きょう救いを見た

ルカ2:25-32

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2:25 その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。
2:26 そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。
2:27 この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、
2:28 シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、
2:29 「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、
2:30 わたしの目が今あなたの救を見たのですから。
2:31 この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、
2:32 異邦人を照す啓示の光、み民イスラエルの栄光であります」。

 一、示された救い

 主イエスの降誕の物語は四つの出来事から成り立っています。The Annunciation(受胎告知)、The Visitation(マリヤのエリサベツ訪問)、The Nativity(降誕)、そして The Presentation(宮もうで)です。ふつう “Presentation” というと、企業の新製品の発表や、学会での研究成果の報告などを連想するのですが、この場合は、幼子イエスが神に捧げられることを意味しています。あるクリスチャンのリトリートの案内をもらったとき、会場が “Presentation Center” となっていたので、わたしは「ずいぶん現代的なところでやるのだな」と思いました。ところが行ってみると、山の奥の施設で、古いチヤペルなどがあり、想像していたところとは全く違っていました。その施設の “Presentation” という名前は、きょうの箇所から取られたことをはじめて知りました。

 旧約の律法によれば、最初に生まれた男の子は神のものであって、神に捧げられました。それは、出エジプトに由来している規定でした。イスラエルがエジプトから救い出されたのは、エジプト中の長子がすべて滅ぼされるという災いによってでした。しかし、神はイスラエルの長子のために、身代わりとなる過越の小羊を備えてくださいました。そのようにして神はイスラエルの長子たちを「贖われた」、つまり、ご自分のものとされたのです。イスラエルの長子は神のものですから、神にお捧げする、それが Presentation でした。

 子どもを「捧げる」といっても、実際は子どものかわりに動物の犠牲を捧げたのですが、マリヤとヨセフの場合は「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」が犠牲の動物のかわりに捧げられました。この規定は、犠牲の動物を手に入れることのできない貧しい人たちのための規定で、主イエスがいかに貧しさの中にお生まれになったかを示しています。

 しかし、考えてみれば、主イエスは「贖い主」です。贖い主であるお方が、律法の規定に従って、「贖われなければならない者」となったというのは、じつに、逆さまな話です。けれども、わたしたちはここに、贖い主が、ご自身を神への犠牲として捧げ、それによって人類を救うという、神の救いのご計画を見ることができるのです。主イエスは成人し、人々を教えたのち、人類を罪から贖うため、十字架の上でご自身をお捧げになりました。こともあろうに神の長子であるお方が、十字架という祭壇の上で屠られ、血を流されたのです。

 それで、使徒ヨハネは十字架を指してこう言いました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」(ヨハネ第一4:10)十字架は、じつに神の愛が形をとってあらわれたもの、神の愛の Presentation です。そして、主イエスの十字架を覚えて行う晩餐式は、十字架の Re-presentation です。十字架は歴史の中でただ一度だけの出来事ですが、晩餐式ではあの十字架が再現され、悔い改めと信仰をもって、真実に主を「覚える」人々は、そこで救いの十字架を見るのです。

 使徒パウロはガラテヤ3:1で「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか」と言っています。「十字架につけられたイエス・キリスト」はどのようにして人々の目の前に「描き出された」のでしょうか。パウロの説教とともに、晩餐式を通してだろうと思います。ガラテヤ人への手紙のこの言葉は、初代教会の主の晩餐での体験を語っていると思います。

 マリヤとヨセフは幼な子イエスのために犠牲の鳩二羽を神に捧げました。しかし神はそのひとり子を捧げられました。幼な子イエスの Presentation は、人から神への Presentation で終わるものではなく、神から人への無限、無償の愛の Presentation でもあったのです。

 二、見られた救い

 シメオンは、神殿にやってきたとき幼な子イエスに出会い、幼な子を抱き上げて、「きょう、わたしは救いを見た」と言って、神を賛美しました。シメオンは一面識もなかった幼な子を見て、どうしてこの幼な子が救い主であると分かったのでしょうか。幼な子イエスは、他の幼な子と違う特別な姿をしていたからでしょうか。

