主が望まれた食事

ルカ22:14-20

オーディオファイルを再生できません
22:14 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもイエスといっしょに席に着いた。
22:15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。
22:16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」
22:17 そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。
22:18 あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」
22:19 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」
22:20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 ことばは時代とともに変化します。英語もシェクスピアの時代と今の時代ではずいぶん違っているでしょう。日本語はもっと大きく変化しています。「変化」でなく「乱れ」だと嘆く人もいます。

 「お茶する?」「ランチする?」という言い方があります。「いっしょにお茶を飲みませんか」「いっしょにランチをたべませんか」という意味です。いっしょに映画を観に行くときは「映画する?」と言うのだそうです。「○○する」という言い方は、若い人たちでなく、年配の人も使っているようです。

 「ランチする?」と言って誰かを誘う食事は、空腹を満たし、栄養を補給するという以上のものがそこにあります。空腹を満たすためだけなら、ひとりで食べてもいいのです。ほんとうにお腹がすいて倒れそうになったら、誰かを誘っている余裕などなくなるでしょう。誰かと一緒に食事をすのは、一緒にいて話をするという目的があるからでしょう。私たちが食事をするのは車にガソリンを入れるようなものとは違います。ガソリンを入れたら、さっさと車を走らせます。けれども、食事をするとき、とくに他の人と食事をするときは30分、一時間と時間をかけ、それを楽しみます。食事はたんなる栄養補給のためのものでなく、そこにはもっと別の役割があるからです。

 それは、主イエスの場合も同じでした。イエスは、しばしば人々といっしょに食事をされましたし、「食事をする」ということばを使って、教えを説いておられます。イエスは「食事をする」ことに意味を与え、それを通して、大切な真理を教えようとしておられます。今朝は、その中から三つのことを取り上げたいと思います。第一に「喜びの食事」、第二に「和解の食事」、第三に「いのちの食事」です。

 一、喜びの食事

 第一に「食事」は「喜び」を表わします。聖書は、神の国の喜びを「祝宴」にたとえています。ルカ15章に放蕩息子のたとえがあります。行方不明になっていた息子が家に帰ってきたとき、父親は「祝宴」を開きました。肥えた子牛が調理されました。子牛の肉は、成牛の肉(ビーフ)と区別され「ヴォー」と呼ばれて、とてもおいしいそうです。最高のごちそうが振舞われ、歌と踊りの音が家の外にまで響いたと、書かれています。この祝宴は、いなくなっていた息子を取り戻した喜びを表わすものでした。神の国は、今まで、神なく、望みなく生きてきた人が、自分を造り、救ってくださった神を信じ、神を賛美する者へと変えられていくところです。

 新聖歌に「神なく望みなく、さ迷いしわれも、救われて、主をほむる、身とはせられたり」(358)という賛美があります。私たちも、聖書の放蕩息子のように、神から遠く離れ、生きる目的も、意味も、また、希望も失っていました。けれども、神は、そんな私たちを心にとめてくださいました。放蕩息子の父親のように、私たちが神のもとに帰るのを待ち続け、私たちを両手をひろげて受け入れてくださったのです。イエスは「ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです」と言われました。天では、神も天使もひとりの人の救いを大喜びで祝ってくださるのです。罪びとが救われる喜び、失われていた者が回復する喜び、それが神の国の喜びです。聖書は、この大きな喜びを「祝宴」という言葉で表しています。

 この世が与える喜びは、一時的なものです。食べたり、飲んだり、珍しいものを見たり、などといったものは、「喜び」というよりは「楽しみ」と呼ばれるものです。世の「楽しみ」は過ぎ去っていくもので、それは私たちのたましいをほんとうには満たしてはくれません。しかし、神から来る「喜び」はいつまでもなくならないもので、私たちのたましいを満たします。それは、祝宴のごちそうにたとえられていますが、神の国の祝宴は、パーティーで食べたり、飲んだり、大騒ぎするのとは違っています。それは「義と平和と聖霊による喜び」です。

 放蕩息子のお話では、祝宴は放蕩息子のために開かれました。彼が、祝宴の主人公なのです。私たちは、祝宴の「お客さん」として招かれているのでなく、祝宴の主人公として招かれているのです。あまりにも苦しいことが続くとき、理不尽なことで傷めつけられるとき、私たちは心に喜びを失ってしまいやすいものです。そんなとき、天で、私のことが喜ばれ、祝われているのだということを思い起こしましょう。そうするなら、喜びを取り戻すことができるでしょう。私の知り合いに働き盛りのご主人ががんになり、手術の結果もあまり良くない姉妹がいます。いままで順調な生活をしてきたのが、一転して、大変な苦労を背負うようになりました。そのために喜びを見失っていました。しかし、今は、仕事から帰ってきてから、毎日一時間、静かな祈りの時間を持ち、その中で、もう一度信仰の喜びを取り戻しています。私たちが信仰の喜びを見失うことがあるかもしれませんが、信仰の喜びそのものは決して消えてなくなりません。それは天の喜びだからです。天の喜びを、神の喜びを自分のものとしていきましょう。

