ53:8に「しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた」とある預言が成就するためでした。世の中には、不法や不正、不当なことがいくらでもあります。公正であるべき裁判でさえ、弁護士の腕次第でどうにでもなると言われています。お金のある人はいたれりつくせりの治療を受けることができても、お金のない人は病院から追い出されるということもあります。民主主義の発達していない国では選挙の票がお金で買われたりします。会社で上層部の不正に触れるようなことを口にしようものなら、たちまち首になるといったこともあるでしょう。人間のそうした不法、不正がイエスを死に追いやったのです。イエスは、それを甘んじて受けることによって、この世界を不法と不正から救いだそうとされたのです。茨の冠は、第一に、人々の不法の象徴であり、また、その不法、不正をご自分の身に引き受け、私たちをそこから救ってくださる主イエスの恵みのしるしともなりました。

 二、侮辱

 第二に、茨の冠はイエスへの侮辱のしるしでした。

 ローマの兵士がイエスに茨の冠をかぶせたのは、イエスが、ご自分を「ユダヤ人の王」とされたからでした。総督ピラトがイエスに、「あなたは、ユダヤ人の王なのか」と尋ねとき、イエスは「そのとおりだ」と答えておられます。イエスが「そうだ」とお答えになったのは、「わたしはキリストだ」という意味でした。キリストは「ユダヤの王」として生まれるからです。しかし、それを聞いていた兵士たちは、「ユダヤの王」を政治的な意味でとらえました。ユダヤはローマの属国であって、そこにいる「王」など、名目のものに過ぎないと、ローマ兵は思っていました。イエスがお生まれになったときのヘロデ大王は政治的に力のある王でしたが、彼とても、ローマの元老院にとりいって、賄賂で王の称号をもらったに過ぎません。ローマ兵にとってヘロデの息子たちが、「王」だの、「領主」などと名乗っていても、しょせんはローマがユダヤ人を上手に扱うための手先でしかありませんでした。イエスがそんな「ユダヤの王」になりたいと名乗りをあげるなど、馬鹿げたことだと思ったのです。

 そして、「おまえが王さまなら、冠がいるだろう。さあ、これをくれてやろう。ユダヤの王さまには、この茨の冠がお似合いさ」と言わんばかりに、イエスに茨の冠をかぶせたのです。世界を支配しているローマが属国ユダヤを蔑んで与えたもの、それが茨の冠でした。茨の冠は蔑みと侮辱のしるしでした。そして、このことも、イザヤの預言の成就でした。イザヤ53:3に「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」とある通りです。

 現代は見せかけの時代です。みかけが良くて、ことばが巧みで、口のうまい人が得をするのです。自分をうまく宣伝して時代の波に乗ることができる人があがめられ、そうでない人は、どんなに誠実であっても、いやしめられ、蔑まれるのです。現代の私たちは、人を外側だけで判断するのに慣れてしまって、人の内面、内実を見る目を失ってしまいました。そんな目でイエスをも見るものですから、イエスがほんとうの王である、ユダヤの国やローマ帝国どころか、全世界を、全宇宙を治めてくださる王であることが分からないのです。クリスチャンは、イエスを「王」とし、「主」と告白する者であるはずなのですが、信仰の目が曇ってしまうと、「イエスは王」「イエスは主」という告白が、単に言葉だけのものになってしまい、王であり、主であるイエスの素晴らしさを慕い、王であるイエスに忠誠を尽くし、主であるイエスに従うこともなくできなくなってしまいます。私たちの曇った目をもういちど明らかにしていただいて、イエスのほんとうのお姿を見つめたいと思います。

 初代のクリスチャンは、イエスが受けたのと同じ侮辱を受けました。クリスチャンはローマの神々を拝まなかったので「無神論者」と呼ばれました。ローマ皇帝を礼拝しないので、「反逆者」という罪も着せられました。兄弟愛の教えは曲げてとられ、「クリスチャンは近親相姦をしている」と中傷されました。また、聖餐でパンとぶどう酒をキリストのからだ、キリストの血としていただくことを、「人肉を食べ、その血を飲んでいる」とさえ言われたのです。そもそも「クリスチャン」という名前は、「あいつらはキリストのやつらだ」という軽蔑の意味でつけられたものでした。また、十字架はいまわしいもののシンボルでしたから、人々は、クリスチャンを見ると、十字を切って、「あっちへ行け」と退けたのです。しかし、イエスに従う人々は「クリスチャン」(キリストの者)という名前を喜び、みずからをそう名乗りました。また、人々が自分たちを退けたしぐさを、自分たちの祈りのしぐさにし、イエスの十字架を誇ったのです。

 クリスチャンもまた、侮辱や迫害という茨の冠をかぶせられましたが、かつては茨の冠をかむられたイエスが、今は栄光の冠をかむっておられることを思って、それに耐えました。茨の冠が栄光の冠に変わることを信じて、その時を待ち望んだのです。

