愛〜ベツレヘムのキャンドル

ルカ2:1-7

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2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。
2:3 それで、人々はみな、登録のために、それぞれ自分の町に向かって行った。
2:4 ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、
2:5 身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。
2:6 ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。

 今日は待降節の第四のサンデーで、ちょうどクリスマス・イヴとなりました。伝統的にはクリスマス・イヴには夜の11時ごろから礼拝をささげ、礼拝の中でクリスマスデーを迎えるのですが、私たちの教会ではそのようなクリスマス・イヴ礼拝をしていませんし、肝心のクリスマスにも礼拝をしていません。ですから、今日のアドベント第四サンデーの礼拝が、私たちにとっての「クリスマス礼拝」になります。クリスマス・イヴやクリスマス・デーは、仕事から、家事から、そして、ショッピングからも解放されて、家族や友人と楽しく、あるいはのんびりと過ごす日になりました。まとまった休みをとれない人たちには、家族そろって小さな旅行ができるチャンスかもしれません。年中忙しく、家族揃って何かをすることが少ない現代の私たちにはそのようなクリスマスの過ごし方もまた必要なことかもしれません。しかし、そのような中でも、クリスマスの主人公であるイエス・キリストを忘れないようにしてください。教会では、アドベント・キャンドルを灯して、イエス・キリストを覚えました。同じように、皆さんの家庭でも、アドベント・キャンドルを灯し、賛美を歌い、聖書を読み、祈りをささげるひと時を持ってください。”Keep Christ In Christmas” ということばがあるように、イエス・キリストを忘れないようにしましょう。

 ところで、アドベントやクリスマスにキャンドルを灯すのはなぜでしょうか。それは、キリストが私たちの光であることを表わすためです。古代のローマの暦では、12月25日が冬至で、一年で昼が一番短く、夜の長い日になります。クリスマスが、12月25日に祝われるのは、冬至が過ぎて、徐々に日が長くなっていくことと関係があります。「義の太陽」であるイエス・キリストがこの世界を照らしてくださることを、季節の変わり目からも感じとるためです。アドベント・キャンドルは、最初の日曜日には一本目を、次の日曜日には一本目と二本目を、第三の日曜日には、一本目から三本目のキャンドルを、そして、第四の日曜日には、四本のキャンドル全部に火を灯します。クリスマスに向けて、火を灯すキャンドルの数が増え、一週ごとに明るさを増していく様子は、世の光であるキリストが来られ、その光で私たちを照らしてくださることを表わしています。

 一、真理の光であるキリスト

 では、光であるキリストが来てくださる時、何たちにどんなことが起こるのでしょうか。第一に、私たちは「真理」に導かれます。聖書では「闇」は「無知」や「偽り」を意味し、「光」は「知識」や「真理」を表わします。私たちの心に、私たちの人生にイエス・キリストが来てくださるまで、私たちは、本当の神を知りませんでした。それで、本当は神ではないものを拝んでいました。あるいは、神がいてもいなくても、自分の人生には何の関係もないと思っていました。神なしでも、自分は自分の力でちゃんとやっていける。自分は自分のやりたいようにやり、生きたいように生きるのだとうそぶいていました。それでいて、心の奥底では「何かが足りない。何かかがおかしい。」という不安が常にあったのです。しかし、この心の暗闇から救ってくれるものが何であるか分からずにいました。いろかんがえたり、やったりしても、それは闇の中で手探りをしているようなもので、どんな確かなものも手にすることはできませんでした。しかし、光であるキリストが来てくださった時、私たちは、真理の光に照らされて、まことの神を知り、自分の罪を示され、そして、私たちを罪から救ってくださるキリストの救いを見ることができたのです。聖書にこう書いてあります。「『光が、やみの中から輝き出よ。』と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」(コリント第二4:6)

 みなさんが、日中出かけていて、夜、家に帰ってきたとき、最初にするのは、何でしょうか。部屋の明かりをつけることですね。朝起きて、最初にするのも、窓のカーテンを開けて、光を部屋に入れることではないでしょうか。光なしには、何も見えません。同じように、私たちのたましいも、キリストの光なしには、救いにいたる道を見ることはできないのです。人間の知恵や知識によっては、私たちは神を知ることは出来ませんし、神が私たちに与えてくださった人生の意味を解くことはできません。誰もが、遅かれ早かれ、この世を去って永遠の世界に行かなければならないのですが、私たちを永遠に導くことのできるものは、この世には無いのです。それが出来るのは、永遠に生きておられるイエス・キリストだけです。キリストをあなたの人生に迎えてください。その時、キリストがあなたの人生を照らしてくださいます。あなたの人生を導く光になってくださいます。

