神のものは神に

ルカ20:19-26

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20:19 律法学者、祭司長たちは、イエスが自分たちをさしてこのたとえを話されたと気づいたので、この際イエスに手をかけて捕えようとしたが、やはり民衆を恐れた。
20:20 さて、機会をねらっていた彼らは、義人を装った間者を送り、イエスのことばを取り上げて、総督の支配と権威にイエスを引き渡そう、と計った。
20:21 その間者たちは、イエスに質問して言った。「先生。私たちは、あなたがお話しになり、お教えになることは正しく、またあなたは分け隔てなどせず、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
20:22 ところで、私たちが、カイザルに税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか。」
20:23 イエスはそのたくらみを見抜いて彼らに言われた。
20:24 「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです。」と言った。
20:25 すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」
20:26 彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。

 一、神殿での教え

 エルサレムに入城したあと、イエスは神殿で人々に数多くのことを教えました。イエスが「神殿で人々を教えた」と聞くと、私たちは「イエスがガリラヤだけでなく、エルサレムでも大勢の人を教えることができてよかった」と思ってしまいますが、イエスを取り巻く状況は決して良いものではありませんでした。

 イエスがラザロを生き返らせてから、祭司長やパリサイ人たちは最高法院を開いて、イエスを殺害する計画を立てました。そして、「イエスがどこにいるかを知っている者は報告するように」という命令を出しました。いわば「指名手配」のようなものです。それでイエスは、ラザロを生き返らせてから、しばらくユダヤの地を離れ、身を隠していました。過越祭を守るためにエルサレム入りした人々の間で、「イエスは、ほんとうに、この過越祭にくるのだろうか」と心配する声もありました(ヨハネ11:56-57)。

 しかし、イエスはエルサレムにやって来ました。隠れてではなく、大勢の人々の賛美の中を、ろばの子に乗って来られたのです。そして、白昼堂々と、神殿で人々を教えました。イエスの回りにはいつも群衆がいたので、祭司長やパリサイ人たちは、群衆に妨げられることを恐れ、イエスを捕まえることができませんでした(19節)。しかし、彼らはそれであきらめることはしませんでした。イエスが夜、休んでいる場所をつきとめ、真夜中に寝込みを襲って捕まえようと企みました。そしてその企みを実行に移すため、イスカリオテ・ユダを買収したのでした。また、イエスが群衆を教えているとろこに律法学者を送り込んで、トリッキーな質問をさせ、群衆の前でイエスを困らせ、人々の心をイエスから引き離そうともしました(20節)。

 二、カイザルのものはカイザルに

 ユダヤの指導者たちから派遣されてきた人々は、「私たちが、カイザル〔ローマ皇帝〕に税金を納めることは、律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」(22節)とイエスに質問しましたが、もし、イエスが「カイザルに税を納めるのは律法にかなっている」と言ったら、彼らは「律法のどこにカイザルのことが書いてあるのか、それはユダヤ人の誇りを踏みにじり、ローマに屈服することだ」と言い、もし、「それは律法にかなっていない」と答えたら、「あなたはローマに反逆する者だ」と言って訴えようと待ち構えていたのです。イエスは彼らのたくらみを見抜いて、こう言いました。「デナリ銀貨をわたしに見せなさい。」誰かがふところの金入れからそれを取り出し、手に乗せ、イエスに見せました。イエスはそれを見て「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか」と言いました。イエスの時代のデナリ銀貨には、ローマ皇帝アウグストゥスの肖像が刻まれていたので、彼らは答えました。「カイザルのです。」するとイエスはこう言いました。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 ローマへの納税はローマの通貨で行います。ローマの通貨はカイザルのものだから「カイザルに返しなさい」、しかし、律法が命じている神への義務は「神に返しなさい」というわけです。イエスの答は神の律法にかない、また理性にかなったものでした。反対者たちはイエスのことばじりをとらえることができず、イエスを罠にかけようとして、かえって、自分たちがやりこめられてしまったのです。

 「カイザルのものはカイザルに。」教会は、この教えに従ってきました。ローマ13:1-8には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。…あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。…他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです」と教えています。立てられた権威に従い、税を納めることは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)という律法の戒めに適ったことなのです。

 信仰者は法を守り、良い市民であろうとします。神に対して誠実な人は、人に対しても誠実であろうとし、自分の言動に責任を持って生きる努力をします。信仰者が仕事や人間関係で不誠実であったら、その人の神への誠実さが疑われてもやむをえないでしょう。神への信仰、つまり、神との正しい関係が、人と人との関係の中にも、また、自分が果たすべき仕事においても、反映されていくとき、それが「信仰の証」となり、真実な神を人々に知らせるものとなるのです。

 また、信仰者には、政府や社会に対してたんに義務や責任を果たすだけでなく、それ以上のことが求められています。それは、祈ることです。テモテ第一2:1-3にこう教えられています。「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」大統領、知事、市長、また企業のCEOなどに対して、私たちは不満を口にすることはあっても、そうした人々が正しくものごとを行うことができるように祈ることが少ないと思います。よく、「社会が悪くなった」と嘆くことがありますが、では、この社会のために自分がどれだけ祈ってきたのか、イエスが教えたように、「地の塩」になり「世の光」になってきたのかと問われると、神の前で悔い改めるしかありません。聖書が教えるとおり、「上に立つ」人々のために、よく祈る者となりたいと思います。