 二、和解の食事

 第二に、食事は「和解」を表わします。古代には、相手に損害をかけた人がそれを弁償し、相手と仲直りするとき、相手を食事に招き、いっしょに食事をしました。それは「和解の食事」と呼ばれました。それで、旧約時代の人々は、まず、神と和解して、神殿で「和解の食事」をしました。レビ記には「和解のいけにえ」のことが詳しく書かれています。人々は、いけにえとする動物を神殿に持ってきて、それを祭司に渡し、祭司は祭壇でそれを神にささげます。しかし、その肉を焼き尽くしてしまわないで、祭司がその一部をとり、ささげた人が残りを神殿で食べるのです。そうすることによって、和解のいけにえをささげた人は、自分の罪が赦され、自分が神に受け入れられたことを確認したのです。

 イエスを信じた弟子たちは、イエスを招いて食事をしました。取税人だったレビや同じくエリコの町の取税人のかしらであったザアカイもそうしました。それは、罪を悔い改め、イエスに従うようになったことを喜ぶとともに、聖なる主が罪びとを受け入れてくださったこと、罪びとが聖なるお方と和解をしたことを確認するものでした。

 イエスが「罪びと」と呼ばれた人々と食事をともにしていると、反対者たちは、「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのか」(マルコ2:16)と非難しました。イエスはそれに対して「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(マルコ2:17)と答え、罪びととの和解を力強く宣言されました。自分は大丈夫、正しいと自負していた人たちは、それによって神との和解を拒みましたが、自分の弱さを知り、間違いを認めた人たちは神との和解を喜び、それを感謝したのです。

 イエスが地上におられときには、弟子たちが食事を用意し、そこにイエスを招きました、しかし、イエスが天に帰られてからは、イエスのほうで食事を用意し私たちを招いておられます。黙示録3:20に「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」とのことばがあります。ほんとうは、神に背をむけ、イエスから遠ざかっている者のほうから、神に和解を申し入れなければならないのですが、イエスがその人たちを訪れ、その戸口を叩いて、和解を申し入れておられるのです。「わたしの声を聞いて戸をあけるなら」とありますが、私たちが心の扉を開くなら、天国の扉も開かれるのです。私たちの心の扉と天国の扉と連動しています。地上で心の扉を開く者は、天の扉をも開くのです。

 私たちが心の扉を開くなら、キリストは、私たちのところに入り、私たちとともに食事をし、私たちもキリストとともに食事をしてくださいます。「彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」というのは無駄な繰り返しのように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。キリストが私とともに食事をするだけでなく、私もまたキリストとともに食事をすると言われているのは、キリストを私とのまじわりが、一方向のものではなく、双方向のものになることを意味しています。私がキリストを受け入れとともに、キリストが私を受け入れてくださる。私がキリストを信頼するとともにキリストもまた私を信頼してくださる。キリストが私を愛してくださり、私もキリストを愛するようになる、それが双方向のまじわりです。「和解」というのは互いに受け入れ合うことですから、和解は双方向のまじわりでなければならないのです。キリストは私たちの応答を求めておられます。キリストはすでに和解を申し入れてくださっています。私たちがそれに答える番なのです。

 心の扉を開くのをためらわせているのは何でしょうか。多くの場合は恐れだと思います。ドアを叩いているのが誰だかわからないときは、ドアを開けるのが恐いものです。見知らぬ人が、みなさんの家のドアをドンドンと叩いたら、何があったのだろうと心配するのは当然です。しかし、私たちの心のドアを叩いておられるのが主イエスであること、しかも主イエスが私たちを責めるためではなく赦すために、罰するためではなく和解するために来てくださっていることを知るなら、恐れは消えていきます。主イエスとの交わりの幸いに満たされるのです。

 三、いのちの食事

 第三に、「食事」は「いのち」を表します。食事ができなければ人は死んでしまいます。「食べる」というのは「生きる」ということを表しているのです。とくに、イエスが弟子たちといっしょに守られた過越の食事は、キリストが私たちが永遠のいのちに生きるための、いのちの糧になってくださったことを物語っています。