 私たちが毎朝起きてカーテンを開け、光を部屋に取り込むように、すでにイエス・キリストを受け入れたクリスチャンも、毎日の生活に、日々キリストを迎え入れる必要があります。真理の光によって、はじめて、私たちは自分自身を正しく見ることができ、自分の生活を正していくことができるからです。このクリスマスが真理の光であるイエス・キリストを迎え入れるクリスマスでありますよう心から祈っています。

 二、いのちの光であるキリスト

 第二に、光であるキリストが来てくださる時、私たちにいのちが与えられます。イエス・キリストは言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)

 みなさんがよくご存知のように、植物はその葉に光を受けて、空気中の二酸化炭素と水から糖類(炭水化物)を合成して、それを養分にしていますね。これを「光合成」(こうごうせい、photosynthesis)と言って、植物は光のエネルギーによって生きているのです。植物は光合成の時、水を分解して酸素を作りだします。植物は、人間に有害な二酸化炭素を吸い取って、かわりに人間に必要な酸素を吐き出してくれます。人間もまた、光合成の恩恵を受けているのです。自然の仕組みについて知れば知るほど、この世界が決して偶然に出来上がったのでなく、神によって見事に設計され、神によって生かされていることが良くわかります。

 この間、新聞で読んだのですが、冬、日が短くなると、精神や身体に不調を来たす人が多くなるのだそうです。軽いうつ症状が出たり、不眠症になったり、過食症になったりします。それを「季節性感情障害」と言うのだそうですが、それを治療するには、太陽の光に一日二時間以上は照らされると良いそうです。北国で太陽の光を十分に浴びることのできない人には、太陽に似た成分の光を出すランプをつけて、その光を浴びます。それを「光療法」(Light Theraphy)と言います。カリフォルニアのように年中太陽の光を浴びることの出来るところでも、一日中オフィスに閉じこもっていれば、太陽の光が不足して病気になってしまうかもしれません。外に出て光を浴びる必要がありますね。このように、自然界は、すべてのものが生きるために光が必要なこと、光が私たちにいのちを与えることを教えていますが、それは光であるキリストが私たちに永遠のいのちを与えてくださることを示しているのです。

 私たちは、バリバリ働き、精力的に生きてきたかもしれません。要領よく世の中を泳ぎ回って、うまく生きることができたかもしれません。しかし、それは本当の意味で神の前に生きるということではありません。それは、生きることの意味を知り、目的を持った生き方ではありません。そこには、生かされていることの喜びがありません。神なしの人生は、バリバリ働くことのできる時期が過ぎた時ただ漫然と時を過ごすだけになってしまいます。自分の知恵だけで生きてきた人は、人間の力でどうにもならないことに直面した時、人生を投げ出して生きる気力を失ってしまうのです。しかし、どんな人も、光であるキリストを迎える時、新しいいのちが与えられるのです。光であるキリストに従う時、私たちは、豊かな命に生かされ、神とともに生き、神のために生きる、本当の人生を送ることができます。

 三、愛の光であるキリスト

 第三に、光であるキリストが来てくださる時、私たちは、神の愛を受けます。ヨハネ第一4:9は「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」と教えています。キリストは、神の愛、私たちを救う神の愛を与えるために来てくださったのです。キリストの光は、冷たい光ではなく、神の愛をもたらす、暖かい光なのです。アドベントの第四番目のキャンドルは「愛のキャンドル」で、この神の愛を私たちに覚えさせるものです。

 ところで、この「愛のキャンドル」は、なぜ「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれるのでしょうか。「ベツレヘム」というのは、キリストが生まれた町の名前ですが、「ベツレヘム」と「神の愛」とはどう結びつくのでしょうか。手短に説明しましょう。

 今から三千五百年も前のことですが、イスラエルがエジプトで奴隷だった時、イスラエルの人々は、労役に苦しみ、うめき、叫び声を上げました。神はその声を聞かれ、イスラエルの先祖たちに与えた約束のゆえに、イスラエルの人々に目を留め、心を留め、彼らをエジプトの奴隷から解放してくださいました。神がイスラエルを救ってくださったのは、決して、イスラエルの人々が他の人よりも優れていたからではなく、むしろ、滅ぼされる運命にある弱く、小さな民族だったからこそ、あわれんでくださったのです。

 ところが、イスラエルは、神の一方的な愛によって救われたにもかかわらず、おごり高ぶり、まことの神を捨て、他の神々を拝み、不道徳なことをし、しかも、それを悔い改めませんでした。その結果、社会は乱れ、国は弱くなり、アッシリヤ、バビロン、シリア、そしてローマという大帝国に次々と踏みにじられ、独立と自由を失ってしまったのです。

