新しい契約

ルカ22:19-20

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22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 一、過越の食事

 ある人と一緒に食事をしていたとき、私も、その人もいっしょにミート・バン(肉まんじゅう)を取って食べました。その人は「これを食べるたびに、こどものころ、学校に持っていった昼食がいつも肉まんじゅうだったのを思い出すんですよ」と話してくれました。私は、電車の駅の構内で売っていた肉まんじゅうをおみやげに買って帰ったことを思い出します。家に帰ってもまだ暖かく、夜食にちょうどよいものでした。それぞれの食べ物は過去の記憶とつながっていて、それを食べるたびに、それに関連した出来事を思い出すものです。

 サンクスギヴィング・デーには、ターキーとクランベリー・ソース、ポテトとパンプキン・パイ、それにコーンを食べます。四百年前に開拓者が食べたのと同じものを今も食べます。メイフラワー号はヴァージニアを目指していましたが、悪天候のためコースを外れ、寒さの厳しいマサチューセッツのケープコッドに錨を降ろしました。陸地が雪で覆われていたため、人々は船に留まって冬を過ごしました。飢えと寒さ、そして病気のため、102名の乗客のうち半数が亡くなり、生き残ったのはわずか50名でした。そうした困難にもかかわらず、春になって人々は上陸し、先住民の廃村に家を建て、田畑を耕し、秋には新天地での最初の収穫を祝いました。それで、そのとき食べたと言われているものを、今でも食べることによって、アメリカのルーツを覚えてきたのです。

 それはどの民族も同じで、ユダヤの人々は、過越祭(ペサハ)には特別な食事をして、自分たちの民族のルーツを心に刻んできました。過越祭の夕食(セデル)には小羊のすねの骨、苦菜、クルミとデーツでつくるペーストなどを食べます。子羊の骨は、今では、骨つきのチキンで代用されるようですが、それは、「過越の子羊」を覚えるためのものです。エジプトに災いが臨んだとき、イスラエルの人々は家ごとに一頭の子羊を屠り、その血を家の入口に塗りました。血が塗られた家には災いが過ぎ越し、イスラエルはそれによって災いを逃れたのです。苦菜はエジプトでの奴隷の苦しみを覚えるもので、クルミとデーツでつくるペーストは先祖たちがレンガ造りの労働をさせられたことを思い起こさせるものです。過越の食事は、「ハガダー」と呼ばれる一定の儀式に従って行われます。キャンドルを灯し、祝福の杯を挙げ、手を洗い、塩水にパセリを浸し、パンを裂くなど、順番が決まっており、人々はそうした過越祭の食事を通して、神がイスラエルの人々を死の災いから救い、エジプトの奴隷から解放し、「神の民」としてくださったことを、毎年、繰り返して記念し、記憶したのです。過越の食事の中心は、神が、イスラエルとの間に立てられた契約です。それは「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」(出エジプト6:7)という契約でした。

 きょうの箇所に、イエスが「パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与え…食事の後、杯も同じようにした」とありますが、これは、イエスが過越の食事の儀式に従ったことを表しています。イエスが弟子たちといっしょにした食事は「過越の食事」でした。そして、過越の食事は神と人との契約・関係・まじわりを確かなものにするものであり、神が私たちにとってどういうお方であり、私たちが神にとって何者であるかを教えるものだったのです。

 二、新しい契約

 イエスは、この「過越の食事」に新しい意味を込めました。それまでの契約は、神がイスラエルの神であり、イスラエルが神の民であって、それは、イスラエルの子孫、ユダヤ民族に限定されていました。ところが、イエスは、「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」という神と人との契約を、ユダヤの人々だけでなく、イエス・キリストを信じるすべての人に広げてくださったのです。

 イエスはご自分の十字架を予告して「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、《多くの人》のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(マルコ10:45)と言いました。ここで「多くの人」と言われているのは「すべての人」という意味です。イエスがご自分の命を投げ出したのは、ユダヤの人々のためだけでなく、世界中のあらゆる人のためでした。また、マタイ26:28やマルコ14:24にも「これはわたしの契約の血です。《多くの人》のために流されるものです」とあります。イエスが、全人類のすべての罪を背負い、そのために血を流してくださったことによって、いままで「神の民」から除外されていた人々にも、「神の民」となる道が開かれたのです。

 「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」とあるように、イエスは、神がモーセを介して、イスラエルの人々との間に立てた契約を「旧い契約」(旧約)と呼び、ご自分を介して立てられる契約を「新しい契約」(新約)と呼びました。

 契約というものは、二人以上の者が互いに約束を守りあうことによって成り立ちます。どちらか一方がそれを守らなかったら、契約は解消されます。私は、以前、銀行を通してプライバシィ保護の契約に入っていたのですが、銀行が契約していた会社が契約通りの業務をしていなかったので、契約が打ち切られ、そのために払ったお金が戻ってきたことがあります。また、保険会社がちゃんと契約を守っていても、消費者のほうが保険金を払う義務を怠ったなら、その契約は終了します。同じように、イスラエルがいくら自分たちは「神の民」だと主張しても、神を信じることも、礼拝することもなく、かえって偶像礼拝をし、神の民に求められる正義も公正もないがしろにして、神の聖なる御名を汚し、他の人々の物笑いとなるなら、その契約は解消されるのです。