 主イエスは過越の祭のとき、エルサレムに上り、弟子たちといっしょに過越の食事をしました。そのとき、イエスは、パンを取り「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです」と言って、それを裂いて、弟子たちに与えました。また、ぶどう酒の杯についても、「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です」と言って、その杯を弟子たちに与えました。イエスのからだが裂かれる、イエスが血を流すというのは、あきらかに、過越の祭のときに裂かれ、血を流して死んでいく過越の小羊を指しています。神が、エジプトに、最初に生まれた子どもは皆死ぬという刑罰をくだされた時、イスラエルの人々は小羊をほふってその血を家の入り口に塗り、その刑罰を免れました。いわば、小羊はその家にいる人々の身代わりに死に、小羊が人々にいのちを与えたのです。イエスは「神の小羊」となって、血を流して死んでいかれました。それは私たちにいのちを与えるためでした。 

 私たちのからだは何かを食べて生きています。食事が私たちのからだのいのちを支えています。私たちの霊は、霊の食べ物によって生きます。イエスはその霊の食べ物としてご自分を私たちに与えてくださったのです。からだの食べ物は、どんなに栄養のあるもの、からだに良いものを選んで食べたとしても、私たちを永遠に生かしはしません。しかし、イエスを食する者は永遠に生きるのです。イエスは「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」(ヨハネ6:51)と言われました。イエスは、弟子たちと過越の食事をなさったとき、その食事によって、イエスご自身が、人々にいのちを与える食べ物そのものであることをお示しになり、また、ご自分をまことの食べ物として弟子たちに差し出されたのです。

 おいしいものをお腹いっぱい食べてばかりいるとからだを壊します。美食や過食が現代のさまざまな病気を引き起こしていることは良く知られていることです。健康のために食べ物に気をつけるように、霊的ないのちのためやたましいの健康のためにも心を配りたいと思います。「人はパンだけで生きるのではない」と言われているように、私たちが神のために生きるためには、そのいのちを養う食べ物が必要です。そして、その食べ物こそイエス・キリストです。

 さきほど、「イエスが地上におられときには、弟子たちが食事を用意し、そこにイエスを招いた」と話しました。しかし、過越の食事は別でした。それは、イエスが主人となって、弟子たちを客として招いた食事でした。今朝の箇所の少し前に書かれているように、イエスは早くからエルサレムのある家の二階の広間を手配しておられました。イエスが「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言われたように、それはイエスご自身が、長い間、その時を待ち望んで準備しておられたものでした。

 この過越の食事は、「最後の晩餐」とも呼ばれるように、イエスが地上で弟子たちといっしょにした最後の食事でした。この食事のあと、イエスは祭司長たちに捕まえられ、裁判で有罪とされ、総督に引き渡されます。そこに待っているのは十字架の死です。ふつうに考えれば、これで弟子たちと別れ、あとは苦しみの中に世を去っていく、そんな前夜の食事は、待ち望んでするものではありません。できれば、そんな時が来なければ良いと思うのが当然でしょう。しかし、イエスはそれを待ち望み、計画し、準備されました。なぜでしょう。それが「最後の晩餐」で終わらず、「最初の聖餐」となることを知っておられたからです。イエスはご自分の死によって、永遠のいのちへの道が開かれることを知っておられました。その復活によって、聖餐が人々をキリストのいのちに豊かに生かすものとなることを知っておられ、その時を待ち望みながら主は過越の食事をなさったのです。

 聖餐は「いのちの食事」です。イエス・キリストの死によって私たちは生きるのです。聖餐は「和解の食事」です。イエス・キリストの十字架で私たちは神と和解しました。聖餐は「喜びの食事」です。私たちはイエス・キリストの救いのゆえに、神を喜び、神とのまじわりを喜ぶのです。来月、私たちは聖餐を祝います。主が私たちにご自身を与えようとして、それを待ち望んでおられるように、私たちも聖餐を待ち望み、喜んで主をお受けする者となりたいと思います。主が「食事をいっしょにしましょう」と招いておられる招きに、何をさしおいてもお答えしたいと思います。

 (祈り)

 父なる神さま、主イエスは、「食べる」という、人間にとって生きるためになくてならないことを用いて、私たちに、救いの真理を明らかにしてくださいました。私たちが永遠のいのちに生きるために、御子イエスをお与えくださったことを感謝します。親しい者たちを食事をともにし、そのまじわりを楽しむように、主イエスとの生きた、いのちの交わり、主イエスに愛され、主イエスを愛する双方向のまじわりを、私たちに豊かにお与えください。私たちのいのちのパン、イエス・キリストのお名前で祈ります。

2/26/2012