いる場所がなかった

ルカ2:1-7

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2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。
2:2 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。
2:3 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。
2:4 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。
2:5 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 一、受け入れられなかった救い主

 「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。」日本の哲学者、三木清の言葉です。一人で山に登り、テントを張ってそこで過ごしても、孤独を感じません。けれども、山から降りて、人々の間で生活を始めると、かえって孤独を感じます。大勢の人がいても、誰も自分に関心を持ってくれないという寂しさです。じつに、「孤独は山になく、街にある」のです。

 マザー・テレサが日本に来たとき、こう言いました。「今朝、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」多くの人が大勢の人の中で孤独を感じています。会社のグループの中で、学校のクラスで、友人たちや、家族の中でさえ、「自分は受け入れられていない」、「自分はここにいなくてもいい人間なんだ」、「いや、ここにいてはいけない人間なんだ」といった疎外感を感じながら生きています。誰ともつながることができない孤独な心、それは、まさに、マザー・テレサが言う「心の貧困」です。そして、疎外された心ほど、傷つけられた心はありません。多くの人がそうした心の傷を抱え、それを癒やされないままに生きています。

 聖書が描くクリスマスの物語は、私たちの救い主が疎外された人々の中に、孤独のうちに生まれたことを告げています。マリアがヨセフとともにベツレヘムに行ったのは、ローマの人口調査に登録するためでした。「人口調査」といっても、アメリカで10年ごとに行われる「センサス」のようなものではありません。このときの住民登録は、ローマ市民の特権を受けるためのものではなく、逆に、ローマに隷属する者となって税を収める義務を負う者となる、そのための登録でした。ヨセフは、ユダヤのダビデ王の子孫で、世が世であれば、ユダヤの王となったかもしれない人です。ところが、この登録によってローマの奴隷となろうとしていたのです。このときのユダヤの人々は、世界の中で見捨てられ、疎外された民でした。救い主は、そんなユダヤの民の一人として、お生まれになったのです。

 それだけではありません。救い主イエスは、同じユダヤの民からも受け入れられませんでした。ユダヤの人々には、やがて救い主が遣わされるとの約束が示されていて、人々は救い主を待ち望んでいました。しかし、人々が、イエスに求めたのは、罪の赦しとそこから来る祝福、神の国での永遠の幸いではなく、ローマからの独立であり、ユダヤ民族の政治的な復興でした。それなのに人々は、自分たちの救い主を、自分たちが一番憎んでいたはずのローマの総督の手に引き渡し、十字架につけてしまったのです。イエスは、ご自分の民にも受け入れられず、斥けられた救い主でした。

 赤ちゃんが生まれる時には、ふつうなら、お産をするための清潔な部屋が用意されます。ところが母マリアのためには、一部屋もなく、イエスを出産したのは、家畜小屋でした。当時の家畜小屋はたいてい小高い丘のふもとをくり抜き、そのほらあなの入り口に申し訳け程度の柵をつけたものでした。救い主は、暗くて、臭くて、汚い家畜小屋で生まれたのです。ルカの福音書は「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と言っています。イエスが家畜小屋で生まれたことは、ヨハネ1:11に「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった」とあることを、目に見える形で描き出したものと言えるでしょう。

 救い主は、まずはユダヤの人々のところに遣わされましたが、決してユダヤの人たちだけの救い主ではなく、すべての人の救い主です。世界に80億の人々がいても、神はただお一人であり、救い主もただお一人です。聖書は「神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです」(テモテ第一2:5)と教えています。

 ヨハネの福音書は、その第1章で、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と言って、救い主を「ことば」と呼んでいます。また「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」(ヨハネ1:4)とも言って、救い主を「いのち」、また「光」と呼んでいます。ここでの「ことば」には、ものごとの「根源」という意味があります。そして、根源にあるものは常に一つです。この世界のすべては神によって造られ、命あるものはすべて神によって生かされています。ですから、救い主が「ことば」と呼ばれ、「いのち」と呼ばれるのは、当然のことです。救い主が「光」と呼ばれるのは、私たちが光によってものを見ることができるように、救い主が私たちに神を見せてくださったからです。イエスによらなければ、誰も、私たちを造り、愛し、救ってくださる神がおられることも、神によって造られた私たち一人ひとりがどんなに価値あるものか、何のために生かされているのかを知ることができなかったでしょう。光は聖さや喜びなどを表します。罪の暗闇から私たちを救い出し、私たちの心を照らし、歩むべき道を照らしてくださるのは光であるイエス・キリストです。

 ところが、私たちは、光であるキリストに背を向けてきました。ヨハネ1:10に、「この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった」とあります。この「世」という言葉には、ユダヤの人々だけでなく、世界のすべての人が含まれます。ヨハネ1:10は、世界のすべてが救い主を受け入れなかった、また、ヨハネ1:11は、神の民とされた人々さえもそうだったと言っているのです。

 それでも、神は、私たちに光を届けようとしておられます。今日、世界中のほとんどの人が「クリスマス」を祝います。「きよしこの夜」を歌います。「きよしこの夜、星は光り、救いの御子は、まぶねの中に、眠りたもう、いとやすく。」この歌は、イエスが救い主、神の御子であることを教え、そんなお方が馬小屋の飼い葉桶に寝かせらたのはなぜかを考えるようにと、私たちに問いかけています。クリスマスのイルミネーションを見るとき、キリストがくださる光、いや光であるキリストによって心を照らしていただきたいと願いましょう。

