満ち足りた人生

ルカ2:25-33

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2:25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。
2:26 また、主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた。
2:27 彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。
2:28 すると、シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。
2:29 「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。
2:30 私の目があなたの御救いを見たからです。
2:31 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、
2:32 異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」
2:33 父と母は、幼子についていろいろ語られる事に驚いた。

 一、ほんとうの満足

 人は誰も「満足」を求めています。食べ物に不足し、物質的に貧しい時代には空腹を満たし、必要な品物を得ることがなによりの「満足」でした。今でも、食べ物が乏しく、物質的に貧しい人々地域に住む人々にとって、食べ物や生活に必要なものを手に入れることは切実な問題でしょう。しかし、それでも人には食べ物や持ち物だけでは満たされないものがあります。絶えずそれ以上の「満足」を求めています。お花を生ける花器や壷、皿や湯呑などを作る人は、自分の作った作品が気にいらないと、せっかく焼き上げたとしてもそれを壊してまた粘土から練り直し、作り直します。使うのに何の差し支えがなくても、そうするのです。たとえ他の人が「立派な作品ですね」と褒めても、自分が気に入るものが出来るまで何度でもやり直します。ずいぶん無駄なことをしているように見えますが、芸術家にとって大切なのは、自分の理想とする作品を作りあげるという「満足」なのです。芸術家ばかりでなく、スポーツ選手も、同じように「満足」を求めています。彼らは人より百分の一秒でも早く走ったり、泳いだりするために、必死に努力しています。そんなに早く走れなくても、「火事だ」というときには十分に安全なところに逃げることができますし、水に落ちたときも泳いで岸辺にたどりつくことができますから、百分の一秒の差を追っかけている姿は馬鹿げているように見えますが、スポーツ選手は自分の能力の限界まで到達することに「満足」を覚えてそうするのでしょう。

 人はそれぞれに自分の「満足」を求めてさまざまなことをしています。しかし、どんなにしても「満足」を得られずに、いつも不満を抱えたまま生きている人が大勢います。ある人が世界中の大金持ちにインタビューをしました。「どれぐらいお金があればいいと思いますか?」大金持ちはきまってこう答えたそうです。「いつももう少し欲しいと思います。」人の欲望は限りがなく、いつまでたっても「満足」することを知らないのです。伝道者の書に「金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。」(伝道者の書5:10)とある通りです。多くの人は持ち物(possesion)を手に入れると地位(position)を欲しがります。人の上に立ち、人をコントロールすることによって「満足」を得ようとするのです。しかし、人のたましいには持ち物(possesion)や地位(position)によっては満たされないものがあるのです。どんなに努力して自分がやりたいと願ってきたことを達成したとしても、たんなる自己実現だけでは、人はほんとうの「満足」にいたることはできません。また、人は自分を「満足」させるために他の人を利用したり、犠牲にしたりする醜さも持っています。そのような醜いこころによっては決してほんとうの満足にいたることはできないのです。そのことに気づき、ほんとうの「満足」に心を向けなければならないのですが、多くの人が醜い心で、間違った手段を使ってでも自己実現を図ろうとするので、この社会に争いが絶えないばかりか、ほんとうの満足がえられず、たえずあくせくしながらストレスがいっぱいの日々を送るようになるのです。

 人がほんとうの「満足」を得るのは、信仰と、信仰から来る正しい心をもってはじめて「満足」を知ることができます。ダビデは文武にすぐれ、あらゆるものに恵まれたイスラエルの王でした。しかし、ダビデは富を蓄えることや領土を拡張すること、人々の上に君臨することに「満足」を求めませんでした。ダビデは神を求め、神とのまじわりの中に「満足」を見出した人でした。ダビデは、神を求めない人々から攻撃の的にされたとき、詩篇17:15で「しかし、私は、正しい訴えで、御顔を仰ぎ見、目ざめるとき、あなたの御姿に満ち足りるでしょう。」と歌いました。ダビデを攻撃する人たちがたとえ財産や子どもを多く持っていることを誇り、財産を子孫に残すことができたとしても、それをうらやまない。自分には、天にもっと素晴らしいものを持っている、それは神ご自身だと言っているのです。詩篇65:4では「幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家、あなたの聖なる宮の良いもので満ち足りるでしょう。」と言って、神に近くあること、神によって心を満たされることを願い求めています。詩篇90:14には「どうか、朝には、あなたの恵みで私たちを満ち足らせ、私たちのすべての日に、喜び歌い、楽しむようにしてください。」との祈りがあり、詩篇107:9には「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。」という感謝のことばがあります。こうした祈りはダビデばかりでなく、まことの信仰者に共通した祈りでした。

 使徒パウロは、家柄も教育もある人で、ユダヤ社会の有望なリーダーのひとりでした。ピリピ3:5-6でパウロはこう言っています。「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。」パウロはこのような恵まれた環境や才能を誇り、それに頼っていました。けれどもそれによっては本当の満足を得ることはありませんでした。パウロはイエス・キリストに出会ってはじめてほんとうの「満足」を知りました。それがあまりにも素晴らしいものなので、パウロはピリピ人への手紙に続けてこう書いています。「しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。」(ピリピ3:7-8)