 ホセア1:9にこうあります。「主は仰せられた。『その子をロ・アミと名づけよ。あなたがたはわたしの民ではなく、わたしはあなたがたの神ではないからだ。』」イスラエルが神との契約を破ったので、イスラエルはもはや神の民ではなくなったというのです。ところが、次の10節には、突然のようにして「イスラエル人の数は、海の砂のようになり、量ることも数えることもできなくなる。彼らは、『あなたがたはわたしの民ではない』と言われた所で、『あなたがたは生ける神の子らだ』と言われるようになる」と書かれています。何度も何度も逆らい続けたイスラエルとの契約を解消することは、神にとっては、当然のこと、正しいことであるのに、神は、ご自分に背いた民を惜しみ、その回復のために契約を新しくしてくださるというのです。

 映画やテレビに出ている人が不祥事を起こしたら、出演契約が破棄され番組から降ろされるだけでなく、違約金を請求されます。もう一度そこに戻ることはおそらく不可能でしょう。ところが、神は、神に対して罪を犯した者たちと、もういちど契約を結んでくださるというのです。聖なる神と罪ある人間との契約、そんなことはありえないことです。人間の世界でもそんなことはありません。しかし、愛とあわれみの神、回復と癒やしの神は、そのことをしてくださったのです。エレミヤ31:31-33はそれを預言してこう言っています。

見よ。その日が来る。──主の御告げ。──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──主の御告げ。──彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ。──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
神は、この新しい契約に、イスラエル以外の人々も含めておられます。キリストを信じる者には、イスラエルと同じ、いや、それ以上の「神の民」としての幸いが与えられるのです。

 三、契約の成就

 過越の食事のとき、イエスは、この契約がどのようにして実現するかを目に見えるかたちで弟子たちに示しました。イエスはパンを裂いて弟子たちに与えて言いました。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。」パンが裂かれるように、イエスのからだが十字架の上で裂かれるのです。また、杯をささげて「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言いました。イエスは、はっきりと、「血を流す」、つまり、命を献げると言っています。過越のとき、子羊がほふられ、その血が流されました。それによってイスラエルの人々は滅びから救われ、エジプトの奴隷から解放され、神の民となりました。そのように、イエスも血を流し、信じる者を罪と死の奴隷から救い出し、神の民としてくださるのです。聖書は、イエスを「神の子羊」(ヨハネ1:29, 36)と呼び、「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」と言っています(コリント第一5:7)。

 旧約時代、神と人との契約は犠牲の血によって確かなものとなりましたが、イエスはご自分の血によって、神と人との新しい契約を確かなものにしてくださったのです。神の御子がご自身を献げた以上の貴い犠牲はありません。あの十字架の犠牲によって、もはや、どんな動物犠牲の血も必要でなくなりました。イエス・キリストが私の罪のために十字架で血を流してくださった。そして、私を救うために復活された。このことを信じる者は、その血によって罪を赦され、復活の命によって、新しく生まれかわります。そして、新しくされた私たちの霊のうちに聖霊が住んでくださり、聖霊の力によって神の律法を喜び、それに従う者になれるのです。エレミヤ書で「わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」と言われていたことが聖霊によって成就するのです。イエスは、そのようにして、「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」との契約を成就してくださいました。

 過越の食事のとき、イエスは弟子たちに「わたしを覚えてこれを行ないなさい」と命じました。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の壁画が有名になってから、この食事は一般には「最後の晩餐」と呼ばれるようになりました。もし、そう呼ぶなら、この食事は「最後の旧約の過越の食事」ということになります。旧約の過越の食事が指し示していた新しい契約はイエスによって成就したからです。この後、弟子たちは、過越の食事の代わりに、パン裂き、主の晩餐、聖餐と呼ばれるものを守り、イエスの十字架と復活によって成就した新しい契約を祝いました。イエスは旧約の「最後の晩餐」を、新約の「最初の晩餐」にしてくださったのです。

 ほとんどの教会でそうしていますが、健康上の理由で水を飲む以外は、礼拝の場には、食べ物も飲み物も持ち込みません。食事は礼拝が終わってからします。しかし、ひとつだけ例外があります。それが、主の晩餐、聖餐です。この時だけは、礼拝で食べたり、飲んだりするのです。パンとぶどう酒だけの簡素な食事ですが、この時、イエスも私たちと共にいて、食事を共にしてくださるのです。聖書には「最後の晩餐」という言葉はありません。一般に考えられているように、これはイエスとのお別れの食事ではなかったからです。イエスの復活ののち、弟子たちはふたたびイエスと出会い、そして、教会で行う聖餐でイエスと食事を共にしその喜びを味わいました

 神は、イエスの十字架によって立ててくさった契約を、神の側からは決して破ることはありません。それどころか、罪人を救ってご自分の民とするという契約を、聖餐によってより確かなものにしてくださいます。わたしたちは聖餐にあずかるたびに、「神は私の神、私たちは神の民。主イエスは今、ここに私たちと共におられる」という確信を強められ、平安と喜びと力に満たされます。イエス・キリストに従う生活がそこから始まるのです。いつの日か、そこにイエスをお迎えする聖餐を、私たちも行いたいと思います。毎週の礼拝をその日の聖餐の準備として守っていきたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、私たちはまだ聖餐を守ることができないでいますが、「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい」「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」との言葉を聞き、聖餐の意味を学ぶことができました。この意味を十分に理解して、聖餐に臨むことができますよう、助けてください。私たちを聖餐に向けて整えてください。私たちの過越の子羊、イエス・キリストのお名前で祈ります。

10/18/2020