 二、受け入れてくださる救い主

 ヨハネ1:10と11は私たちがイエスを受け入れなかったと言っていました。ところが、1:12は、イエスが私たちを受け入れてくださると言っています。「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」イエスは、ご自分が人々から斥けられたにもかかわらず、ご自分のところに来る者を受け入れ、神の子どもとしてくださるのです。「神の子どもとされる特権」、それはどんな「特権」なのでしょう。罪を赦されて、神に近づくことができるという特権です。神を「父」と呼んで、神の家族の一員にされるという特権です。あるサンデースクールの教材に、「あなたも王子さま、王女さま」というレッスンがありました。神はあらゆるものの主です。王です。そうであるなら、神の子どもとされるとは、天のロイヤル・ファミリーの一員となるということです。「あなたも王子さま、王女さま」というのは、その通りなのです。救い主イエス・キリストを受け入れるとき、神から遠く離れていた私たちも、神を天の父とする神の家族に受け入れられるのです。クリスマスはイエスのお誕生を祝うだけでなく、私たちが神の御子によって神の子どもとして新しく生まれたことを喜ぶときでもあるのです。イエス・キリストを信じた者は、この喜びを知っています。そのことで一つのお話をして終わりたいと思います。

 ベンという男の子がいました。ベンはテネシー州のニューポートで生まれましたが、同じテネシーの東部の丘のふもとの町に移ってきました。ベンの母親は結婚せずに彼を産みました。その時代には、そうした母親とその子どもは、まわりの人々から、のけものにされたり、非難されたりしました。親たちもまた、自分の子どもを未婚の母の子どもと遊ばせないようにしました。

 ベンが大きくなるにつれて、他の子どもはベンに「お前の父さんは誰なんだ」などといってからかいました。ベンは、学校で遊び時間にはひとりで自分の席に座っていました。プレーグラウンドで他の子どもたちからいじめられないためでした。ランチもひとりで食べていました。

 ベンが12歳になった、ある夏のこと、その町に新しい牧師がやって来ました。ベンは、この牧師のよい評判を聞きました。それまで一度も教会に行ったことがありませんでしたが、ある日曜日、教会に行って、その牧師から話を聞こうと思い立ちました。ベンは、誰にも会わないですむように、教会に遅く行って、後ろの席にそっと座り、礼拝が終わらないうちに帰りました。

 週を重ねるにつれ、聖書のメッセージに心が惹かれていきました。6回目の日曜日には、メッセージを聞いて心がいっぱいになり、早く帰るのを忘れてしまいました。

 礼拝が終わると、同じ年齢の子どもたちがベンを取り囲み、ベンはそこから抜け出せなくなりました。やっとの思いで抜け出そうとしているとき、誰かがベンの肩に手を置きました。振り返って、見上げてみると、牧師がにっこり笑っていました。そして牧師は、ベンが一番聞きたくない質問をしました。「君は誰の子どもだい?」

 皆が静かになりました。ベンは皆の目が自分に向けられているのを感じて心が沈みました。ベンは思いました。「この牧師は違うと思っていた。でも、この人も同じだった。…早く外に出たい。でも、どうやってここから抜け出せるんだろうか。」ベンが何かを言おうとしたとき、その牧師は、こう言いました。「君が誰の子どもか知ってるよ。家族もみんなここにいるじゃないか。君は神の子どもだよ。」牧師はベンの背中をたたいて言いました。「君は神から大きな使命を受け継いでいるんだ。さあ、行って、それに恥じない生活をしなさい。」

 その日からベンの生涯は変わりました。テネシーの町の小さな田舎の教会で、彼はキリストを信じる決心をしました。ベンは天の父の子となったのです。

 この少年ベンが、のちにテネシー州の下院議員(1893-97)、第31代テネシー州の知事(1911-15)になった Ben W. Hooper です。州知事であった間彼は、女性の労働者や子どもたちのために尽くしました。知事を退任した後も、鉄道労働者の待遇改善のために働きました。

 彼の死後、その自伝が『望まれなかった少年』という題で出版されました。けれども、実際は、彼は「神に望まれて生まれた」子だったのです。「望まれなかった子ども」などどこにもいません。すべての子どもは、どんな境遇にあっても、すべて神に望まれ、神に愛され、神を愛する者として生まれてくるのです。私たちの誰ひとり例外ではありません。しかし、この世では、多くの人が疎外され、孤独を感じています。私たちの救い主はその痛みと悲しみを知っておられます。この救い主を受け入れるとき、孤独と疎外の傷は癒やされます。神の子どもとしての新しい人生が始まるのです。ルカ2:7に「宿屋には彼らのいる場所がなかった」とありますが、あなたの心にも救い主イエスを迎える場所がないのでしょうか。いいえ、誰の心にもその場所があります。心に不安や孤独、虚しさを感じる場所がありませんか。心のどこかに疼く傷がありませんか。そここそ、救い主イエス・キリストを迎える場所です。そこに救い主を迎えるとき、あなたの心は満たされます。そして、ほんとうのクリスマスを祝うことができるのです。

 (祈り)

 父なる神さま。私たちがあなたに受け入れられ、あなたのもとに近づくことができるために、「ことば」であり、「いのち」であり、「光」であるイエス・キリストを私たちのところに遣わしてくださったことを感謝します。私たちはあなたの御子を受け入れず、斥けてきたのに、あなたは、そのような私たちにさえ忍耐をもって呼びかけ、あなたの子どもとして受け入れてくださいました。あなたの、この大きく、深い愛を知って、救い主を受けれる人々をひとりでも多く与えてください。イエス・キリストのお名前で祈ります。

12/19/2021