 パウロはピリピ4:11-12でこう言っています。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」(ピリピ4:11-12)「満ち足りることを学んだ」と言うのですが、その「秘訣」はいったい何なのでしょうか。それはイエス・キリストです。次の節に「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)とある通りです。パウロは私たちにも、同じ秘訣を身に着けるよう、勧めています。テモテ第一6:5-6です。「また、知性が腐ってしまって真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」「敬虔」とは信仰の具体的な表われのことです。どんな時にも心から神を恐れかしこみ、神を尊ぶ、謙虚な態度のことです。イエス・キリストを信じる信仰と、そこから生まれてくる敬虔さが、たましいの深みまで満たすほんとうの「満足」に至るのです。キリストを信じる信仰は、信仰を持ったらお金が儲かる、すぐに目に見える利益が得られるなどといった「ご利益信仰」ではありません。しかし、信仰と敬虔は必ず報われます。それはほんとうの満足という大きな「利益」を私たちにもたらしてくれるのです。

 二、満足のある人生

 今朝の箇所に出てくるシメオンは、そのような信仰の満足、敬虔さの報いを体験した人でした。聖書はシメオンについて「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。」(ルカ2:25)と言っています。「正しい、敬虔な」というのは、シメオンが神のことばに従った生活を、まごころからしていたことを言っています。「イスラエルの慰められること」というのは、救い主が現れ、神の救いがもたらされることを意味しています。シメオンは、救い主と神の救いを熱心に「待ち望んでいた」人でした。シメオンの信仰は飾り物の信仰ではなく、生きて働く信仰でした。シメオンはその信仰によって、救い主をその腕に抱き、長く求めてきた救いの実現を見て、人生の満足を得たのです。

 シメオンは赤ちゃんのイエスを抱き、こう賛美しました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」(ルカ2:29-32)この賛美は「シメオンの歌」、あるいはこの賛美の最初のことばから「Nunc Dimittis(今こそ去る)」と呼ばれました。同じようにルカ1:46-55の「マリヤの歌」は「Magnificat(あがめます)」、ルカ1:68-79にある「ザカリヤの歌」は「Benedictus(ほめたたえよ)」と呼ばれます。「ザカリヤの歌」、「マリヤの歌」、そして「シメオンの歌」の三つは古くから人々の日々の祈りとして唱えられてきました。「ザカリヤの歌」には「日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし」(ルカ1:78-79)とあるので、朝の祈りとして用いられ、マリヤの歌は夕方の祈りとして唱えられました。「シメオンの歌」は就寝前の祈りでした。信仰者は「一日一生」の気持ちで生き、一日の終わりに、自分の生涯の終わりを思い描いて、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。」と祈ったのです。そう祈ることによって、神こそが自分の生涯にほんとうの満足を与えてくださるお方であることを覚えたのです。

 シメオンの満足は 彼がその目で神の救いを「見た」ことにありました。「見る」というのは、物事の成就を表わします。シメオンはそれまで神の救いを「待ち望んでいた」のです。「待ち望む」というのは、まだ見ていないものについて使う言葉です。シメオンはやがて来る神の救いを生涯をかけて待ち望んだ人でした。彼のその忍耐は無駄にはならず、シメオンは待ち望んでいたものをついに見たのです。このことは神が神を待ち望む者にかならず報いてくださることを教えています。ある人は家族の救いを待ち望んでいるでしょう。ある人は信仰から離れた自分のこどもが神に立ち返るのを待ち望んでいるでしょう。ある人は病気のいやしを切実に待ち望んでいるでしょう。ある人は人教会がきよめられリバイバルが起こるのを待ち望んでいるでしょう。信仰によって待ち望む者は、ついにその実現を見るのです。時間がかかるかもしれません。さらに忍耐が必要かもしれません。しかし、神を待ち望む者の期待は裏切られることはありません。私たちの生涯の終わりにも、神の救いを見て満ち足りる、そのような約束の成就をさらに祈り求めましょう。

 物を見るには光が要りますが、シメオンは、その光はキリストであると言っています。「御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」キリストはイエスラエルだけの救い主ではなく、「万民」の、「異邦人」のための救い主です。神は地上のすべての人のために、救い主を送ってくださいました。すべての人はこの救い主、キリストによって、神の救いを見るのです。

 しかし、すべての人がこの光を見ようとしないことも事実です。「光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。」(ヨハネ3:19)とある通りです。赤ちゃんのイエスが神殿に連れてこられたとき、この赤ちゃんこそ救い主だと知ったのはシメオンとアンナだけでした。イエスがお生まれになったときには、「飼葉おけに寝ている」赤ちゃんというしるしがありましたが、このときは何のしるしもありませんでした。イエスは人の目には他の赤ちゃんと何も変ったところがなかったからです。しかし、シメオンは聖霊の示しを受け、信仰によってこの赤ちゃんが救い主だと知りました。私たちも信仰の目を開いて光を見ましょう。イエスは弟子たちに「あなたがたの見ていることを見る目は幸いです。」(ルカ10:23)と言われました。信仰の目を開くなら、救い主のすばらしさと、救いの豊かさとを、シメオンが見た以上に、私たちは見ることができるのです。私たちの生涯は、誰にもただ一度しかない貴重なものです。それをただ虚しいものだけで埋め尽くしてしまうのはあまりにももったいないと思います。シメオンのように自分の生涯を満ち足りて閉じることができるために、私たちも神によって、たましいの奥底から満たされていく信仰の「満足」を祈り求めていきましょう。

 (祈り)

 父なる神さま、あなたはあなたに求める者を空手で帰らせることはなさいません。あなたを待ち望む者に待ち望んだことの成就を見させないでおくことはありません。私たちがそれぞれに、あなたにあって、信仰によってあなたに求めていることがらの成就を見させてください。そして、私たちのたましいをあなたの臨在とあなたのみわざ、みことばによって満たしてください。主イエスのお名前で祈ります。

12/12/2010