 しかし、神は、そんな罪深い人々をもあわれんで、人々を罪から救う救い主を与えると約束してくださいました。そして、その救い主は、イスラエルで最も信仰の篤かったダビデ王の子孫として、ダビデ王と同じように、ベツレヘムで生まれると預言していてくださったのです(ミカ5:2)。しかし、長い年月の間に、人々は神の約束を忘れ、救い主への望みを捨ててしまっていました。けれども、神は、ご自分の約束を忘れてはおられませんでした。神は、イスラエルの人々の失望や不信仰にもかかわらず、約束の救い主を、クリスマスの夜、ベツレヘムに生まれさせてくださったのです。

 聖書に「ダビデの町、ベツレヘム」という町の名が出ているのは、救いの約束を決してお忘れにならない、神の変わらない愛を示すためです。「ベツレヘムのキャンドル」が「愛」を示し、「愛」を示すキャンドルが「ベツレヘムのキャンドル」と呼ばれるのはこのためです。

 この神の変わらない愛は、今から二千年前のイスラエルに示されただけではありません。神の愛は、今も変わることなく、私たち、イスラエル人とは縁もゆかりもない者たちにも注がれているのです。私たちはまことの神を求めず、救い主を知りませんでした。救い主について耳にしたとしても、それに無関心でした。なのに、神は、イエス・キリストによって、イスラエル人だけでなく、全世界のあらゆる人を救うと約束してくださったのです。神は私たちひとりびとりを愛して、じつに、あなたのために、私のために、救い主を与えてくださったのです。

 よく、「赤ちゃんは夫婦の愛の結晶」と言われますが、ベツレヘムの飼葉おけに寝かせられた赤ん坊は、「神の愛の結晶」です。神の愛は、決して漠然としたもの、ぼんやりとしたもの、実体の無いものではありません。「神の愛」は、ベツレヘムの町に、赤ん坊となってやってきました。ナザレの村で育った「神の愛」は、ヨルダン川でバプテスマ(洗礼)を受け、人々を教えました。人々はその声を聞き、その奇蹟を見ました。「神の愛」の足跡は、イスラエルのいたるところに残っています。人々は十字架の上に「神の愛」を見、死を打ち破って復活した「神の愛」を目撃しました。イエス・キリストが「神の愛」です。このイエス・キリストを信じる者は神の愛によって救われるのです。

 ある新聞の投書欄に、「どんなぼくでも好き?」というタイトルで次のような記事が載っていました。

ある日、小学1年生の息子が学校から帰って来るなり、
「ねえ、お母さん。ぼくがタコだったらどうする?」
「えっ。タコ?」
「そう。クネクネしたタコ。お母さん捨てちゃう?」
「でも、そのタコは、たかひろ君なんでしょう?」
「うん。そうだよ」。
「じゃあ捨てないよ」。
「ふうん」。
次に、息子は部屋中を走り回りながら、
「お母さん、もし、ぼくが何人もいたら、どうする?みんなあばれまわって、とってもうるさいよ」。
「えーっ。それはたいへんだね」。
「うん。うるさいから一人捨てちゃう?」
「でも、みんな、たかひろ君なんでしょう?」
「うん。そうだよ」。
「じゃあ、捨てないよ」。
「一人も?」
「うん。一人も」。
「ふうん……」。
ほほえましい母子の会話ですが、この会話に、こどもに対する母親の変わらない愛がよく表われていますね。神の愛は、 この母親の愛よりも、大きく、深く、そして決して変わらない愛です。神は言われます。「わたしはあなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヨシュア1:5)

 クリスマスには、アドベント・キャンドルの真ん中にある「キリストのキャンドル」に火を灯します。それは、キリストを、真理の光、いのちの光、また、愛の光として迎え入れることを意味しています。光であるキリストを迎え入れるのに、大きな信仰はいりません。光は、どんな小さな隙間からでも入ることができます。あなたの心をキリストに向けてください。ほんの少しでも、キリストに心を開くなら、キリストはそこから、あなたの心に入り、心の暗闇を追い払ってくださいます。あなたの生活に入って、それを光で照らしてくださいます。あなたの人生に希望を、平安を、喜びを、そして愛を与えてくださいます。キリストこそ、私たちの変わらない真理の光、いのちの光、愛の光です。

 (祈り)

 父なる神さま、真理の光、いのちの光、愛の光であるキリストを、私たちに与えてくださり、感謝いたします。このアドベントに、私たちは、キャンドルを灯しながら礼拝をささげ、キリストが私たちの光であることを、覚えました。私たちのもとに来てくださったまことの光を心に迎え、光に従って歩む私たちとしてください。礼拝のたびごとに、あなたの光に照らされて、「主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。」(詩篇27:1)と、あなたを賛美することができますように。御子イエスのお名前で祈ります。

12/24/2006