 三、拒否

 第三に、イエスにかぶせられた茨の冠は、イエスへの拒否を表わします。

 マルコ15:16に「兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた」とありました。ローマ総督の直属の部隊は「コホルス」と呼ばれる部隊で六百人の精鋭から成り立っていました。その六百人が皆集まり、イエスに紫の衣を着せ、いばらの冠をかぶらせ、葦の棒をもたせ、その前で「ばんざい」と叫び、ひざまづいて拝んだりしたのです。ローマ兵がイエスに対してした、このしぐさは、明らかにローマ皇帝に対する礼拝の儀式でした。ローマ皇帝は、月桂冠をかむり、紫布を身につけ、王権のシンポルであるステッキを持って人々の前に立ちますので、兵士たちはイエスに茨の冠をかぶらせ、古びたマントを着せ、王のステッキのかわりに葦の棒を持たせたのです。イエスをユダヤの王としてからかうだけでは飽き足りず、ローマ皇帝に見立てて、イエスの前にひざまづいたり、拝んだりしてみせたのです。ローマの兵士たちは全部隊を招集してそれをしたというのですから、こうなれば、兵士個人がイエスを愚弄したというよりは、ローマの精鋭部隊が組織としてイエスを辱めたことになります。

 兵士たちは、そうすることによって、「自分たちには神の国もキリストもいらない。自分たちにはローマ帝国があり、皇帝がいる」と言って、神の国をこばみ、キリストを拒否したことになります。彼らは、神の国のかわりにローマ帝国を、キリストのかわりに皇帝を選んだのです。イエスを愚弄することによって、兵士たちはローマ帝国こそ永遠で、ローマ皇帝こそ全能であると告白したことになるのです。

 現代の私たちも、この兵士たちとおなじようではないでしょうか。私たちの多くは無神論者のように神を拒みはしません。ほとんどの人が、どこかに「神」と呼ばれる方がおられると感じています。聖書の教えは良いもので、イエス・キリストは偉大な人物であったと思っています。しかし、その生き方においては、キリストではなく、自分の力や地上のものに頼ることを選んでいます。物の考え方も、聖書が教えることによってではなく、人間の知恵に従っています。そして、物の感じ方においては、聖なるものを喜ぶよりは、この世のものを楽しみ、それを追い求めています。イエスに茨の冠をかぶせた兵士たちの姿に憤慨しながら、じつは、自分自身が、こぞって王なるキリストを退けたローマ兵のひとりなのだと気付かされるのです。自分は神の国を求めている、イエスを退けていないと言いながらも、実際はイエスではなく他のものを王としているかもしれないのです。

 イエスは、このように拒否されましたが、イエスはそれでも、人々に対してあわれみ深く、彼らを神の国へと招き続けてくださいました。ローマ兵はイエスをからかってイエスを礼拝するしぐさをしましたが、このイエスの恵みによって、ローマ兵がほんとうにイエスを礼拝する時がすぐそこにやってきていたのです。イエスの十字架刑を担当した百人隊長は、イエスの死を見て、「まことにこの人は神の子であった」と認めています。使徒の働きに出てくるコルネリオ、ピリピで刑務所長をしていたローマ兵、また使徒パウロを監視していたローマの近衛兵たちが次々と信仰を持ちました。イエスは「自分が何をしているか分からずにいる」ローマの兵士たちをあわれみ、彼らの侮辱に報いず、かえって信仰の恵みを分け与えてくださったのです。

 総督ピラトの官邸で、神の国とこの世の国とが衝突しました。そして、この世が一時的に勝利をおさめたかのように思われました。しかし、歴史に明らかなように、コンスタンティン皇帝がみずからクリスチャンとなり、イエスに茨の冠をかぶせたローマはついにイエスの前にひざをかがめ、イエスに栄光の冠をささげるようになりました。これ以上に強力な帝国は二度と起こらないと思われたローマ帝国は滅びました。しかし、茨の冠をかぶせられたイエスの御国は、世界に広がり、今にいたるまでも続いているのです。

 茨の冠は不法のしるしでした。しかし、イエスの正しさが不法に打ち勝ちました。茨の冠は侮辱のしるしでした。しかし、イエスの忍耐が侮辱を栄光に変えました。茨の冠は拒否のしるしでした。しかし、イエスの愛と恵みが憎しみと拒否を打ち破りました。弱いものが強いものをうちまかし、小さなものが大きなものをつきくずし、見捨てられたものが、おごるものを引き下ろしたのです。私たちも、苦難や理不尽、また自分自身の中にある矛盾に嘆くとき、イエスのお苦しみの中にあるこの勝利を見つめ、そこから、ほんとうの解決へと導かれたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、「ゲッセマネでの苦しみ」、「ムチ打ち」に続いて、私たちは今朝、イエスがかぶられた「茨の冠」を想い見ました。私たちは、主イエスのお苦しみを少しでも理解したいと願っています。そうであるのに、自分が苦しみにあったときには、イエスが私のために苦しんでくださったことを忘れ、じぶんひとりで苦しみを背負い込んでしまいます。どうぞ、そのようなときこそ、主イエスが私の苦しみとともにいてくださるこを覚えることができますよう、助け、導いてください。「信仰の試練は、やがて賞賛と光栄と栄誉に至る」とある、あなたの約束によって、私たちを支えてください。主イエスのお名前で祈ります。

3/18/2012