 わたしの娘がまだ小さい頃、真剣な顔をしてわたしに聞きました。「お父さん、赤ちゃんって赤いよね。」「そうだね。だから『赤ちゃん』って言うんだろうね。」「でも、イエスさまって、生まれたとき、緑色してたんだね。」「??」「だって、聖書に『あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられる《みどりご》を見つけます』って書いてあるよ。」口語訳で「幼な子」となっているところが新改訳では「みどりご」となっています。まだ小さな娘は、この言葉からイエスが緑の皮膚をしていたと想像したのです。「《みどりご》というのは《生まれたばかりの赤ん坊》のことだよ」と説明して娘に分かってもらいましたが、「みどりご」という言葉は、詩歌では使いますが、普段は使わないので、大人でも勘違いをしている人がいるかもしれません。

 幼な子イエスは、ふつうの赤ん坊と何一つ変わりませんでした。ところがシメオンはひと目見て、この幼な子が救い主であると分かりました。それは、聖書が言うように「聖霊によって」でした。シメオンには「聖霊が宿っていて」、「救い主に会うまでは死ぬことはない」との「聖霊の示しを受けて」いました。幼な子イエスとの出会いもシメオンが「御霊に感じて宮にはいった」ときに起こりました。

 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(コリント第一12:3)とあるように、人をキリストのもとに導くのは聖霊ですが、人間の側でも聖霊の導きを受けるために必要なものがあります。それは、シメオンについて「この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた」と書かれているように、神との正しい関係の中に生き、神の言葉の約束の成就を信じ、待ち望むということです。

 わたしたちはこの世に生きる限り、何事においても完全で、どんな失敗も間違いもなく、どんな罪も犯さないということはありえません。どんなに信仰深い人でも、それは変わりません。しかし、真実な信仰者は、罪を犯し、失敗しても、そのつど悔い改め、赦しときよめを願い求めます。常に自分と神との関係に心を配り、それを正していきます。神との正しい関係とは、神を必要としなくなるほど立派な人間になることではなく、神の赦しときよめ、愛とあわれみなしには生きてはいけないことを知って、神の恵みに信頼して生きることの中にあります。

 シメオンはすぐれた人格者で、立派な信仰者だったでしょう。しかし、彼はそのことで自分を誇ったり、人を見下げたりすることなく、ひたらすらに、人々の救いのために祈り、それを待ち望んでいました。彼の心が神と結びつき、彼の目が神の約束を見つめていたからこそ、聖霊は、彼を救い主に出会わせ、幼な子のイエスのうちに救いをお見せになったのです。

 降誕の物語では「発見する」「知る」という言葉が多く使われています。天使は羊飼いに「あなたがたは、幼な子が布にくるまって飼葉おけの中に寝かしてあるのを《見る》」(ルカ2:12)と言い、それを聞いた羊飼いたちは「さあ、ベツレヘムへ行って、主がお知らせ下さったその出来事を《見て》こようではないか」(ルカ2:15)と言っています。そして、羊飼いは「幼な子を《捜しあて》…彼らに《会った》上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝え」(ルカ2:16-17)ました。シメオンが「救いを見た」というときも、羊飼いたちが「幼な子を見た」という場合も、どちらも原語では「知る」という言葉が使われています。そして、ギリシャ語で「知る」という言葉には「知識として学んで知る」という言葉と、「見て、体験して知る」という言葉があるのですが、ここで使われているのは、あとのほう、「見て、体験して知る」という言葉です。

 救い主を知るというのは、救い主についてなんらかのことを学んで、それを知識として蓄えて終わるということではありません。羊飼いも、シメオンも、救い主を目で見、耳で聞き、手で触って知りました。彼らは、人となられた「救い」に出会ったのです。わたしたちも、そのようにして救い主イエス・キリストを「見て」、「知り」たいと思います。シメオンが「救いを見る」ことを生涯の目標にしたように、わたしたちもそのことを信仰の歩みの目標としたいと思います。