 三、神のものは神に

 「カイザルのものはカイザルに。」これは、信仰者がそれぞれの国で良き市民として、その義務を果たすことを教えていますが、実は、信仰者には、もうひとつの国があります。それは神の国です。聖書が「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言っているように、すべてのキリスト者は、地上の国籍と天の国籍の両方を持つ「二重国籍者」です。イエスが「神のものは神に返しなさい」と言われたのは、神の国の民としての義務、責任を果たすことを言われたのです。地上で市民としての義務を果たすことは「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という戒めに基づいていますが、神の国の民としての義務を果たすことは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6:5)という戒めに基づいています。

 イエスは「神のものは神に返しなさい」と言われましたが、私たちが持っているもので、神のものでないものは何一つありません。私たちは皆、神に造られ、神に養われ、神によって守られてきました。いのちも、財産も、能力も、時間も、すべては神のものです。この国も、この州も、この町も神のものです。すべてを神にお返しして当然なのですが、神は、私たちにすべてとはおっしゃらず、与えられたものの十分の一、また時間であれば七日に一日をお求めになるだけで、残りの90パーセント、ほとんどの部分を私たちの自由に任せてくださいました。私たちにはそられを神からの恵み、祝福として楽しむことを許されています。この寛大な神に感謝し、「自由に」神に献げるのです。

 「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に。」初代のキリスト者はこの原則に従い、政治も社会もこの原則を守ってきました。ところが、ローマ皇帝がキリスト者に皇帝礼拝を強要しはじめたとき、この原則が破れました。皇帝アウグストゥスが紀元14年に亡くなった後、歴代の皇帝が「神」として祀られるようになりました。皇帝の像に香を焚き、神酒を注ぎ、皇帝の守護神に誓いを立てる儀式が行われたのです。81-91年に皇帝であったドミティアヌスは、生きているうちに自分が「主にして神である」と主張し、キリスト者にも皇帝礼拝を強要しました。使徒ヨハネがパトモス島に島流しにされたのはこのドミティアヌス帝の時でした。ヨハネはパトモス島からアジアの7つの教会へのメッセージを書きましたが、ペルガモ教会へのメッセージの中で、次のイエスの言葉を伝えています。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(黙示録2:13)ペルガモにはゼウスの神殿と皇帝礼拝の神殿とがありました。黙示録2:13の「サタンの王座」という言葉は、そうしたものを指しています。キリスト者は「カイザルのものはカイザルに」という原則に従って、忠実なローマ市民として生活していました。しかし、神でないものを神として礼拝することは「神のものは神に」という、信仰者にとって一番大切なものを否定することでしたから、キリスト者は皇帝礼拝を拒否しました。その結果、教会は非合法の危険な団体とみなされ、迫害を受けたのです。そのため多くの殉教者が生まれました。ペルガモ教会のアンテパスもまた、皇帝礼拝を拒否して殉教した人でした。しかし、「殉教者の血は教会の種となった」という言葉の通り、教会は、迫害されれば、されるほど、強くなり、ローマ帝国の隅々にまで広がっていったのです。

 同じようなことは歴史の中で繰り返されてきましたが、まことの信仰者たちは、国家であれ、何であれ、それが神にとってかわって、礼拝や忠誠を要求するようなことがあったなら、それに対して「NO」と言い、「神のものは神に」と主張してきました。イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」との戒めを第一の戒めと呼び、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との戒めを第二の戒めと呼びました。神への信仰、愛、忠誠が第一です。この世のどんな者も、神に代わって自分を礼拝せよ、自分を愛せということはできないのです。

 信仰の自由のあるアメリカでは「皇帝礼拝」のようなことを強要されることはないでしょう。しかし、「迫害」の無いところでは、「誘惑」が強いものです。金銭や財産、地位や名誉、その他、この世のものを、信仰者が、自分から進んで「神」にしてしまい、それにひれ伏してしまう誘惑がいたるところに潜んでいます。当然、神に対して向けるべき思いを、神以外のものに向けさせる力が強く働いています。そんなとき、「神のものは神に」というイエスの言葉を思い返し、誘惑を斥けましょう。私たちは「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」との第一の戒めを守り、「神のものは神に」お返ししていくことによってはじめて、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」との戒め守ることができるようになります。神に堅く信頼し、神を喜ぶ人がはじめて、職場でも、さまざまな人間関係においても、人々から信頼され、人々に喜ばれる歩みをすることができるのです。「神のものは神に。」この原則に立って、この一週も歩みましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、きょう、もう一度、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」という原則を教えてくださり、感謝します。イエスご自身がどんな場合でも、父なる神さま、あなたへの愛を第一にし、みこころに服従されたように、私たちもその足跡に従う者としてください。主イエスのお名前で祈ります。

10/11/2020