 三、今働く救い

 シメオンの賛歌は「今こそ、…去らせてくださいます」というラテン語の言葉から「ヌンク・ディミティス」と呼ばれてきました。シメオンは神から「救い主に会うまでは死ぬことはない」との示しを受けていましたが、この時、生涯をかけて待ち望んでいたその救い主に会ったのです。「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます」との言葉は、神の約束が成就した喜びを歌っています。

 このシメオンの賛歌は、古代に一日の終わりに唱えられる祈りとなりました。古代の信仰深い人たちは、一日を一生涯になぞらえて生活しました。一日の働きを終えて眠りに就くまえに、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしの目が今あなたの救いを見たのですから」と祈りました。わたしたちの誰も、次の日の朝、確実に目覚めることができると言い切ることはできません。眠っている間に、自分のからだに、また、この世界に何が起こるか、誰も分からないからです。信仰者たちは、たとえそうしたことがあったとしても、悔いのないように、きょうの一日のうちに「救い」を見て、知って、確信して休むのです。「きょう、わたしは救いを見た。」この謙虚な確信があれば、夜、安心して眠りに就くことができます。

 ここにいるすべての人々に申し上げたいのです。「きょう、わたしはキリストの救いを見た」ということがないまま眠りにつかないでください。救いを持たないまま、人生の日々を積み重ねないでください。「きょう」という日に、「今」という時にイエス・キリストの救いを信じ、受けいれ、それを体験してください。イエス・キリストとの正しい関係に立ち返り、それによって生かされる者となってください。

 シメオンの賛歌、「ヌンク・ディミティス」は、個人の就寝前の祈りとともに、礼拝の最後に会衆全員で歌われるようにもなりました。就寝前の祈りでは「今夜、世を去ることがあっても、主イエスよ、あなたに信頼します」という意味で、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに、この僕を安らかに去らせてくださいます」と唱えますが、礼拝のしめくくりに歌う場合は、「あなたは、わたしを『平安のうちに行きなさい』と世に遣わしてくださいました。この礼拝で見て、知った救いを、世に行って伝える者としてください」という意味で、これを歌うのです。

 晩餐式ののちに、シメオンの賛歌を唱えることはとても意義深いことです。なぜなら、わたしたちは、晩餐式でイエス・キリストの救いを目で見るからです。説教を通して耳で聞くだけでなく、晩餐式ではイエス・キリストの救いを目で見、手でさわり、舌で味わうのです。そして、そこでは、イエス・キリストの救いを、今から二千年前のこととしてではなく、今、ここで生きるわたしたちに対する救いとして受け取るのです。わたしたち自身も、わたしたちをとりまく状況も、一刻、一刻移り変わっています。一ヶ月前に主の晩餐にあずかったときと、一ヶ月後の今と、全く同じということはありません。一ヶ月前の恵みで生きるのでなく、きょう、新しく受ける恵みによって生きる必要があるのです。はじめてイエス・キリストを知った時の恵みは素晴らしいものですが、人は、何十年もの前の恵みだけで今を、また明日を生きることはできません。きょう、新しくキリストの救いを見出し、その恵みにあずかって、新しい歩みを始める必要があるのです。

 この礼拝を無駄に終わらせないでください。主の晩餐を単なる儀式にしないでください。ここでキリストの救いを見て、知って、救いの確信をいただき、そこから明日への歩みを、新しい年への歩みを始めようではありませんか。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたは御子を人として世に遣わし、わたしたちがあなたの救いを見ることができるようにしてくださいました。御子イエス・キリストは、救いのみわざを成し遂げて天に帰られましたが、決してわたしたちの手の届かないところに行かれたのではありません。「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」と仰って、この地上でも、パンとぶどう酒のもとにキリストを見て、知ることができるようにしてくださいました。これから守る主の晩餐を通して、シメオンとともに「きょう、わたしはあなたの救いを見ました」と言うことのできる信仰へと、わたしたちを導いてください。主イエスのお名前で祈ります。

12/31/2017